『リヴァイアサン』ポール・オースター
「世界は彼のまわりで変わってしまっていた。利己主義と不寛容、力こそ正義と信じて疑わぬ愚かしいアメリカ至上主義、といった昨今の風土にあって、サックス の意見は奇妙にとげとげしく説教臭いものに聞こえた。右翼がいたるところで力を得ているだけでも十分ひどい話なのに、彼にとっていっそう不安だったのは、 それに対する有効な対抗組織があらかた崩壊してしまったことだった。民主党は力尽きた。左翼はほぼ消滅した。ジャーナリズムは沈黙していた。」
引用文は、ロナルド・レーガンが台頭してきた1980年代のアメリカについて述べたものだが、文中のアメリカを日本に、サックスを誰かリベラルな作家名に変えれば、今の日本の状況そのものと言っていい。どこの国にもそういう時代があり、そんな時代に抗する人間もいれば、沈黙を守り、時代の波の過ぎ去るのを待つ人間もいる。また、単に批判するだけでなく、直接行動に出る人間だっている。全く逆の立場だったが、三島由紀夫がそうだった。
これは、一人の男が何故死ななければならなかったのかを、死んだ男の親友で同じ作家仲間であった男が、彼に関わる複数の男女の運命的な出会いと別れ、複雑に入り組んだ愛と性の縺れ合いを通して説き明かす物語である。舞台となっているのは、1975年から1990年までのアメリカ。
サックスの死から書き起こされた物語は、二人の出会いまでさかのぼる。語り手の新進作家ピーター・エアロンは、大雪で中止になったことも知らずに出かけた朗読会場で作家のベンジャミン・サックスと出会い意気投合する。サックスの小説『新コロッサス』は今のアメリカに対する憤りをバネにして書かれた大作であった。二人はそれ以来親しくつきあうようになる。
ピーターは、その後結婚し男児が生まれるが離婚。大学時代の憧れの人だったファニーと関係を持つ。彼女はサックスの妻になっていた。理想のカップルに見えたサックスとファニーだったが、ファニーの話ではサックスは他に女がいるという。一方サックスによれば、ファニーは子どもができない自分に悩み、夫の浮気を妄想、自分は妻の妄想に合わせて適当な浮気話を捏造していたという。いずれの物語が真実かは知る由もない。
ピーターはその後アリスという芸術家とつきあう。誘われて出かけたパーティーで、酒に酔ったサックスはアリスと話している最中に非常階段から転落する。幸いにも洗濯ひもに引っかかって命は助かるのだが、事故を契機にサックスは別人のように変わってしまう。ファニーと別居し、バーモントで一人執筆に励んでいたサックスはある日を境に消息を絶つ。後日、サックスから失踪の理由を聞かされたピーターは、その事件の背後に複雑に絡まりあった偶然の因子が作用していることに驚く。
玉突きの球が、別の球にぶつかり、今度はその球が全く別のところにあった球をポケットに落としてしまうように、偶然の連鎖が一人の男の人生を狂わせてしまう。非常階段から落ちていくとき、サックスは自分の死を見てしまう。ハメット著『マルタの鷹』第7章に出てくる「フリトクラフト」の主題がここでも響いている。一度死んだ者はそれまでの自分の人生を見直さずにはいられない。サックスは志半ばで不慮の死を遂げた男になりかわり、アメリカを覚醒させる仕事に取り組む。それは全米各地にある自由の女神像の爆破だった。
作家も、書くことを通じて世界に寄与はするだろうが、その作用たるやあまりにも緩慢である。世界は変革されなければならないと考えたとき、作家はそこに焦慮を覚えるのだろう。オースターはどちらかといえば政治的な作家ではない。しかし、アメリカ人であることを選択した作家として、当時のアメリカに言いたいことがあったにちがいない。「自由の怪人」という爆弾テロの犯人を創造するまでに。
ありえないような偶然の頻出に違和感を持つ読者がいるかもしれないが、オースターという作家は、嘘のような本当の話の収集家であり、エッセイ集『トゥルー・ストーリーズ』には自身や家族、知人が遭遇した実話が多数収録されている。因みに、屋根から落ちながら洗濯ロープで命拾いをしたのは作家の父である。現実にはそんな話は在り得ないという考えこそ誤りで、現実はそんな偶然で満ち満ちている、というのがオースターの考えである。作中のエピソードも、作者自身の経験がそのまま使用されている。以下の引用はピーターによるサックスの小説評だが、オースターの小説を想起せずにはいられない。
「どの逸話も真実であり、現実に根ざしているが、それでも、その組み合わせ方のせいで、それらはじわじわと幻想的な色合いを帯びていき、ほとんど悪夢か幻覚が綴られているような雰囲気が生じてくる。読み進むにつれて、作品全体からどんどん安定感が抜けていき、意表をつく結合や飛躍がつぎつぎ現われ、トーンの転換もますますめまぐるしくなっていく。そしてしまいには、作品全体 が空中に浮遊しはじめるような印象を受ける。巨大な観測気球が、地面から重々しく浮かび上がるような感じなのだ。」
もう一人の自分、という持ち前の主題をいつものように概念的なものでなく、よりリアルに造形してみせたところが今回のポイントだろう。オースターのファンでなくとも面白い作品に仕上がっている。