両親がマチネ・ポエティックの詩人(福永武彦と原條あき子)であり、自身詩人でもある小説家が、岩波文庫の中に収められた詩を材にとって、気ままに想像の翼を広げ、そこから思いつく異なる時代、異郷の詩人の詩との思いがけない出会いを綴ったもの。詩の鑑賞の手引きであり、批評であり、詩にまつわるエッセイでもある。こういう本は、小説なんぞとはちがって、読み終わった、などといいたくない。手元に置き、折にふれて読みかえすことこそふさわしい。
そういえば、福永武彦には『芸術の慰め』という、西欧の絵画、画家について論じた一書がある。その巻頭で福永は、「題名は如何にも物々しくて、ボエティウスの『哲学の慰め』とかジョルジュ・デュアメルの『音楽の慰め』とかに似ているが、わたしは向こうを張ってこんな題名をつけたわけではない」と弁明しているが、息子の方は、おそらく父の向こうを張ったにちがいない。というのも、池澤もまた福永がいうところの「聯想的方法」を採用しているからだ。
父は病を得てサナトリウムに起き伏すうち画集を眺め心を癒したという。そのときこれに面白い文章がついていたら、と思いついたのが前掲書を書くきっかけだったと述べている。息子の方は東北の震災を受けとめるにあたって、『古今和歌集』の「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」の歌に指針を与えられたと書いている。危機に際し、誰もが自分の置かれた境遇に打ちのめされるが、芸術(この場合は詩)に触れることで、それが今の自分に一回限りのことでなく、すでにその思いを抱き、それに処した人びとのあることを知り、力づけられたり、共感したりすることで再び前を向けることがある。「なぐさめ」という言葉はそれを指しているのだろう。
岩波の『図書』に連載した文章を集めたもので、一時に書かれたものではない。敬愛する丸谷才一の死に接した折には、それについて書き、『古事記』を訳している時には、そのことを、と折にふれ、自分の日常から連想されることを詩と結びつけて自在に語るというスタイルである。優れた詩の紹介というのなら、今までに数多くの類書が書かれてきた。しかし、父の顰に倣ってか、子もまた詩歌の大海の中に自分を錨として沈めることで、他の誰にも書けないであろう種類の本を書くことができた。
自分を錨として沈める、という比喩は、ただただ彼方此方を漁って名詩を摘んでくるというやり方とはちがって、ほかの誰でもない一人の人間としての自分を基点にしているということだ。その自分とは何か。はるかな沖合いを泳ぐ魚に似たシェイクスピアに比べ、岸に放り出されて喘いでいる魚に自分たちを喩えたイェイツの詩を引きながら「人は感情は自ら湧くものだと思っているが、実際には与えられえたパターンの中から選んで身にまとっているのではないだろうか。(略)つまり、我々の感情さえも実は引用の原理の上に成り立っていると言える」とはなから言ってのける。
文学から文学を作るというのは、古今東西の文人、詩人がやってきたことであるから、洋の東西を問わず、広く詩を渉猟すれば、時を超え、空間を越えて、詩は詩と結びつき、響きあう。自分だけの感情と思えるものでさえ、きっとすでに誰かがもっと上手に表現しているにちがいない。だから、詩人は、自分の目にとまった一篇の詩を素材に、古くギリシャ、ペルシャの詩人を訪ね、六朝、唐の詩人を引いてくる。しかし、選ぶのは自分の眼である。だから、師事した丸谷や、全集編纂に携わった日夏耿之介、吉田健一、それにいつになく父に対する言及が多くなる。堀辰雄の書庫で読んだリルケの詩の話や、マチネ・ポエティックを批判した三好達治の話等々。
詩のいい点は、全篇の引用が可能なことだ。訳詩にしても、漢詩なら、白文、読み下し、現代訳と自在に載せられる。これが小説だとそうはいかない。その意味で、この一冊は名詩のアンソロジーの観を呈す。漢詩についてはしばらく措く。吉田健一訳のシェイクスピアの十四行詩、ディラン・トマスの「ロンドンで一人の子供が火災で死んだのを悼むことに対する拒絶」。ネルーダの『ニクソン殺しの勧めとチリの革命賛歌』と中野重治の『新聞にのった写真』といった苛烈極まりない詩などは、他の詩の鑑賞本ではおそらく読むことは叶わないのではないか。
こんな時代だから、詩について書いていても時局に対する批判めいた口吻が混じるのは致し方ないとは思うものの、マヤコフスキーの「見たことがありますか、/殴る人間の手を犬がペロぺロ舐めるのを」という詩を引いて、「この場面はついつい今の日本の某与党(もちろん小さい方)のふるまいに重なって見える。平和を標榜していたはずのあなたたちはどうしてそこまで変貌したのですか。標榜から変貌へ。政権党という餌はそんなにおいしいですか」と書いてしまうのは、少々レトリックが不足していやしまいか。気持ちはじゅうぶん分かるのだが、焦りや怒りをそのまま表出したのでは、それはもう文学を語る言葉ではない気がする。