青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『古書収集家』 グスタボ・ファベロン=パトリアウ

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こらえ性がないからか、ついつい先を急いで読み進めてしまい、あるところまで来て、そうかこれは探偵小説だったのだと気がついた。そのころには、手がかりのつもりで作家が書き込んでおいた細部のあらかたは読み飛ばしており、しかたなく再読をする羽目となった。読書とは再読のことだ、とはよく言われることだが、知らずに読んでいた本が探偵小説だと分かって、謎解きが終わってから再読しても楽しめるなら、それに越したことはない。そして、これはそういう本である。 

大学時代の親しい友人ダニエルが婚約者のフリアナを殺してから三年たっていた。ずっと音信を絶っていた「私」のところに、本人から昼食の誘いの電話があり、「私」は病院に向かう。心神喪失が認められたダニエルは資産家である母親の工作により、刑務所でなく精神病院の一室に収監されていた。「私」の助けがいると切り出したダニエルは、あらためて事件について話し出す。 

当時、金に飽かして古書を買い集め、年長の四人と古書店を共同経営していたダニエルには、両親と妹がいたが、心身を病に侵された妹は屋敷の火事の後、療養先で行方知れずとなっていた。その読書量から同輩を遥かに超える学識の持ち主であるダニエルには大学時代「私」以外に友人はいなかった。「私」は、毎日精神病院の一室でダニエルの話を聞くと同時に、かつての共同経営者を訪ね、三年前に何が起きたのかを探る。偶数章にはダニエルの語る物語が、一章を除く奇数章には四人の共同経営者たちがそれぞれ語る話が交互に配される形式で物語は進んでゆく。 

厖大な古書籍を読み、歴史や物語を記憶する古書収集家の青年が、ワトソン役をつとめる「私」に語る物語は逸話、挿話が引きも切らないペダンティックなものだ。世に稀な典籍を商う四人の共同経営者もそれに負けていない。橋に宙吊りにしたゴンドラに籠るパフォーマンスで錯乱した手品師、人間の皮膚から紙を作るマグヌス・シュワルツコフ、本屋稼業の裏で人体の部位を密売する組織、ミュンヘンにあるという死者のためのホテル、左足の靴しか作らなかったコロンビアの靴職人、発育不全の息子を幽閉し、年に二度薬で眠らせている間に檻を小さく作り変えていた憑夢竜等々、それだけで奇想の短編集がいくらでも作れそうな稀譚、怪異譚が次々と繰り出される。奇想好きの読者にはこれだけでもたまらない馳走になっている。 

穴の開いた犬の屍骸に詰められた人の心臓や体の皮膚が自在に伸びる奇病といった奇怪で残虐なイメージ溢れる世界は、まさにポオのいう「グロテスクとアラベスクの物語」だが、それだけではない。ゴシック・ロマンスを思わせる怪奇な書割だけでなく、狂人が呪文のように呟くダニエル作の物語が謎を解く鍵になるなど、論理的解決を主眼とする探偵小説の始祖ポオの系譜を正しく継承するものである。特にダニエルとソフィア兄妹の濃密な関わりは、作中にも登場する『アッシャー家の崩壊』から強い影響を受けているといえよう。 

螺旋を描いて放射状に広がっていた市街の街路を模した廊下を蔵する邸宅を転用した精神病院だとか、紙製の模型の家で演じられる自作の人形劇だとか、一人のはずのフリアナが二人いるとか、ラカンのいう想像界象徴界現実界のメタファーがちりばめられ、小説の半分は精神病院の患者が語る殺人事件の経緯である。狂気というモチーフが物語世界を染め上げている。 

センデル・ルミノソのテロにより農村が壊滅的な被害を受けた時代のペルーが背景にある。残虐といい、狂気といい、正気な精神では直視できない出来事が日常茶飯となっていた。描かれているのは個人の狂気であり、忌まわしい残虐な殺人であるが、物語の端々に農村や市街地を覆う殺戮や処刑の影がちらついている。探偵小説の意匠を借りてはいるが、単なるミステリと等閑視することのできない人間存在が抱える罪業の重さが詰まっているように思う。