青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『雪の階』奥泉光

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武田泰淳の『貴族と階段』、松本清張の『点と線』を足して二で割ったような小説。二・二六事件前夜の緊迫した政治的状況を背景に、伯爵家の令嬢が友人の死の謎を解く、ミステリ仕立ての一篇である。特筆すべき点は、元ネタとして、上に記した二作品をフルに使いきっていることだ。自炊用にバラした二篇を適当につなぎ合わせて筋が通るように手直しし、一篇に仕立て直したような凝った作品になっている。

貴族院議員笹宮惟重伯爵の娘で女子学習院に通う惟佐子には宇田川寿子という親友がいた。松平侯爵邸のサロン演奏会のあと、外苑で花見をする予定でいたのに、寿子は演奏会を欠席した。その後も連絡がなく、心配していた惟佐子が事実を知ったのは数日後。寿子の死体が発見されたからだ。寿子は久慈という青年将校と富士の樹海で情死していた。

しかし、惟佐子には寿子が心中したとは思えなかった。惟佐子宛の仙台中央の消印のある葉書には「くわしいことは帰ったら話す」と書かれていたからだ。貴族の娘で外出もままにならない惟佐子に代わり、この謎を追うのが、幼い頃の惟佐子の「おあいてさん」になっていた惟佐子が「ねえさま」と慕う千代子。新米写真家の千代子は蔵原という顔見知りの記者と二人で、心中事件の謎を追う。

惟佐子をめぐる出来事が『貴族の階段』をモチーフにし、千代子と蔵原のコンビが鉄道に乗って事件を捜査する『点と線』の刑事二人に擬されている。情死に見せかけての殺人事件を冒頭に配したのは『点と線』に対する挨拶。ならば、二つの小説を読んでいないと面白くないかといえば、そんなことはない。むしろ、知らずに読む方が面白い。既読であればあまりにそっくりなぞられていることがかえって煩く感じられるにちがいない。

というのも、恐らく作者はそういう仕掛けを施すことで、かえって自由気儘に小説世界を遊ぶことができるからだ。二・二六事件に関する資料や稗史を大胆に活用して、かなりアブない小説世界を展開してみせている。霊能者や霊夢、神智学、神人、獣人といった概念を日本という国家と絡み合わせ、天皇親政を目指して決起した青年将校の動きを利用し、別の目論見が進行していたというのだ。

三千年も昔のアメノミナカヌシノカミに始まる純粋日本人の系譜が廃れ、大陸から渡ってきて日本を席巻したのがヤマト民族、つまり現在の日本人で、かつては神人の純粋な血であったものが、今ではヤマト民族と混血することで濁ってしまった。この穢れた血を廃することが肝要だ、というのが惟佐子の母方である白雉家の伯父惟允の考えだ。とんでもない内容で、ナチスアーリア人種を優先し、ユダヤ人弾圧につながる同系の理論である。

惟佐子の兄、惟秀は伯父の思想を受け継ぎ、二・二六事件を利用して皇居に入り、天皇を人質にしてクーデタを起こそうという妄想に支配されていた。白雉家こそが、純粋日本人の血を引くわずかな生き残りだからだ。一方でこの白雉家の血を継ぐ者は淫蕩で乱倫、同衾相手は男女を問わないというもの。惟佐子にもその傾向があるのは次第に明らかになる。没落貴族の退嬰的な風俗描写は『貴族の階段』由来であろう。

それに食傷気味になるだろう読者を意識して、食欲旺盛で健康的な千代子と新聞記者をやめて出版社を始める蔵原という健全なコンビがいる。なかなか進まない恋愛模様が、事件の捜査と共に進捗する。男に混じって三脚や重いカメラバッグを持って駆け回る千代子がいなければ、この小説は胸につかえる。どこまでが事実で、どこからが妄想なのか、スパイ疑惑や組織による暗殺、放火殺人といった不審な事件が二人の行く先々で待ち受ける。

もとにしたネタがあるのだから、話の行き着く先は決まっている。広げに広げた大風呂敷をどううまく畳んでみせるかが腕の見せ所である。一応合理的な解決がなされているが、オカルトめいた世界をすっかり払拭するところまではいかない。惟佐子にはこれから先の日本が戦争へと向かうことや国土が焼尽に帰すことまで見えているようなのだ。つまり、結末の明るさは蝋燭が消える前の束の間の明るさに過ぎない。

白雉家の血を引く清漣尼がいう。この国をヤマト民族に任せておけば、戦争で滅ぼされてもまた同じことを始めるだろう。なぜなら彼らは自分で自分を滅ぼしたいのだ。この言葉が妙に心に残る。敗戦以来一人の戦死者も出さなかった憲法を変え、軍隊の持てる国にしたいという人間を国民が支持するのだ。清漣尼の言う通りではないか。今頃、『貴族の階段』や『点と線』を持ち出した作家には、今のこの国の在り様がデジャヴのように見えているのではないのだろうか。

漢語ルビ振りを多用し、擬古的な文章に見せているが、漢字の多さを気にしなければ文章自体は特に時代がかってはいない。文章中にも言及されているがヴァージニア・ウルフの用いる次から次へとくるくると変換する視点も、慣れればそんなに気にならない。それよりも、作家が用意した奇手妙手に手もなく翻弄される楽しさの方を味わいたい。そして、暇があれば、泰淳や清張の小説にも手を伸ばしてみたいと思う。