『道化と王』 ローズ・トレメイン
クロムウェルの死によって清教徒革命が潰え、1660年にはチャールズ二世による王政復古が始まる。ピューリタンの清貧と禁欲に倦んだ宮廷の人々は、豪奢な衣装や宝飾品を身に纏い、頭には鬘、その上に髪粉をふりかけ、男も薄化粧してハイヒールを履き、着飾った紳士淑女は、山海の珍味が並ぶ晩餐会や舞踏会の饗宴を思うさま享受した。その一方で、首都ロンドンでは、有名な「ロンドン大火」が起き、黒死病が大流行するなど、1660年代は英国史上忘れることのできない事件が相継いで起きた時代でもある。
豪華絢爛の王宮生活と業火と黒死病に挟み撃ちにされたロンドンという劇的な時代を背景に、ふとしたことから王の寵愛を受けた手袋職人の息子が、出世コースを上りつめた挙句、幸福の絶頂で王を裏切る破目に陥り、凋落の憂き目を見るという、ジェットコースター並みの人生の有為転変を描いた歴史小説。生と死、快楽と苦痛、頽落と清貧、学知と狂気、といった対比的な設定をあざといくらい多用し、コントラストの効いた派手派手しい描き方は、たしかに豪華な衣装や大々的な舞台装置を駆使した映画向きかもしれない。
主人公メリヴェルと王の愛人シリアの結婚披露宴のために用意された料理の献立を列記すれば、鶏肉のクリーム煮、蒸した鱸、茹でた鮭、鴫、孔雀、小鴨、真鴨、鶉のロースト、ミートパイ、カルボナード、骨髄のタルト、牛タン、鹿肉のパイ、ホロホロチョウの窯焼き、生野菜の盛り合わせ、クリーム、マルメロ、ドライフルーツ入り砂糖菓子、マジパン、ジャム、チーズ、果物、フランス産の発泡ワインに、重めの赤ワイン、ミルク酒等々。訳文は魚や鳥の名前が片仮名表記というのが惜しいが、映像では確認できない食卓の奢侈さが文章化されると、じっくり堪能できる。
料理だけではない。メリヴェルに与えられたビッドノルドの館の家具、調度は言うに及ばず、陛下から下賜された愛馬から本人の衣装に至るまで、この時代の持つ意匠が隅々まで書き込まれる。下手の横好きながら、絵画や音楽の練習に精を出すメリヴェルの絵の描き方、色彩の好み、音楽の好み、オーボエの運指、と普通ならさらっと流してしまいがちな細部がなおざりにされることなく、事細かに描き込んであるところがいい。これは偏にメリヴェルが現実世界の多様さを愛で、貪婪にそれを愉しもうとすることを示すものだ。メリヴェルは快楽主義者なのだ。
快楽のためなら、自分を笑い者にすることも厭わず、身分の上下に関係なく女とみれば褥を共にするため馬を走らせる。それ故、誰からも愛される人気者である。ただ一人名目上の妻シリアを別とすれば、だが。メリヴェルの弱みは、王に寄せる愛と女好きというところ。医師としての学識はケンブリッジとパドヴァ仕込みで、実際のところ、親友ピアスが勤める精神病院でも、黒死病に襲われたロンドン都下にあっても、メリヴェルの活躍は光る。ただ、どこへ行っても土壇場で肉欲を抑制することができないのがこの愛すべき男の弱点である。
王の道化としての役割から墜落し、人里離れた病院でやっと本来の医師としての存在に目覚めたかと喜んだのも束の間、医者としてあるまじき行為に走ってしまう、メリヴェルの駄目さ加減は半端ではない。とことん駄目な人間である。それなのに、愛想尽かすことができないのは使用人のウィル・ゲイツだけではない。読者である自分も同じなのだ。調子に乗っては反省する。反省はするが長続きせず、また元の木阿弥。こういう人間こそが友とするに価する人間なのであって、クエーカー教徒で志操堅固なピアスのような男は、立派だと思って尊敬はしても、いつも傍にいてほしいとは思えない。
この典型的な駄目男が起死回生の働きを見せるのがロンドン大火の日。愛馬ダンスーズを駆って、乳母に預けたままの自分の娘の救出に向かう途中、耳が聞こえないせいで逃げ遅れた老女を助けるため火の中を掻い潜る。実はメリヴェル。両親を火事で亡くしている。冒頭に付されたこの事実が、あとで活かされることになる。ところどころに張られた伏線が功を奏し、実に愉快な結末に結びつく。このあたりの展開は見事といっていいだろう。ほぼ原作に忠実に映像化された映画『恋の闇 愛の光』が、終末部分を改変している理由がよく分からない。
原題は“RESTORATION”。回復、復帰のような、元に戻る状態を意味する英単語だが、定冠詞がつくとイングランドの王政復古を意味する。もちろん、その時代を舞台にしていて、王自身準主役級の扱いで登場するので、文字通り「王政復古」ととってもよいが、主人公の転落とその回復を意味するダブルミーニングと受け止めたい。その意味からいうと邦題は、もう一工夫欲しいところ。もっとも、この小説を原作とする映画の邦題『恋の闇 愛の光』と比べると、まだいい方かもしれない。映画のほうを先に見ていたが、ロバート・ダウニー・ジュニアとメグ・ライアンのコンビは覚えていたが、細部は忘れていた。アカデミー賞の美術賞、衣装デザイン賞を受賞しているそうだ。読んだ後で見比べてみるのも楽しいだろう。