弁護士のガーリップは突然家を出た妻リュヤーの行方を捜してイスタンブールの街をさまよう。妻の行きそうな場所に電話をかけるがどこにもいない。前夫の家にまで押しかけるも相手はすでに再婚していた。別件で妻の義理の兄であり、自分にとって従兄にあたるコラムニストのジェラールに電話をするがジェラールも電話に出ない。妻はジェラールの隠れ家にいるにちがいない。ガーリップの探索行がはじまる。
『黒い本』といえばロレンス・ダレルのそれが有名だが、オルハン・パムクの本作もそれに負けない強度を持つ。ストーリーの主筋は姿を隠した妻の行方を探偵役の夫が追う、というミステリの常道を行くものだが、これがなかなかそんな簡単なものではない。全体は二部に分かれ、第一部が19章、第二部が17章という章立て。その奇数章がガーリップを探偵役とするミステリ仕立ての本編。それでは偶数章はというと、これがジェラールが執筆したコラムになっているという仕掛けだ。
ジェラールの書くコラムというのが凄いの一語に尽きる。コラムというのは、新聞に載るニュース以外の記事全般を指すそうだが、人生相談から占いまで、何でもこなしてきた海千山千のコラムニストであるジェラールの書くそれは、コラムという概念を超えている。なるほど、初めの頃のそれは、身近な家族や近所の店の紹介といった軽い内容のものだが、人気が出てきてからはイスラム神秘主義メヴラーナ教の奥義にはじまるオカルティスムの知識、『千夜一夜物語』からプルーストの『失われた時を求めて』に至る過去の文学を本歌取りした物語群、クーデターを企図する一派に潜入しての訪問記事といった、読者の興味をそそるだけでなく、ある種の思想や主義主張を醸成する働きを持つものとなっていた。
奇数章と偶数章が絶妙に絡まり、秘密や暗号、隠喩、暗示といったさだかではないものの何かを告げようとしている徴を手がかりに、ガーリップはジェラールに迫る。ジェラールは大衆扇動者なのか、クーデターの首謀者なのか、およそ胡散臭い連中と起居を共にしていたこともあれば、ベイオウルの無法者たちの中に深く入り込んでいたこともある。やっと見つけた潜伏先の一つ、昔のアパルトマンは三十年前の姿をそのまま復元しており、過去のコラムや大量の写真が保存されていた。ガーリップは、ジェラールのパジャマを着て彼のベッドで眠ることをくり返すうちに、次第にジェラールに自分を重ねるようになる。
そう、これはミイラ採りがミイラになるアイデンティティの不確かさを衝いた小説でもある。オブザーバー紙の「驚異的な小説だ。エーコ、カルヴィーノ、ボルヘス、マルケスの作品に匹敵する」という評もあながち過褒だとはいえないほどの出来映えである。博覧強記とも思える引用はエーコに、自国の政治や形而上学的命題を寓意的に描くところはカルヴィーノに、『千夜一夜物語』を換骨奪胎し、一篇の幻想小説に仕立てる筆使いの鮮やかさはボルヘスに、奔出する奇想をまことしやかに語る語り口はマルケスに、かなりの程度肉薄しているといっていいだろう。
巨匠たちと異なるのは、これが東洋と西洋の中継地点であるトルコの物語というところにある。ジェラールの父でガーリップの伯父にあたる人物がなかなかの食わせ者で、菓子の製法を学ぶためにフランスに渡ったはいいが、その後家に戻らず、ムハンマドの子孫の絶世の美女と結婚し、キリスト教に宗旨変えし、アフリカで両宗教を融合した宗教施設を設立したなどという噂の主でもある。ジェラールは、トルコ人を西洋に憧れ、西洋人になりたいと模倣して止まない東洋人と位置づけ、その風潮に対する批判をマネキン作りの挿話に託して書いている。人ばかりではない。トルコという国家のナショナル・アイデンティもまた複雑にして微妙なのだ。
自分とは何か、という根源的な問いを愚直なまでに追求しながら、『千夜一夜物語』よろしく、入れ子状に配された挿話群の戯れに身を任せ、迷路のように入り組んだイスタンブールの市街を、旧市街から新市街へと何度もガラタ橋やアタチュルク橋を渡り、ヨーロッパ・サイドからアジア・サイドへとフェリーに乗って移動するガーリップの足跡をたどれば、ニュー・ヨークを舞台にして、オースターが『ガラスの街』で描いたような奇妙な図に似た何かが見えてくるのではないだろうか。
ミステリ仕立てであるからには、最後にタネ証しが待っているのだが、夢の中で夢を見ているような小説から強引に引きずり出されるのはあまり楽しい経験ではない。いつまでも夢から覚めないで眠りの中にいたかった、と思わされるような結末が待っている。話者もそれを意識してか、途中でここから先は黒く塗りつぶすようにそそのかす。そこから先を読まずに何度でも第一部第1章に戻るのがいちばん理にかなった選択といえるかもしれない。
トルコ語に不案内なので、この訳文がどこまで原文を意識したものか分からないが、近ごろ珍しい漢語を多用した訳文になっている。はじめはてこずるかも知れないが、読み続けるうちに気にならなくなるばかりではなく、独特の語調に漢語に振られた馴染みの薄いトルコ語のルビが相俟って異国情緒溢れる物語世界に誘い込まれる気になる。そこここに散りばめられたピスタチオ・グリーンの色彩や緑色のボールペンがコラムと本編の間を取り持ち、物語の世界と現実の世界を通低する。文学的詐術に淫した確信犯的作品である。
失踪事件は合理的な解決を見るが、ジェラールの創作のどの部分が誰の何という作品を盗作したものなのか再読三読しても解けない謎が残る。澁澤龍彦は小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』の注釈本の書かれることを夢想していたが、本国には『黒い本の秘密』なる完全読本まであるという。どこかから邦訳が出ないものだろうか。