『無限』 ジョン・バンヴィル
グローブ座で演じられていた頃のシェイクスピア劇は、幕が上がる前に語り手が登場し、これから始まる芝居について観客に説明する形式をとることがあった。語り手が地の文の中に自在に登場しては言いたいことを言う、この小説を読んでいて、当時の舞台劇を思い出した。観客(読者)にはその存在が知られているが、登場人物には感知されない、この語り手というのが、なんと神なのだ。それもキリスト教の神ではなく、ギリシア神話のヘルメス神である。
ギリシア神話といえば、白鳥や鷲に姿を変えては美女を抱き、妊娠させるゼウスが有名だが、小説の中でもアダムの美しい妻ヘレンに欲情し、アダムの姿に身を変えてヘレンを抱く。その時間を作るため、息子であるヘルメスに、夜明けを一時間遅らせるよう命じるなどやりたい放題。まあ、ヘルメス自身も館に出入りする牛飼いに身をやつし、家政婦の気を引いてみたり、といたずら好きの片鱗を垣間見せたりもする。
それだけでも相当へんてこな設定なのに、読んでいるとつじつまの合わない記述がやたらと出てくる。海水淡水化装置を載せた自動車だとか、シュレーディンガーならぬシュレースタインバーグの猫だとか、史実とは異なる出来事が、この世界では起きているようだ。SFでいうところのパラレルワールド。どうやらそれは、脳卒中で倒れて以来昏睡状態となり、今はベッドに横たわって死を待つばかりの天才数学者アダム(息子と同名)が発見した世界を実体化して見せたもののようだ。
難しい数学理論にはついていけないので、詳しい説明は省略するが、通常の世界ではあるものが存在するとき、同時にその空間に別のものが存在することはできない。ところが、老アダムの説くところでは、あるものは空間を占有することはなく、別のものと絶えず重複し無限が無限を生んでいる、という。まあ、理論はそれくらいにしておき、現実に戻るとしよう。
舞台はアイルランドの片田舎。鉄道の駅からそんなに遠くない、周りを森や湿地帯に囲まれた土地に奇妙な屋敷が建っている。かつては世界を驚かせた天才数学者アダムは、その屋敷の最上階に置かれたベッドに横たわっている。東屋に壁を張ったようなつくりの家は、中央部は吹き抜け構造で、バルコニーでつながった角部屋が居住スペースになっている。妻と娘が暮らす家に、父を見舞うために息子のアダムと妻ヘレンが町から帰ってきている。
そこに老アダムの伝記を書く目的で妹に近づいたロディ、と老アダムの旧友ベニー・グレイスという男がやってくる。なにしろ姿を見せない神が語り手なのだから、すべてが筒抜けの全知視点。昏睡状態のアダムの中にも入り込み、数学の難解な理論や過去の女性遍歴、ベニーと連れ立っての悪所放浪の披歴。また、長男とのよそよそしい関係、妹への偏愛、義理の娘に対する欲情、若い妻に寄せる思い、と体の自由は失っているが、老学者の頭は活発に働き続けている。
小説は、ある夏の一日、病床の家長を見舞いに訪れた家族、友人の間に起こる騒動ともいえない小さな感情のもつれや衝突、とその解決を描く。一家の主人に寄せる家族の心遣いは、外縁にいるヘレンやロディの無関心な態度と対比的に描かれている。小津の映画でおなじみのパターン。いかにもジョン・バンヴィルらしいエンディングには心和むが、懐妊したヘレンのお腹の中の子どもは誰の子?という謎を残すあたりが心憎い。
神は細部に宿るという言葉通り、スカイルームのガラス天井を流れる雨や、くさび型の先細りの所に窓と洗面器、広がった部分に琺瑯引きのバスタブを置いたバスルーム、とまるでその目で見てきたようにディテールを精妙に描き出す文章に圧倒される。話などあってないような小説を読ませるのはその筆力あってこそだ。クロウタドリが舞い、鶏が色とりどりの糞をまき散らす田園風景も見事だが、リストカットを繰り返す心を病んだ妹や、舞台で幾つもの役をこなすうちに自分というものが作られると考えるヘレン、外見は完璧だが中身は空っぽのロディといった人物造形の鮮やかさもさすがだ。
なかでも、圧巻なのは、最後まで正体が判然としないベニーという人物だろう。同じ学者仲間で、アダムがどんな突拍子もない説を発表しようが、驚きもしないこの男は、アダムのもう一つの自我ではないだろうか。自分の中にあって自分が破棄したい部分。しかし、まちがいなくそれがあってこその自分であることを自分は知っている、そんなアルター・エゴ。個人的な解釈でしかないが、自分という個体が危機に瀕しているときだからこそ、出現した別人格と考えるとすっきりする。
人は誰でも死を迎える。ここのところ、ジョン・バンヴィルの書く物には、老境に入った人物が過去を顧みて、来し方行く末を思うという趣きの作品が多いように思うが、これもその一つ。次に引用するヘルメス神の言葉に老いを迎えつつある作家の思いが託されている。
われわれがなによりも諸君に認めさせ、受けいれさせようとしているのは、人生は悲劇的なものだということである。人生が残酷で悲しいものだからではなく――悲しみや残酷さがわれわれにとって何だというのか?――、人生はあるがままのものであり、運命を免れることはできないからであり、そして、なによりも、人間はやがて死んで、あたかも存在したことがないかのようになるものだからである。それこそが当たり障りのない話ばかりをする諸君のいわゆる救世主とわれわれの違いなのだ――われわれは慈悲深さを装ったりはしない。われわれはいたずら好きであり、諸君の内省や魂の苦悩を飽くことなく面白がっているだけなのである。
いたずらを仕掛けたり、面白がったりしているが、死ぬことを許されていない神は、われわれ人間の限りある生を、案外うらやましく思っているのかもしれない。