青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『言葉の降る日』 加藤典洋

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近所の神社に、突然掲揚ポールが立てられ、日の丸の旗が揚げられるようになった。鳥居の両脇にも、「祝祭日には国旗を揚げましょう」「氏神様にお参りしましょう」という神社庁提供の幟が二本立てられている。ちょっと前まではそんなものは目にしなかった。夏祭りの時は、神社なのに盆踊りの会場にもなる、ごくごく小さな神社で、小さいころはいい遊び場だった。それが今では鳥居の前で最敬礼をしてゆく観光客の姿を度々目にするようになった。

冒頭の「0.死が死として集まる。そういう場所」という文章に、柳田國男が戦争が終わろうとしていたときに考えたことが紹介されている。柳田は「故郷から遠く離れた南の海などで非業の死をとげている若者の魂はどうなるだろう」と、考えたというのだ。日本の祖先信仰では、死んだ人間は、故郷の近くの山の上に集まる。そしてそこから生者を見守る。当初は「あらみたま」として存在するが、やがて子孫に敬い弔われることで、自ずから鎮まり、祖先の御霊に合体してゆく。

ところが、遠い異国で行われた戦争で死んだ若者には当然のことに子孫はいない。故郷の山もない。彼らの魂はどうなるのか、という疑問である。そこで、柳田は一つ提案をする。国に残った年少の縁者に死者の養子となってもらい。彼らの子孫として弔ってもらっては、というものだ。「新たに国難に身を捧げた者を初祖とした家が、数多く出来るということも、もう一度この固有の生死観を振作せしめる一つの機会であるかも知れぬ」と。

この間読んだ京極夏彦の『書楼弔堂 炎昼』の中で、本屋の主が、登場人物の一人である当の柳田に説いていた説を思い出した。おそらく、京極は柳田が1945年の春から夏にかけて発表した『先祖の話』などを参照して、この話を作ったのだろう。それにしても二つの新刊の偶然の符合に驚くではないか。ユングのいうシンクロニシティとはこういうものか。それとも死者が生者の悲しみに応えてのことだろうか。弔堂の主人は言う。

「死者を迷わせるのも、死者を地獄に落とすのも、それは生きている者なのでございます。忘れないことです。(略)亡くなった方の生前を。人は生きてこそでございます。尊重すべきは生。ならばその方の生きていたことを忘れずにいること――それが菩提を弔うということでございましょう。覚えている者が誰もいなくなれば、幽霊も出られませぬぞ」

記憶も、名前さえ忘れられても、何世代前の人であっても、本邦では祖先として祀られ続ける。そしてお盆には帰ってきて、生者に混じって踊る。盆踊りで笠などで顔を隠すのは、人でないものという印なのだそうだ。こういう死生観を持つ、この国ならではの柳田の提案は、終戦の翌年に発表されるも、見事なまでにスルーされてしまう。敗戦の混乱の中では、無理からぬことであっただろうとは思う。

加藤は言う。もし、戦後こういう動きがあったら、死者を持つ家にとっては一つの慰めになっただろう、と。「そういう人々の心には、深いとてつもない穴が開いていたでしょうから、もし誰かがそのとき、そのことに心を向けたら、その穴のうつろを、それらの気持ちは少しなりと埋めただろう」と。さらに、そうなっていたら、靖国神社国家神道のもとでの「英霊」信仰は無力化されていたのではないかとも。

「死んだら靖国で会おう」と、いうのは出撃するときに戦友に語る言葉として、映画などでよく聞くセリフだ。加藤に言わせると男同士のマッチョな物語で、当時の学校制度がつくる男子校の同窓会みたいなものだ。一方、戦場から生きて戻った者が語るのは、兵が死ぬときの最後の言葉は「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」の一言だった、という話だ。

一人一人の死者が会いたかったのは、また戻りたかったのは、靖国などではなく、それぞれの故郷であり、家族のもとだったはずです。一人一人が、その愛する家族のもとに帰る、というもっと小ぶりの物語が、「英霊」物語に取って代わり、生まれなければなりませんでした。そしてこちらのほうが、もっと深く、家ごと、郷里ごと、一人一人のもとに死者を呼び戻す、日本古来の仕方に近かったに違いありません。 

 

加藤は、昔『先祖の話』を読んでいるが、そのときはピンと来なかった、という。しかし、今は「柳田は、戦争という大きな物語の渦中で、なんという小さな物語を手放すまいとしていたのかと、そのことに驚嘆しています」と語る。確かにその通りだ。

『言葉の降る日』は、死者に寄せる言葉に溢れている。追悼文や、亡き人の思い出を語る文が多く収められているからだ。実は、加藤は2013年に愛息を事故で亡くしている。しかも、思想的に影響を受けた吉本隆明鶴見俊輔をはじめ、友人でもあった編集者と、近しい人を相次いで亡くしたことが、柳田の『先祖の話』を思い出させたのかもしれない。それは、水木しげるの死に深く影響を受けた京極夏彦にも通じる。

かつての戦争で、戦死した人々、空襲で、原爆で亡くなった人々、と私たちは、多くの死者を持った。戦争を直接には知らない世代にしても、阪神淡路、東北と長い間をおかずに起きた大震災がある。死者をどう弔うか、という死に対しての向き合い方に、敏感にならずにはいられない。しかし、世の中の動きは、大きな物語にばかり目が向いていて、加藤のいう「小ぶり」な物語のほうには、ちっとも目が向かない。

現代に生きる人々は、なにやかやと騒がしく世情をにぎわしては移りすぎてゆく大文字で語られる話題にまぎれ、人の死に、まっすぐに向かい合い、死とは何か、人は死んだらどうなるのか、などという問題とじっくり取り組むことができなくなっているのではないか。日本古来の死生観とはどういうものかを知らず、祀る人を持たない大量の死者をそのままにして、次々と原発は再稼働され、多くの若者が遠い異国に送り込まれていく。私たちはどこへ行こうとしているのか。このあたりで一度立ち止まり、胸に手を当てて考えてみることが必要だろう。

その時に頼りになるのは、ベネディクト・アンダーソンがいうところの、せいぜいがここ二、三百年に作られた「想像の共同体」である、国民国家などではなく、亡くなった人が宿るはずのすぐそこに見える山を抱く、小さな郷土であり、息づかいさえ懐かしく思い出すことのできる身近な死者の声なのではないだろうか。そんなことを考えながら、今日も神社の前を歩く。大きな木が伐られ、寒々とした木々の合間から、山が見える。父の葬儀の後、詣でた山である。