『トゥルー・ストーリーズ』ポール・オースター
「ほかに何を学ばなかったとしても、長い年月のなかで私もこれだけは学んだ。すなわち、ポケットに鉛筆があるなら、いつの日かそれを使いたい気持ちに駆られる可能性は大いにある。自分の子どもたちに好んで語るとおり、そうやって私は作家になったのである。 」
八歳のころ、大リーグの試合に連れていってもらい、球場出口でウィリー・メイズにあった。サインを頼むと彼は「坊や鉛筆は持っているか?」と訊いた。持っていなかった。家族の誰も持っていなかった。「鉛筆がなくちゃサインしてやれんよ」と彼は球場を後にしたのだった。「その夜以来、私はどこへ行くにも鉛筆を持ち歩くようになった」と作家は書いている。二度と同じ目に遭いたくなかったからだ。冒頭の引用はそれに続く結びの文である。なるほど。
愛読者なら、言わずと知れたことだが、オースターの作品には通常では考えられないほどの偶然が登場する。こうまで偶然が支配したら、いくらフィクションにしても話が嘘っぽくなる。普通の作家なら、そう考えてしまうところを、これでもかというくらいに偶然の出会いを連続使用する。「嘘のような本当の話」は現実に溢れているのに、「偶然の一致」を安手の仕掛けとして小説から排除してきた動きをオースターは批判する。
たしかに、現実を注意深く観察していると、シンクロニシティを実感することがある。たとえば、一定期間集中して、ある作者の本ばかりを追うことがある。寝ても覚めても一人の作者ばかりを追いかけていると、ふと立ち寄った古本屋で、いくら探しても見つからなかった、その作者の本が書棚に並んでいるのを発見することがある。
どうやらオースターの周りには、そんな話が集まってくるようだ。『トゥルー・ストーリーズ』は日本で編まれたエッセイ集である。内容は数章に分かれているが、そのうちの「赤いノートブック」と、「なぜ書くか」、「スイングしなけりゃ意味がない」、「事故報告」の四つが、その名の通り「嘘のような本当の話」を集めたエッセイ集になっている。
作家の自伝風エッセイというかたちで書かれた「その日暮らし」は、作家オースターというものがどのようにして成立したのかを本人の声で聞けるという、ファンにとってこれ以上はないほどの贈り物である。これまでに書かれた小説の中で何度も使われてきたばらばらのピース状であった挿話が、しかるべき位置に収まり、完成した一枚の絵のように浮かび上がってくる。どのエピソードがどの小説に使われたかを判別できる楽しみが用意されているわけだ。
「貧乏話をさせればオースターはいつだって最高だ」と、訳者もあとがきで書いているが、金銭の欠乏が理由で、食うに困る状態まで追いつめられる主人公には何度も会ってきた。どうしてそこまで自分を追い込むのだろうと思いながら読んできたが、次のような打ち明け話を聞かされると、やっぱりそうだったのか、と妙に納得してしまうのである。
「私の問題は、二重生活を送る気がないということだった。働くなんて嫌だ、というのではない。けれども、九時五時の職について毎日タイムカードをパンチすると思うと全然やる気が出ず、何の熱意も湧いてこなかった。二十代前半当時、身を落着けるにはまだ若いと私は思っていたし、やりたいことはたくさんあるのだから、欲しくもなく必要でもない金を稼ぐなんて時間の無駄だと思っていた。金銭に関しては、とにかく食べていければそれでよかったのだ。」
金がたまると船に乗って旧大陸を渡り歩いたようだ。若いオースターがジョイスの跡を追いながら、ダブリンの街を逍遥する姿はそのまま小説のようだ。様々な職についているが、そこで出会った著名人の逸話が読ませる。稀覯本商のところでカタログ作りを手伝っていたとき、ジョン・レノンがやってきて、「ハイ」と片手をつき出しながら「僕はジョン」と言ったのに、その手を握り返しながら「僕はポール」と名乗ったところなんか、まさに「嘘のような本当の話」である。