青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『フロベールの鸚鵡』 ジュリアン・バーンズ

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生地を訪ねてみれば、偉大な作家が手ひどい扱いを受けている。銅像の一部は欠け落ち、小説に登場する鸚鵡のモデルとなった剥製があろうことか複数の場所に本物として飾られている。作家の名はフロベール。『ボヴァリー夫人』で有名な近代リアリズム小説の巨匠である。サルトルの『家の馬鹿息子』、マリオ・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴』、本邦においては蓮實重彦の近著『「ボヴァリー夫人」論』、とフロベールを論じた書物は枚挙に暇がない。いやしくも物書きを志す者だったら、フロベールを看過することはできない。

主人公もまた、かつては物を書こうとしたことがある。当時は生きるに忙しく果たせなかったが今は妻を亡くし子は自立した。鸚鵡を見ているうちに主人公は作家への親近感が募り、ついには作家についての本を書くことを計画しはじめる。主人公の名は、ジェフリー・ブレイスウェイト。頭文字だとJ・Bで、作家ジュリアン・バーンズに重なる。また、妻を自殺で亡くし、職業は医師、とくればピンと来たことだろう。『ボヴァリー夫人』こと、エンマの夫シャルル・ボヴァリー像が投影されている。一人三役を兼ねる主人公が、鸚鵡の謎をきっかけにしてフロベールの実像に迫る、という趣向。フロベール学者顔負けの薀蓄、取材旅行を重ねて得た見聞、書簡をはじめとする厖大な資料を駆使し、様々な文体、意表をつく切り口で、今までにないフロベール像を描き出す。

ジュリアン・バーンズその人もまたフロベールの心酔者の一人だったにちがいない。エピグラフにこうある、「友人の伝記を書くときは、仇を討ってやる(傍点七字)という構えでかからねばならない」。フロベールの手紙からの引用である。当初は「仇を討つ」の意味が分からなかったが、読んだ後で納得した。たしかに、よく読んでもいないのに訳知り顔で、フロベールは「人物の外面的特徴に対していかにも無頓着だから」エンマの目の色を何度も異なる色で書いている、と書いたイーニッド・スターキー女史や作家の自殺説を述べた妄想家エドモン・ルドゥーは、文中でこてんぱんにやっつけられている。

15章に及ぶ本書の構成は、およそ一般的な小説の形式とは相容れない。第1章「フロベールの鸚鵡」では、小説風に主人公がルーアンの町に降り立ち、銅像や鸚鵡を見て歩くものの、第2章はフロベールの年譜の羅列、と思ったら、第3章は、また主人公が登場し、イギリス人家庭教師で作家との関係が疑われるジュリエット・ハーバートに関する調査に当てられる、といった体裁で、フロベール愛好家によるフロベール研究の間に、創作や自分自身の妻についての「純然たる実話」、果てはフロベールについての知識や思考力を問う「試験問題」なるものまで付されているという始末。一応最後の章で鸚鵡についての疑問が解決されて小説は終わるが、全くもって人を食った小説である。

どうしてバーンズは、これを小説形式で書こうと考えたのだろう。自分を隠者に擬した作家の思いが叶ったのか、作家について書かれたことは実態からかけ離れた論が多く、生地での扱いはひどい在り様。作家の主義には反するが、フロベールの真の姿を著すに如くはない、ところが、問題がひとつある。フロベールは大の評論嫌いで通っている。作品についてならまだしも、作家についてあれこれ論じられるのは本意ではなかろう。そこで考えた。ここは一つ小説でやってみよう、と。まあ、本当にそう考えたかどうかはしらないが、スターン、セルバンテス、ジョイスといった先達が小説の融通無碍であることはつとに証明済み。小説という形式に意識的なジュリアン・バーンズのことだ。あたらずと言えども遠からず、といったところだろう。

しかし、これが実に面白いのだ。語り手をつとめるJ・Bのフロベール愛が半端なく、フロベールの書簡集からの引用で綴る年譜ひとつとっても、よくあるフロベール論とは一味ちがった、いわば作家の素顔が顔をのぞかせている。皮肉屋でペシミストで夢想家、徹底したブルジョワ嫌いのブルジョワであるフロベールがそこにいる。客観的な叙述でこれをやってもこうはうまくいかないはず。告白体小説の形を借りた「ルイーズ・コレの語る話」、『紋切型辞典』のパロディをやってのけた「ブレイスウェイトの『紋切型事典』」という珍種・奇手満載の、小説巧者ジュリアン・バーンズならではの新手のフロベールの「評伝」である。

もちろん、小説家ジュリアン・バーンズらしく、フロベールについての挿話を材料に遺憾なく料理の腕を披露してみせる。マクシム・デュ・カンと行ったエジプト旅行でピラミッドの頂上に立ったとき、ピンで留めた名刺が目にとまる。「アンベール(英語読みではハンバート)」という名前からナボコフが連想され、ナボコフは『ロリータ』を書く前に、この話を読んだのかもしれない、と想像の翼を広げてゆくあたり、小説読みの愉しみ、これに勝るものはない。

これ一冊を読むことで、秀逸なパロディ小説を堪能することができ、フロベールという偉大な作家について今まで知り得なかったことを知り、それより何より小説というジャンルが持つ無限の可能性について考えさせられる。なんともお得な一冊ではないか。