青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ジョン・コルトレーン「至上の愛」の真実』アシュリー・カーン

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マイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』創作術」を書いた音楽ジャーナリストが柳の下の泥鰌をねらって(かどうかは知らないが)世に問うた「レコード本」の二作目である。邦訳に引きずられていったいどんな真実が明かされるのだろうと期待してはいけない。原題は“ A Love Supreme The Making of the John Coltrane Masterpiece ” と、素っ気ないもの。アルバムタイトルに続く節はアーチスト名以外はサブタイトル扱いかフォントが小さい。平たく言えば「メイキング」だ。書かれたのは2002年。

前作と共通するのは、このアルバムが『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500』に於いて、47位にランクインし、前者の12位に次ぐ高位置につけていることだ。40年も前に録音されたレコードのどこにそんな価値があるのか、分かる人には分かるのだろうが、今の人には分かりづらかろう。そこで、当時セッションに参加したミュージシャンにインタビューを行い、残された録音を聞きながら、記憶をたどってもらう、というのは前作とほぼ同じ趣向だ。序文をエルヴィン・ジョーンズが書いている。ジャズを聴きはじめた頃、よく読んでいた相倉久人の本で、丁度来日中の彼がトラブルに見舞われ帰国できず、仕方なくピット・インで日本のジャズメンとセッションしていた様子を読んでいたので、とても懐かしい。

実のところ、愛聴盤であるマイルスの『カインド・オブ・ブルー』とはちがって、『至上の愛』は、他のコルトレーンのアルバムに比べて聴く機会が少なかった。気楽に聞き流すことの難しい緊張を強いるからだ。この見解は、特別なものではないらしい。ジャズ界にあっても当初は難解であるとか、意図が理解できないという批判があった。現在に至ってもコルトレーンの最高傑作という評価が定着しているわけではない。しかし、一方ではジャズという枠を取り払い、音楽というジャンルを外れても特別な評価を受けていることも確かだ。一言で言えばスピリチュアルであるという事実がそこにある。

著者は、その評価を受け入れつつも、より客観的な評価を求めて、アルバムの創作過程を追う。特に録音を担当したルディ・ヴァン・ゲルダーの力を重要視している。マイルスの場合とちがって、『至上の愛』が録音されたのは、ルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオだった。写真で見ても木組みの梁が印象的なライブな音が期待できそうなスタジオである。伝説的なアルバムだけに録音の様子を再現する筆には力が入る。ベースのジミー・ギャリソンの指が弦から外れるときの音を拾うルディ・ヴァン・ゲルダーのマイク処理など、実際にCDを聴きなおすと目に見えるようだ。

前作に比べ、面白さに欠ける点があるとすれば、ジョン・コルトレーンという人間についての掘り下げ不足という憾みがある。マイルスの場合、その人間的な問題点が、文章の端々から立ち上がってきて、音楽家としての素晴らしさとの間に絶妙の緊張感をもたらしていたのだが、コルトレーンの場合、マイルスのバンドを馘首になった原因である麻薬中毒については、過去のこととしてあっさり触れるにとどめている。そのことが、『至上の愛』を通じて発せられる神への捧げ物としての音楽を創り上げるコルトレーン像との間にギャップを生み、二つのコルトレーン像が分離したまま統合できていないという感がある。

コルトレーンの遺族が、『至上の愛』を特別なもので、「ジャズ・レコードではない。(略)音楽でメッセージを伝えようとしたんだ」と位置づけているのに対して、エルヴィン・ジョーンズは「音楽だ」「私ならそう呼ぶよ」と、言い切っている。「美学は混沌を嫌う」と言ったのは西脇順三郎だが、『至上の愛』は紛れもなく音楽である。第三者的な立ち位置を取り、自分の意見や考えをあまり前面に出すことのない著者の個性が裏目に出てしまっているようだ。『至上の愛』という伝説的アルバムを共に創り上げた黄金のカルテットは、この後すぐに崩壊してゆく。フリー・ジャズに接近しようとしていたコルトレーンが、従来のジャズとの境目に立って、危うい均衡を保っているのを他のメンバーが本当のところどう見ていたのか、もっと突っ込んだインタビューが聞いてみたいと思った。