青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『湖の男』アーナルデュル・インドリダソン

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北欧ミステリらしいと言っていいのかどうか、ひたすら暗い。そして重い。湖の水位が異常に下がっているので、水位をのぞきに行った研究員が、砂に埋もれた頭蓋骨を発見する。こめかみの上に穴が開いている。もしかしたら殺されたのではないかと考えた発見者は警察に連絡する。鑑識が調べると、骸骨にケーブルが巻きつけられ、その先にロシア製の壊れた無線機が結びつけられていた。まだ水位の高かったころに船から投げ込んだのかもしれない。

捜査を担当するのはエーレンデュルというレイキャビク警察の犯罪捜査官。少年時代父と弟と山に行き、雪崩に遭い弟を見失った過去を持つ。そのせいか失踪者に異常な執着を持つ。妻とは離婚して一人孤独に暮らしている。母親に引き取られた娘とその弟は、母親から父について色々吹き込まれたようで関係はうまく行っていない。それに若手の男性と女性刑事がチームを組む。ハンサムな男性刑事は結婚しているが子どもはいない。女性刑事は料理が得意でレシピ本を刊行し、評判になっている。

派手な捜査は行わない。手がかりをもとに、一つ一つ聞き込みを進め、捜査対象をしぼってゆく。その合間合間に、関係者の個人的なごたごたが挿入され、ああ刑事も人の子なんだなあ、たいへんだ、と同情したくなるエピソードが執拗に投入される。生活感があって良い、と思う読者にはいいのだろうが、シリーズ物を途中から読みはじめた者には、正直こういう部分は本筋を追うのに邪魔になる。それではつまらないのだがとばして読みたくなるのだ。

追う側のあれこれとほぼ同量を費やして追われる側の回想が過去から現在に至るまで、事細かに語られる。本作の主題はこちらの方だ、とでも言っているかのように。それは、第二次世界大戦後、世界がアメリカを中心とする資本主義国家とソ連を盟主とする社会主義国家に二分され、覇権を争っていた時代のことだ。アイスランドから東ドイツのライプティヒに留学した男子学生が、同じくハンガリーから留学中の女子学生と恋に落ちた話である。

それだけなら微笑ましいような話だが、ハンガリー動乱が目前で、東ドイツは運号が広がるのを恐れていた。留学生たちも相互監視を強制され、社会主義の理想に燃える学生の中にも、現実の社会主義国家の在り方には疑問を感じる者も多かった。二人の恋は、その波をもろにかぶってしまい、男の方は祖国に強制送還され、女の方は行方知れずになってしまう。回想しているのは、トーマスという男子学生の方で、湖で発見された死体についてよく知る者のようだ。

死体に結びつけられていたのが盗聴器であったことから、冷戦時代のスパイ疑惑が浮上する。刑事たちは各国大使館に出向き、当時の行方不明者の洗い出しにかかる。特別なひらめきがある訳ではない。捜査はエーレンデュルの直感に基づいて進められる。行方不明者の一人に農機具のセールスマンがいた。バス停に黒のフォード・ファルコンを乗り捨てたまま家で待つ女のところに帰ってこなかった。今でも帰りを待つ女のことが、大事な人を失った者の一人として刑事には気になった。

過去にこだわりを持つ二人の男が、行方の知れない愛する者への思いを抱きながら、追う者と追われる者に分かれて双方から真実に近づいてゆく。湖の男の正体はいったい誰なのか、というのが解かれるべき秘密である。それも、読んでゆくとだいたいの見当はつく。しかし、謎が解決されてもすっきりした気持にはなれない。時代の流れは、社会主義が迷妄であったと切り捨てて今に至るが、今の国際社会の混迷ぶりは、ひたすらに経済的利益を追求してきた資本主義諸国の自由とやらの虚しさを白日の下にさらしている。

秘密警察が国民すべてを監視していた旧東ドイツの社会は極めつけのディストピアだった。それと闘おうとして、力なく敗れた者の無力感が全篇の大部を覆い、読後に重いものを残す。ベルリンの壁が壊れ、東西ドイツは統一されたが、戦後の日本社会同様、不都合な真実に目をつぶり、充分な検討がされないまま有耶無耶になったことがあまりに多いのだろう。登場人物の一人が言う、「私は東ドイツで見た社会主義はナチズムの継続だと思った。たしかにソ連の影が東ドイツ全体を覆ってはいたが、私は行ってまもなくあの国の社会主義はナチズムの新しい形に過ぎないと思った」と語っている。

人が人を監視し、自分とは異なる相手の考えや立場を尊重しようとせず、長い物に巻かれるように、周囲の声に同調し、意見の異なる者を排撃する。ナチズムだけの問題ではない。同じころ、ファシズム国家であったこの国にも、その根っこは残っていたようだ。いつの間にやら時代は七十年前に戻ったようになっている。ひたすら暗く、重いのは北欧ミステリのせいではなかった。この国の今の在り様がそう思わせるのだ。