青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『1941年。パリの尋ね人』 パトリック・モディアノ

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一九四五年生まれの作家は、ある日、古い新聞「パリ・ソワール」紙を読んでいて、尋ね人の記事に目をとめる。日付は一九四一年十二月三十一日。十五歳の少女、ドラ・ブリュデールの失踪を告げるその記事に目を留めたのは、連絡先の両親の住所に覚えがあったからだ。パリ、オルナノ大通り41番地。クリニャン・クールの蚤の市で知られる界隈だ。子どもの頃母親にくっついてよく訪れた所だ。

「私」の回想がはじまる。「一九六五年一月。オルナノ大通りとシャンピオネ通りの交差点では夜のとばりが降りはじめていた。私は何の価値もない存在で、宵闇の街にとけ込んでいた」。まさにモディアノ調。アイデンティティの希薄な若者が、薄闇のパリの街角に佇んでいる様子が浮かび上がってくる。ところが、読者ははじめから知らされている。これがいつものフィクションではないことを。

ドラ・ブリュデールは、実在の少女で、両親が尋ね人の広告を出す二週間ほど前、寄宿学校から脱走している。一九四一年といえば、日本が対米戦争に突入した年である。パリはドイツの支配下にあった。ドラはフランス国籍を有していたが、両親はオーストリアハンガリーユダヤ系市民であり、胸に黄色い星をつけなければならない人々であった。

モディアノ自身がユダヤ系の父を持ち、ユダヤ人として小説を書いてきた。戦後生まれたモディアノは、戦争当時のフランスでユダヤ人がどんな扱いを受けたか実体験は持っていない。しかし、父が非合法活動に手を染めて家を出、役者だった母からも見捨てられ、孤独な少年時代を過ごさねばならなかった作家には、自身の過去と戦時下のフランスのユダヤ人差別は、切り離すことのできない問題であり、作家としての核ともいえる。

戦時下フランスにおけるユダヤ人差別を追う作家は、戦後それらの証拠となる資料の多くが廃棄されていることに気づく。アウシュヴィッツナチス・ドイツの犯罪としてしまいたいフランスの思惑がそこにはあった。モディアノは彼の小説の主人公のように、資料をあさり、関係者をたずね、ドラの消息を明らかにしようとする。長きにわたるその経緯を書き留めたのが、このエッセイともフィクションとも言い切ることをためらわさせる作品なのだ。

ドラという少女の生を跡付ける試みであるのに、書かれた物からは、ドラと同じ程度、いやそれ以上にモディアノの過去が色濃く浮かび上がってくる。語り手は、ドラの歩いただろう駅から続く通りをたどりながら、当時自分がそこを歩いたときの気分を思い出し、寄宿学校を脱走しなければならなかった少女の気持ちを推し量る。少女の反抗は、モディアノ自身のものだったからだ。

こうして、単に地名や日時といった記号化された情報ではなく、小説家ならではの想像力が駆使された結果、そこにはジャン・バルジャンがコゼットと身を潜めた地が、ジャン・ジュネも入っていた感化院や監獄が重ねられ、失踪から、やがて送られる収容所までの一人のユダヤ系少女の足取りがくっきりと示されることになる。この、作家自身のメモワールと、尋ね人の少女と、当時迫害を受けた多くのユダヤ人の幾筋にもわたる人生が縄を綯うようにして絡まりあう叙述が、単なるノン・フィクションとの間に一本の線を引いている。

過去の過ちをいつまでも引きずりたくない、という思いはフランスだけの問題ではない。加害者側は忘れたくても被害を被った方は、告発や謝罪が済まない限り忘れられるものではない。時が過ぎて記憶が曖昧になる前に、たしかな事実を力ある言葉にすることが作家には求められているのだろう。パトリック・モディアノの仕事は、その役目を果たしている。