『移動祝祭日』ヘミングウェイ
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」という、ヘミングウェイ自身の言葉が題辞として付されている。見慣れないタイトルは、この言葉からとられたらしい。本来はキリスト教の用語で、クリスマスのように日にちが特定されておらず、その年の復活祭の日付に応じて移動する祝日のことだという。
その言葉通り、祝祭的な喜びに溢れた若い物書きのパリ暮らしが、リリカルに清新の気に満ちて描きだされている。舞台となっているのは、1921年から1926年にかけて。最初の妻ハドリーと共に安アパートで小説家修業をしていた当時を、後に思い出して綴ったものである。発表されたのは、死後であったため遺作とされた。
作家自身が、フィクションと見なしてもらってかまわないと書いているように、すぐれた短篇小説を読んだあとのような余韻が残るが、おそらくそのほとんどは事実にもとづいていると思われる。もちろん、四半世紀も昔のことである。しかも、老いをむかえて心身ともに下降状態に入っていた作家が、青春時代をすごした異郷での日々を回想したものである。そこに、記憶の美化や、またその逆に劣化がまじりこんだとしても誰がそれを責められよう。
ガートルード・スタイン女史やスコット・フィッツジェラルドとの交友について書かれた箇所には、その後のいろいろな経緯から見て割り引いて読まねばならぬような部分もあると想像される。概して人の好き嫌いははっきりしているようで、虫の好かない相手にはけんもほろろ。その反対に敬愛する友人や仲間には溢れんばかりの好意を示している。特に、シェイクスピア書店の店主シルヴィア・ビーチ、エズラ・パウンド、それにジェイムズ・ジョイスについて触れた部分からはヘミングウェイの真情がよく伝わってくる。
なんという華やかな時代だったことだろう。スタイン女史のサロンを介して、ピカソをはじめとする画家やパウンド、エリオットなどの詩人、作家仲間の刺激を受けながら、小説家修業ができるなんて。他の出版社が断ったジョイスの『ユリシーズ』を出版したのが、シェイクスピア書店だった。ヘミングウェイもまた、シルヴィア・ビーチに多くを負っている。ヘミングウェイとフィッツジェラルドのリヨン行きの膝栗毛など、苦い味わいもまじるものの、どこか微笑ましい。ブリクセン男爵やアレイスター・クロウリーといった有名人との出会いも、当時のパリならでは。
しかし、この作品のよさは、なんといっても徒手空拳の若者が、食うに事欠く日々のなかで、仕事場にしているホテルの寒い部屋や街角のカフェで、ノートを前に鉛筆を握っている姿が、冬枯れのパリの寒々とした佇まいのなかに、或はまた、春を迎えたセーヌの岸辺に、あざやかに浮かび上がってくることに尽きる。事実はここに書かれているほど金に困っていたわけではないらしい。要は、ヘミングウェイが自身に課した生活の掟だったのだろう。一篇の短篇を書き上げた後に口にする一杯の酒の美味そうなこと。
生涯に何度も離婚再婚を繰り返した作家は、その最晩年に、若き頃パリで共に暮らした最初の妻ハドリーとの愉しい日々を思い出していたのだろう。過去を懐かしむ哀惜の念が思い余って余情たっぷりの叙述を生んだ。次のような文章は、どうだろうか。
「この街がにわかに哀調を帯びるのは、冬の最初の氷雨が降りはじめる頃だった。道行く者の目にはもはや白く高い家屋の屋根は映らず、ただ濡れた黒い舗道や小さな店舗の閉ざされた戸口しか映らないその道筋には薬草店、文房具店や新聞販売店、それに二流の助産婦の家やヴェルレーヌが息を引きとったホテルなどが並んでおり、そのホテルの最上階の部屋を私は借りて仕事場にしていたのだった。」
佐伯祐三描くところのパリの裏通りを髣髴させる風景画が適度に感傷性を加味した筆でスケッチされている。しかし、この当時作家がものにしようと苦慮していたのは、形容詞を極力省いた無駄のないスタイルである。このストイックな文章作法は、カフェの片隅で空腹とたたかいながら身につけたものであった。このとき書いていたのが、のちに『われらの時代』に収められる短篇であったことが、その書き振りから想像できるのも読者としては楽しい。
旧訳と比べれば読みやすい現代日本語になっているが、あのヘミングウェイが「金」にわざわざ「お」をつけて「お金」と言ってみたり、店に入ってきた娘のことを「若い女性」と書いたりするだろうか。小さなことだが、気になった。できれば柴田元幸訳で読んでみたいと思った。