『ジョン・ランプリエールの辞書』ローレンス・ノーフォーク
ロンドンの地底に延びる地下通路、ヴォーカンソンの自動人形、人知れず地中海を航行する沈んだはずの三本マストの帆船。トマス・ピンチョンを思わせる道具立てに、エーコばりのギリシア神話に関する薀蓄を満載した歴史バロック・ミステリという触れ込みに、まずは舌なめずりさせられる読者は多いはず。
表題になっている、ジョン・ランプリエールの辞書は実在する(解説によればキーツの愛読書だったという)。ヘイマーケットのオペラハウスの炎上、フィールディングの弟で盲目の名判事サー・ジョンの活躍といった英国史上に残る様々な資料を調べ上げ、嘘八百を並べ立てた奇想天外なストーリーの要所要所に配して、さもそれらが事実であったかのように見せかける小説的詐術は、文学史上に名を残す先達の後塵を拝したもの。エーコやピンチョンの格調の高さには及びもつかないものの、そのパスティーシュと考えるならまあまあの出来といえる。
フランス西部の沖に浮かぶジャージー島。そこに暮らすランプリエール一族には積年の恨みがあった。密貿易の拠点として巨万の富を隠匿していたラ・ロシェルがユグノー教徒の巣としてフランス軍の攻撃を受けて孤立していたとき、独り曽祖父のフランソワが密命を帯び、英国の救援を求めるため島を出た。しかし、英国艦隊は島に近づけず、島民は全滅した。フランソワの仲間である密貿易グループは島民を見捨てて脱出。フランソワの家族は全員滅亡を遂げる。
ランプリエールの子孫は、一族の復讐を果たすため、密貿易の秘密を暴こうとするも、その都度阻止され、当主は暗殺されてきた。時はフランス革命を目前に控えた1788年、革命にかかる費用を密輸で捻出するという密約がユグノー教徒の一団と<カバラ>と称する密貿易グループとの間に交わされていた。そんな時、父チャールズの急死により遺産を相続することになった青年学士ジョンは、相続手続のためロンドンに到着する。
フランソワが貴族とかわした覚書にある相続されるべき莫大な遺産とは何か。折りしも、地中海を東に移動する鯨の背に乗り、座礁して海の藻屑と消えたはずの船が名前を変え、テムズを遡上しロンドンに現われた。史上に名高い「ラ・ロシェルの包囲」に端を発した因縁の対決は、ジョンの登場により大団円に向かって一気に加速する。
ギリシアの古典籍に詳しいジョンは、本で読んだものが可視化するという異様な想像力に悩まされていた。恋するジュリエットの水浴するところを覗き見たジョンの身代わりのように、近くにいた父は犬に噛まれて死んでしまう。有名なディアナの水浴のモチーフが具現化してしまったのだ。ロンドンで知り合ったセプティマスはジョンの気を紛らわすために辞書を書くことを勧める。Aから始まった辞書が完成に近づくにつれ、ダナエのように黄金の雨に打たれて死ぬ女や、山羊の屍骸にくるまれて殺される女、とギリシア神話の見立て殺人が続く。
陰惨な殺人劇の間には、老人ばかりの水夫による海賊船の活躍やら人造石でできた亀の彫刻がオペラ座の屋根を飾る話やら、スラップスティック仕立てのドタバタ劇が果てしもなく増殖し、最後は一気呵成にカタストロフへと爆走する。この辺の勢いはまさにジェット・コースター・ムービーの乗りで楽しませる。ロンドンの地下に巨大生物の化石が眠り、結晶化した動脈が地下通路と化し、心臓部が秘密のアジトになっているという設定なぞはばかばかしいが、縦横に走る通路にテムズの水が浸水し、とんでもない一大スペクタクルが現出する場面などは、ハリウッドの超大作を見るような心地がする。
ストーリー自体は、「ラ・ロシェルの包囲」に始まり、フランス革命に至るユグノー教徒とカトリックの戦いに英国と東インド会社によるインド貿易の独占による巨額の富をからませ、不幸な生い立ちの美女と、一族の運命を背負った気弱な学士の恋愛をスパイスにきかせた、ある一族の復讐譚と、一応は括れる。ディケンズを髣髴させるロンドン市街の活況を子細に描く情景描写や、帆船が大好きという作者の趣味が横溢した海洋冒険小説風の海や船に関する叙述、と読みどころは多い。個人的には、クロウズ・ネスト(檣上見張座)と名づけた屋根裏部屋に住み、四方に開けた窓からテムズを出入りする船舶を監視するのを習慣にしている引退したキャプテン・エビニーザ・ガーディアンが、作者の思い入れが感じられてお気に入りである。難しいことは言わず、一昔前の小説を読むつもりでつきあえば充分楽しませてくれるはずである。