『失われた時のカフェで』 パトリック・モディアノ
初めて読んだ小説のはずなのに、既視感(デジャヴュ)のように、見覚えのある光景がちらちらと仄見え、聞き覚えのある口ぶりが耳に懐かしく甦る。何ひとつ家具らしいもののないがらんとした一室は『さびしい宝石』、探偵が相棒の口癖を思い出すのは『暗いブティック通り』、馴れ親しんだ界隈を歩いては女が歩いたはずだと確信するのは『1941年。パリの尋ね人』だ。なんのことはない。かつて読んだモディアノ作品で使われていた設定や背景を、まるで映画のセットや俳優を使い回すようにして作られた新作である。ふつうなら、がっかりしたり腹が立ったりしそうなものなのに、モディアノだと、馴染みの店に久しぶりに入ったようで妙に落ち着いて心地よい。これがモディアノ中毒なのだろうか。
「つまるところ、唯一の興味深いひと、それはジャクリーヌ・ドゥランクだった」。ルキという名でカフェ・コンデの常連仲間に愛された女の正体とは。四人の話者によって語られる一人の女のそれぞれ異なる横顔。女を追いつづける男たちがパリ市街を歩き回る焦燥感に満ちた足どり。アイデンティティの不確かな女を核に、五月革命前夜のパリ、セーヌ左岸のカフェにたむろする男たちの在りようをスケッチし、かつて確かにそこに流れていた時代の風景を鮮やかに甦らせるパトリック・モディアノらしさの横溢した一篇。
モディアノは探偵が後を追うように、ルキの周りにいる男たちにルキについて語らせる。たしかに男の気をひく女なのだろうが、外面ではない。よく、心ここにあらずというが、所在のなさというか、どこにいてもそこが本来の居場所ではないような、ルキのそんなところが皆の注目を引いたのだろう。ルキは、モディアノ文学にはお馴染みの、舞台で稼ぐ母を持ち、かまってもらえないことから、夜間外出を繰り返す少女が大きくなった姿である。
小さい頃に親にしっかり面倒みてもらえなかったことが、長じてその子の自我に与える影響は強いものなのだろう。モディアノのオブセッションともいえる。《永遠のくりかえし》が、ここでもその主題となっている。探しても探しても確かな手応えとなって帰ってくることのない「私」という存在。それを見つけるための悪あがきがかえって自分を追いつめてゆく。過去の自分を知る界隈(カルティエ)から逃げ、年上の男やグル的人物を頼り、空っぽの自分を埋める何かを探す女。その女ルキの自分探しの顛末を、彼女に魅かれた男たちの証言でつづってゆく。
いくら言葉をつくしても彼女を知りつくすことができない男たちの無力感が色濃い。パリという都市を線引きし、異なる相貌を見せる地区を区切り、その中心に「中立地帯」を夢想する、作家自身を思わせるロランという同い年の青年がいちばん彼女の近くにいると思われたのだが、ルキはその手からもするりと抜け落ちてゆく。強い肯定の意を響かせるニーチェの『永劫回帰』とちがい、モディアノのいう《永遠のくりかえし》は、たぐってもたぐっても自分のもとによって来ない過去の空白の記憶を充填しようとする、報われない行為のように思えてならない。
年上の知識人が集うカフェにも、隠秘学を奉じるギ・ド・ヴェールの主催する集会にも、ルキと呼ばれる女の居場所はなかった。目印のように記される地名は今もあるのに、もうそこにはない店や学校。たしかにいたはずなのに、回想の中でしか立ち現れてこない一人の女。存在というものの不確かさを時間と空間の中に、記憶と脚を頼りに追いつづけるパトリック・モディアノの彷徨は終わることがない。
気鋭の翻訳は原文の息遣いを感じさせるが、日本語の文章表記として斬新すぎる。もしかしたら元の原稿が横書きなのかもしれないが、縦書きで一人を1人、十月を10月、と書かれると違和感がある。それ以外にも「ジェスト」、「ボールポイント」のような日本語としてこなれていない外来語の使用頻度が必要以上に高い。フランスには、モディアノ中毒という言葉がある。これだけ訳書が刊行されていれば、日本にもモディアノ中毒患者の数は少なくないと思う。これぞモディアノという翻訳をしようという意欲は買うが、翻訳は自分だけのものではない。構文はともかく、用語の選び方など、他の訳書とのバランスも考慮してほしいところだ。