青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『モンスターズ』B・J・ホラーズ編

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題名通りモンスターたちをモチーフにした短篇ばかりのアンソロジー。出版社も作家の名前も有名とはいえない。編集者が「モンスター」という共通項を頼りに探し当てた既存の作品や、これと見込んだ作家に依頼して新たに寄稿してもらった作品を集めたものである。ネームヴァリューや宣伝の差で、批評家の眼に留まることもなかったのか、本国でも評判にならなかった現代アメリカ作家の競作が日本語で読めるのは、翻訳者の目に留まったからだとか。作家たちにとって、日本の読者にとって幸運なことであった。拾い物である。

作者の創作による馴染みのない怪物もいるが、大方の素材となっているのは、フランケンシュタインの怪物や吸血鬼、ミイラ男といった面々。家庭が舞台の作品が多いからか、小説ではなく映画やテレビ・シリーズ物に登場するキャラクターたちが中心だ。自分がモンスターだと思い込んでいる少年や、自分の子がモンスターだとしか思えない母親、またモンスターを演じる俳優といった人たち。短篇ということもあり、真っ向勝負というよりは変化球主体の構成。ウィットともユーモアというのともちがう、サタイア或はアイロニーの色あいが強いのも特徴である。

実際のところ、フランケンシュタイン一つを例にとって見ても、モンスター物には、何故か悲哀が漂う。よくよく考えてみるまでもなく、そこにあるのは少数者ゆえの悲劇というものだろう。その生まれゆえの絶対的な孤独感、それに加えて、外貌の醜悪さや奇怪さ。心許せる仲間とてなく、圧倒的多数者の前に放り出され、自分の心情は考慮されることなく、はじめから異端者として迫害される運命。だからこそ、モンスターに心寄せるものは、彼らにシンパシーを抱くのだ。編集者の意図もその辺にあるのだろう、モンスター物であるのに、ホラー臭はさほど感じない。

むしろ、モンスターを世に入れられることのない単独者の隠喩であると見るのが正しいのかもしれない。着ぐるみやメイクアップ、仮装が重要なモチーフになっているように、仮面をかぶることでしか、ふつうの人々の間にいることができない、他に理解されない哀しさ辛さを噛みしめる孤独な人たち。彼らの内心をモンスターに託して描いてみせる作品が多いのは、むしろ不思議でもなんでもないのかもしれない。それだけ、家族や友人たちの無理解に苦しむ人が多いということなのだ。だからこそ、生きていることを実感したときの歓喜は素晴らしい感動を呼ぶ。

巻頭のジョン・マクナリー作「クリーチャー・フィーチャー」は、除け者意識を抱き、自分をモンスターに重ね合わせる少年の、母の妊娠に由来する焦慮や不安定な心理を描いた佳篇。母の出産の知らせを聞き、雨に打たれながら「生きているんだ!」と歓喜の叫びをあげる少年とフランケンシュタイン博士を二重写しにした構成が見事。オースティン・バンの「瓶詰め仔猫」は、交通事故で顔に火傷を負い、モンスターの顔になった少年のハロウィンの夜を舞台とする復讐劇。事故の原因を作った相手の少年は死んでいた。未来に希望のもてない少年は事故死した少年の妹を復讐相手に選び、クスリで眠らせ自分の思いを遂げようとする。眠り込む前の少女の告白が少年に過去を許させ、未来を拓く。

上質の白い紙に色刷りの挿絵入りで横書き印刷された雑誌に載りそうな、しゃれた短篇が多い中、しっかりした文学的な読み応えを感じさせてくれる長めの作品もある。俳優になるために家を出たジーンは、仕事にあぶれての帰り道、北カリフォルニアでビッグフット役のアルバイトをすることになる。着ぐるみをきて、客を脅かす仕事が終わるとバンガローに帰る日々。引っ越した日に隣に住むジミーと仲良くなる。青年は肺を病んでいた。モンスターとの関連は着ぐるみだけだが、周囲との交わりを絶たれ、森に隠れ住む孤独な姿はビッグフットを偲ばせる。家族から離れて暮らす二人の心の底にしみいるような孤独が胸に迫るローラ・ヴァンデンバーグ作「わたしたちがいるべき場所」。

ロックが好きな「モスマン」(蚊人間)を主人公にしたジェレミー・テンダーのロック好きなら涙なくして読めないマンガをいれて十六篇。ファンタジーはもとより、ショ-ト・ショートあり、純然たるホラーあり、とどれも面白い。ジョニー・デップ主演の『エド・ウッド』でベラ・ルゴシを演じるマーティン・ランドーの演技に涙した人には絶対にお勧めの掘り出し物。あと少ししたら、この中の何人かの単行本が読める日が来るにちがいない。編集の妙味を見せるアンソロジーの佳作である。