青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『それまでの明日』原尞

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愛煙家必読の書。今どきこれだけ煙草を吸うシーンが描かれる小説は世界中どこを探してもないだろう。出てくる男も女もひっきりなしに煙草を吸っている。禁煙になっていてもだ。まあ、自分は吸わないが、最近の煙草に対する世間の冷たさには首をかしげたくなるところもある。昔の映画の喫煙シーンをカットしたり、煙草の代わりに別のものを持たせるように改変したりする動きがハリウッドであるという。それだけはいくらなんでもご容赦ください、と言いたくなる。ボギーに何を持たせるつもりだ。ぺろぺろキャンディか?

和製ハードボイルドの第一人者による14年ぶりの沢崎シリーズの新刊である。期待は大きい。書き出しを読んで胸躍らせる愛読者も多かろう。沢崎もとうに五十の坂を越えたが、事務所の看板は相変わらず<渡辺探偵事務所>のままだ。ただ愛車のブルーバードは部品取り用に修理工場に買い取られ、今はそこの代車に乗っている。携帯電話は今も持たない。この節携帯なしで仕事ができるのか、と思うだろうが、電話サービスを利用しているので、留守の時はそちらにかかる。後で確認すればいいし、嫌な相手の電話を無視できる利点もある。

今回の依頼人は当節めったにお目にかからない紳士。老舗の料亭の女将の身辺調査の依頼である。依頼人の望月は金融会社の新宿支店長で融資先の経営者を調べたいという。本当は別の依頼があって、これはそのための小手調べではないかと思った沢崎は、あまり気の乗らない仕事だが受けることにした。ところが、調査を開始してすぐ、その女将は半年前に亡くなっていることが分かる。赤坂の<業平>というその店は、今では妹が後を継いでいた。

そのことを告げようとしても電話が通じない。依頼人が勤める金融会社に出向いた沢崎を待っていたのが強盗事件だった。支店長不在で金庫が開かないことに業を煮やし、一人が逃げ、残された一人は客の海津という青年に説得されて自首。強盗は未遂に終わったが、金融会社が渋るのを警察が強引に開けさせた金庫には本来あるはずの金のほかに数億円の札束が詰まったジュラルミン・ケースが入っていた。

沢崎は海津と一緒に姿を消した支店長の望月を探し始める。海津は学生ながら人材派遣会社を経営しており、望月とは懇意で娘のアルバイト先も斡旋する間柄だという。貰った名刺から電話サービスで自宅の住所を突きとめ、部屋に入ると、そこには別人の死体があった。すわ殺人かと色めきたつ警察。そこにやくざまでがからんでくる。もしや望月は事件に巻き込まれ、やくざに監禁されているのでは、とアタリをつけた沢崎は<清和会>の相良に探りを入れる。相良は親を介護するため一時的に組を離れていた。

本家のハードボイルドのギャングだが日本ではやくざになる。これが苦手だ。どうにも絵にならない。チャンドラーの小説に出てくる大物は、ディナー・ジャケットに身を包み、身だしなみも整ったいっぱしの紳士気取りだ。交わす会話も洒落ていて、読んでいてそれが楽しい。ところが、安藤昇を除けば、やくざには学もなければ教養もない。ただ、怒鳴り散らして脅しをかけるだけだ。洒落っ気はないが相良との会話に人間味のあるのが救いだ。

チャンドラーの『長いお別れ』、近頃では『ロング・グッドバイ』の方が通りがいいか。あれを意識しているのだろう。男の友情というのが一つの主題だ。つけ加えるなら親子、夫婦といった家族もそうだ。探偵という稼業のせいか、渡辺を亡くしてからというもの、沢崎には心許せる友人も家族もいない。今回相棒をつとめるハンサム・ボーイの海津や、沢崎が紳士だと認めた望月と名乗る依頼人が、二人でテリー・レノックス役をつとめている。

つきあいは浅いが、好ましく思える相手のために、いろいろと世話をした挙句、結果的には裏切られてしまう、孤独な探偵の心情を哀感込めて描いたのが『長いお別れ』だ。もちろん殺人事件が起こり、その謎を解くのが本筋だが、読者の心に長く残るのは、人たらしのテリー・レノックスに手もなく魅了される、まだ若さの残るマーロウの意外にやわなハートだ。さすがに五十をこえた沢崎はそこまで甘くはない。

残念なのは、魅力的な女性が語りの中には出てくるのに、すでに死んでしまっていることだ。伝法で気っぷのいい静子という女将は映画なら山田五十鈴あたりが役どころ。銀幕の名女優の名が何人も出てきて、高峰秀子が語ったとされる女将の生前の印象が文中に引用されている。これがなかなかの出来。強盗犯の一人が俳優の河野秋武に似ていたという一節が出てくるが、若い者は誰も知らないというのも面白い。携帯は持たない、辺りかまわず煙草は吸う、懐かしの映画スター、と時代に逆らったような演出だ。

それでいいのだ。十四年も新作を待つファンなら、変わり果てた沢崎など見たくはなかろう。ミステリ調よりもハードボイルド調を優先したというのが作家の言葉。たしかに発砲事件が起こり、死者も出るが、肝心の事件が物足りない。まあ、舞台が新宿ではハリウッド大通りのあるLAとちがって街並みからして猥雑だ。ケチなやくざ絡みでは話がショボくなるのも仕方がないのかもしれない。過去に因縁のある新宿署の錦織も<清和会>の橋爪も沢崎の相手役としての魅力に乏しい。三月初旬というから東日本大震災だろう。新しい事務所は地震を持ちこたえ、沢崎も健在だ。次の事件を期待するとしよう。