青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ときどき旅に出るカフェ』近藤史恵

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カフェ・ルーズは毎月一日から八日が休み。営業は九日から月末まで。店主はその間旅に出る。そして買ってきたものや見つけたおいしいものをカフェで出す。オーストリアの炭酸飲料だとかハンガリーのロシア風チーズケーキとかだ。もちろん毎月海外という訳ではない。国内の時もあれば、新メニューを試作している時もある。

そんなカフェが近くにできたら、ちょっとうれしい気がする。自分は行ったことがなくても、口にするものから旅を感じることができるから。おまけに中二階の窓からは、住宅街の中なのに、樹々の緑や沈む夕陽を見ることができる。三十七歳で1LDKのマンションに独り住まいの瑛子にとって、そのカフェは、気の向いた時ちょっと寄るのが楽しみな場所になっている。おまけに店主の円はかつて会社にいた年下の同僚だった。

そんな設定で、ミステリ雑誌に連載していたものを全部で十篇、まとめて一冊に仕上げたのが本作。全篇すべてに菓子や飲み物がからんでくる点で、同じ著者の『タルト・タタンの夢』シリーズの姉妹版ともいえるコージー・ミステリ。ただ、三船シェフ以外にも個性の異なる三人のスタッフが登場するビストロ・バ・マルと比べ、オーナー兼パティシエの円が一人で営むカフェ・ルーズ。話が小ぢんまりとしてしまうのは否めない。

ワトソン役というか狂言回し役を務めるのが奈良瑛子。勤務する会社では一番年長の独身女性で、休日はお気に入りのソファに寝そべって本を読んだりDVDを見たりするのが趣味といったタイプ。結婚については特に気にはしていない。うるさい両親とは距離を置いている、気楽な独身生活だ。たまたま立ち寄ったカフェで、会社の同僚の噂話をしたりしているうちに、円が何かに気づくというミステリ仕立て。そう。ホームズはパティシエなのだ。

だから、結婚が決まった同僚の退職話だとか、昔の親友の夫の浮気疑惑といった、独身女性ならではの話題が中心なのだが、中には娘の中国土産の月餅が消えてしまった事件だとか、同じマンションに住む中学生の父親の再婚話といったドメスティック・ミステリの要素も強い。中でもいちばんドメスティックな要素が際立つのは、円の育った一家に纏わる遺産相続争いだろう。それに、円が介護していた祖母の死が絡んで、事件は不穏な空気を漂わせる。

近所に、カフェ・ルーズと同じコンセプトで、同じメニューを提供する大手のチェーン店がカフェを開いたり、そこを首にされた青年が円のことを好きになり、店で使ってくれと言い出したり、独身のアラサー女子が、中心の話だから恋愛風味も忘れてはいない。ただし、その恋愛模様は、最後にとんでもないどんでん返しが待っている。この最後の新たな展開で、それまでの円の見せる笑顔の意味がちがった意味を持ってくる。女性のちょっとした仕種が意味するものの多義性にはまごつかされた。

それにしても、いつものことながらどこでこれだけのリサーチをしてくるのやら。フィアンセを連れて店にやってきた男がエスニック・カレー店を開くと言いながら、店の前に置いたプランターに植わっている大葉月橘を知らなかったという理由で結婚詐欺を疑ったり、高級な月餅の中には家鴨の卵黄が入っていることから、月餅の消えた理由を推測したり、円の繰り出すペダントリーはなかなかのものである。

使える旅行期間が一週間くらいだから、中国や東南アジアのお菓子や飲み物が中心になっているが、オーストリアハンガリー、ベルリンといったちょっとシブい都市が扱われているのも興味深い。アルムドゥドラーというハーブで香りづけされたオーストリアの炭酸飲料だとか、ちぎったココア生地を上にのせて焼いたロシア風ツップフクーヘンがロシアではなくベルリン近辺で食べられているお菓子だとか。相変わらず読んでいるだけでよだれが出そうになる。

しかも、肝心な点はその菓子の持つ特徴、形や製法、名称などがミステリの謎ときに重要な意味を持って使われているというところだ。単なる蘊蓄話やペダントリーに終わっていない。なるほど、大した謎ではない。人が死ぬわけでもなければ、凶器の一つも登場するわけではない。ただ、人がそこにいる限り、悪意が凝集すれば、すんでのところで事件が起きても不思議はない。騙したり、蔑んだり、嫉んだり、人の悪意というのは程度の差こそあれ、どこにでも転がっている。

小柄でいつも笑顔を浮かべている円だが、彼女にも過去があった。日本という国に根強く残る差別意識にどう対峙するか。かつて同僚だった時にはあまりしゃべらず、人との付き合いも避けていた円。それが店を開いてからは、どことなく自信にあふれ、生き生きして見える。人は愛し、愛されることで強くなれる。その強いメッセージ性が全篇の最後に立ち現れるのがまぶしい。爽やかな中にほのかに胸がキュンとなる幕切れに乾杯!出来たら続編が読みたいものだ。