おや、と思って書棚から小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を取り出して、奥付を調べてみた。もちろん最新版の方ではない。桃源社版だ。昭和四十六年四月刊ということは事件が起きた前年だ。同シリーズの古本は函入だったが、手に入れたのはカバー装だった。作中では三年前に復刊とあったから、作中のミステリマニアが手に入れたのは函入だった可能性が高いが、中身は同じだろう。
その解説の中で、澁澤龍彦が松山俊太郎によるエディション・クリティック(批評版)について言及していたが、それが後任者の手によってつい最近完成し、我が家の書棚にも収まっている。一冊の本について、ビブリオグラフィーを完成し、それに基づいて批評版を作り上げるのに、これだけの歳月を要することに改めて驚くが、先人の遺志を継ぎ、それを成し遂げる志にも恐れ入るしかない。
いささか脱線気味のところから話に入ったのには訳がある。実はこの話、事件の起きたのが1972年の十二月二十五日。都内の私立大学のサークル研の部室から一人の女子学生が消失した謎を追うものなのだ。何故そんな昔の話が今頃出てきたかといえば、当時を知る老女が、安保法制に揺れる国会前のデモの群衆の中に旧友の顔を発見したからだ。それも当時そのままの若い顔で。ジンという名の友人は二十二歳の誕生日ごとに死んで再生すると秘密めかして話していたが、まさかそんなことが起きるとは?
私立探偵の飛鳥井は、本名その他の分からない人間を写真だけを頼りに見つけ出すのは不可能だと断るが、それなら名前その他の経歴がはっきりしている男性の現在の居所を調べるように依頼される。当時その大学の東アジア史研究会を主宰していた男だ。それなら可能だと依頼を受け、調査に入る飛鳥井だったが、その男は大学を中退した後行方がわからなくなっていた。
飛鳥井の捜査方法は至極真っ当なものだ。関係者から本人を知る者の名を聞き出し、面会を求めては、少しずつ情報を探り出し、分からない部分を埋めてゆく。一人の人物から次の人物へと、点と点を結んで線を描くようにして少しずつ絵が完成してゆく。そこに現れてきたのは、大学紛争が機動隊によって殲滅され、セクトの活動家は四分五裂した時期、反日武装闘争のために、連携を求めた二グループの集会時に起きた密室内の人間消失だった。
いかにも本格推理小説好みの「密室」もののようだが、麻の上下を着て真夏の東京を動き回る探偵はハードボイルド調。オフィスは『マルタの鷹』の映画をまねて帽子掛けまであるという。派手なアクションはほとんどない。何しろ探偵が六十代後半で、事件関係者の大半が当時大学生だ。まるで老人会のようなものである。その会話に出てくるのが、新左翼の路線問題だとか、武装都市ゲリラによる連続企業爆破事件だとかの話。今の読者はついてこれるのだろうか。
依頼者の祖母から探偵との連絡役を仰せつかった孫は安保法制反対を叫ぶ国会前のデモを主導する学生の一人。同じ大学生ながら、四十年前の過激化する一方の学生運動と現代の統制のとれた温和な大学生気質の対比の意図もあるようだ。作中、かつての反日武装戦線の活動家だった男と孫との対話にそれがよく現れている。
作中人物間の白熱した議論といえばドストエフスキーの作品が有名。『悪霊』の登場人物の一人、ピョトール・ヴェルホーヴェンスキーのモデルとなったネチャーエフの事件は、埴谷雄高の『死霊』にも使われているように作家の想像力をいたく刺激するようだ。今回の事件もそこに端を発している。目的のためなら詐欺師紛いの嘘を積み重ね、仲間を騙し、煽り、利用する革命家の裡に潜む「悪」をどうとらえるべきか、という認識がそこにある。リバタリアンを自任する飛鳥井は態度を保留するが、運動の渦中にいた者は、四十年の間に生き方や思想の上で様々な変化を遂げている。それによって人生を奪われた者もいる。
変わるものと変わらないものというのが、ドラマを成立させるための対立軸となる。四十年という時間を間に挟むことで、今や間近に死を迎えつつある者の中に、それまでに解決しておかなければ悔いが残る案件があった。一人の老女が、大学生時代に知り合ったというセシル・カットの似合う女の子の件もその一つだった。
サルトルとカミュの論争、バリケード内で演じられたアングラ演劇と当時を知る者にとっては懐かしい話題が次々と繰り出され、大江や三島の文学作品への言及もある。特に輪廻転生を主題とする『暁の寺』は、本作の表題からも分かる通り、重要な役割を持たされている。関係者の一人が天啓教というテロを行ったカルト宗教の信者になっている点はオウム真理教を思い出させると共にテロと宗教との関りにも思いは及ぶ。
『テロルの現象学』の著者でもある笠井潔のことだ。かつての東アジア反日武装戦線を今も律儀に引きずっている。日本から海外に出た活動家がいくつもの国を経由していくうちに、左翼からイスラム過激派へと様変わりしていく経過が、独自の理論で整理される。帯にある「本格ミステリ+ハードボイルド+社会問題+思想闘争」という惹句に嘘はないが、本格というにはトリックが弱い。事件の真相も大体想像がつく。思想闘争も作者にとっては重大事だろうが、今の読者にはどうだろう。
酒もたばこもやめて、野菜を中心にした自炊暮らしの老人探偵だが、ハードボイルド探偵小説の醍醐味は残っている。一貫して「私」を使わない一人称視点で語る、飛鳥井の目に映るこの国の姿はかなり荒んでいる。今や日本は二極化された階級社会であり、世代でいえば、中高年、職業でいえば一流企業の正社員と公務員だけが安心して暮らせる世の中になっている。事件関係者の一人は引きこもりの息子の身を案じ、自分が死んでもそれを伏せ、年金をもらい続けるよう遺書に書く。どれだけの死体が家の庭や床下に埋められているか知れないという探偵の言葉に背筋が寒くなった。
老人と病人ばかりがぞろぞろと出てくるハードボイルドというのは異色である。しかし、ある意味リアルでもある。高齢化社会といわれて久しい。探偵も犯人も、当時事件に関わった者はみな老いて病み衰えつつある。人はそれでも何とかやっていかなければならない。私立探偵飛鳥井もそろそろ引退をなどと考えず、まだまだもうひと頑張りしてもらいたい。どうも、それほど安心して次世代に後を頼める世の中になりそうもないではないか。