青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『谷崎潤一郎』 池澤夏樹=個人編集日本文学全集

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姓の上に「大」一字を冠して「大谷崎」と称される谷崎潤一郎を一巻本全集に収めるとしたら何をとって何を捨てるべきかはまず迷うところだろう。さすがは池澤夏樹。よりによって『乱菊物語』をトップに持ってくるとは考えたものだ。新聞連載という縛りを逆手にとって、まさに大衆小説のノリで、面白いのは保証付き。そこへもってきて文章がうまい。流れるような語り口調にリズムがあって、読んでいて心地よい。今ならさしづめ辻原登あたりが手掛けそうな小説になっている。

 

室町時代末期、室津に美しい遊女がいた。その女を争って領主と執権の息子が角突き合わす。そこへ、二寸二分四方の函に収められた十六畳吊りの蚊帳という宝物を携えて中国から客がやってくる。かぐや姫の婿選びに倣ったか、それを持ってきた者に身を任すというのだ。海賊に襲われて宝の函は海中に落ちる。誰がそれを手にするか。海龍王と名乗る謎の男やら幻阿彌という幻術使いやら、不敵な輩の活躍、主人の側室探しに京に遣わされた家来二人の駆け引きの面白さにページを繰る手が止まらない。

 

初めて読んだのだが、今までに読んだ谷崎の作品とは全く毛色が違う。アシカと馬を交配させた海鹿馬(あしかうま)という珍奇な怪獣まで登場する。海賊の男がそれに乗って海をゆくところなどまさにマンガだ。と、ここまで来て、まてよ「アシカ馬」?昔何かで読んだような、と思い出した。花田清輝の『室町小説集』巻頭の「『吉野葛』注」がそれだ。

 

なによりわたしは、かれが、誰よりも多く、未完のまま途中でほうり出してしまった小説や、とにかく、まがりなりにも完結しているとはいえ、とりかかったさいに考えていたものとは、およそ似ても似つかない小説を――つまりひとくちにいえば、失敗作を、次々に発表していった大胆さに感心している。(中略)そういえば、その前年にも谷崎潤一郎は、収拾がつかなくなったためか、ばかばかしくなったためか知らないが、「アシカ馬」と称する、アシカと馬との混血である両棲動物の活躍する『乱菊物語』という歴史小説を、新聞連載の途中で打ち切った。

 

 

お分かりの通り、『乱菊物語』は未完の小説である。おそらくは、一大伝記ロマンの主人公になるはずだった海龍王が派手に登場したところで、「前編終わり」。九郎判官似の美剣士の正体は明かされぬまま。これがなぜ未完に終わったか、池澤は佐藤春夫との妻女譲り渡しの一件で、連載どころではなかった、と判断しているが、辻原登説によると、舞台になった島が海賊の島と喧伝されることに抗議して、住民が新聞の不買運動を起こしたことが原因だという。

 

ところで、花田が「とりかかったさいに考えていたものとは、およそ似ても似つかない小説」といっているのが、次に収められている『吉野葛』だ。つまり、この全集は花田のいう「失敗作」を二作まで所収しているわけだ。もっとも、作家の意図がどうあれ、『吉野葛』は失敗作とはいえない。南朝の子孫である自天王を主人公にした小説を書くため、吉野まで足を運び、大台ケ原の山中にまで分け入りながら、最後はそれをあきらめ、友人の母恋の話に終わる、というひとくちには言えないような形の小説である。

 

花田は失敗作と断じている『吉野葛』だが、事前調査で訪れた吉野では着物姿に下駄履きだったらしい。自天王の宮のあったと伝えられている三の公は、入之波温泉のまだ先にあるという。入之波温泉には何度も行ったが、現在でもかなりの山のなかだ。着物に下駄履きで、杣道などたどれるはずもない。おそらくはフィクションであろう。そう考えたら、自天王を主人公にした小説を書く、というのも自前の主題に引き込むための前フリではなかったか。

 

吉野あたりの風物を紹介しながら、風情の残る家並の美しさや柿のうまさを賞味し、紙漉きの労働の厳しさに触れ、歌舞伎の「妹背山女庭訓」や「義経千本桜」、果ては葛の葉の子別れといった伝承を引きながら、次第次第に主題を展開させ、若くして死に別れた母によせる追慕の情という自身に重なる、いわばお得意の主題に収斂させていくテクニックは、誰にでもできるものではない。読者はそれこそ狐につままれたような気持ちで読み終えることになる。

 

そして、それに続く『蘆刈』は、水無瀬を訪れた「わたし」が、船で月見としゃれこんで橋本近くの中州に下り立ち、酒を飲んでいるところへ現れた男の話を聞く、という話。男の話す父と母、そして母の姉である「お遊様」との奇妙な三角関係は『卍』にも似て、いかにも谷崎らしい男と女、女と女の被虐嗜虐の愛の奥深さが極端に句読点の少ないかな書きの文章でつづられている。語り終わった男の姿が見えなくなるあたり夢幻能に似てひときわあわれが深い。

 

なるほど、あまり谷崎を知らない読者を『乱菊物語』でキャッチし、『吉野葛』という変化球で、谷崎ワールドに引き入れ、『蘆刈』でその魔力に痺れさせようというのが、この配列の魂胆だったのだ。そういう点で見ると、なかなかよく考えられている。これで谷崎にハマる読者は少なくないだろう。他に『小野篁妹に恋する事』、『西湖の月』、『厠のいろいろ』の三篇を含む。