青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『昏い水』マーガレット・ドラブル

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老人施設の調査研究を仕事にするフランチェスカ、とその息子で今はカナリア諸島に滞在中のクリストファーという二人の人物を軸にして、二人をめぐる家族、友人、知人が多彩に出入り、交錯する。短い章ごとに視点人物が入れ替わり、それぞれの視点で語られる挿話は、人物の内省やさりげない日常の断片であったり過去の回想であったりと様々だが、ひとまずは老いを主題にしていると言っていいだろう。

とうに七十の坂を越えながら、見知らぬ他人と何時間も一緒に過ごすのが苦痛という理由で、一人プジョーを駆ってイングランド中を駆け巡るフランが出会うのは、老人がその大半。迫りくる死期、弱りつつある身体能力、病からくる痛みと向き合いながらも、それぞれが自分の流儀で日々を生きる姿を、英国流のヒューモアと辛辣な人間観察によって、リアルに生き生きと浮かび上がらせる。

フランが住んでいるのは高層住宅。エレベーターがよく止まるので階段を上り下りしなければならない。少し躁じゃないのかと息子が思うくらい、常に動き回っていないといられない性格なのだ。仕事に出ていないときは、別れた夫で今はほとんどベッドに寝たままの元医師クロードのところにタッパーに詰めた手料理を届けたり、友人のテリーサやジョゼフィーンを訪ねたりと日々忙しく暮らしている。

老歴史家のサー・ベネットとその世話をしているアイヴァーが暮らすのは、北西アフリカ沖にあるスペイン領カナリア諸島のひとつランサローテ島。クリストファーの妻セイラは、この島でテレビ番組の取材中に突然倒れ、急逝したばかりだ。その時親身に世話を焼いてくれたのが、ベネットとアイヴァーの二人だった。事後の処理も兼ねて、島を訪れたクリストファーはベネットの住む「スエルテ荘」に厄介になっている。

社会的には中流にあたる階層の人々が多く、話題に上るのは文学や歴史、美術、音楽で、それもかなり突っ込んだ内容。たとえば、寝たきりのクロードの楽しみがマリア・カラスを聴くことだと言われれば、特にオペラ好きでなくても分かるかもしれないが、中皮腫を病んで体力が衰え、本棚の上の画集を取ることが難しくなったテリーサの兄が、ヤコポ・ダ・ポントルモの専門家と紹介されて、その絵が思い浮かばなければ、愉しみも半減してしまう。

フランのもう一人の友人ジョゼフィーンはケンブリッジのアテナ館に住む英文学研究者で今も週に一度成人学級を担当している。その研究テーマは「死んだ妻のまだ生きている姉妹」というものだ。週に一度木曜の夜に酒を飲む相手が同じ研究者仲間のオーウェンで、ケンブリッジのリーヴィス一派である。このオーウェンとベネットは旧知の仲というように、イングランドカナリア諸島は、この他にもいくつもの線で繋がっている。

特にこれといった出来事が起きるわけではない。いちばんそれらしいのが、雨の中、湿地帯にある老人施設を訪れたフランが冠水した道路で立ち往生する場面なのだから推して知るべし。やむを得ず近くに住む娘の家に泊まることにしたフランは、地球環境を専門にしている娘の異常気象観測プログラムで、カナリア諸島の海底火山の活動が活発化していることを知り、息子にメールを送る。その頃クリストファーはベネットが倒れて、窮地に陥っているアイヴァーに寄り添っていた。

ベネットとアイヴァーは長いつきあいだが、同性婚をしているわけではない。ベネットが腰の骨を折ったことによって一時的に正気を失っていることがアイヴァーの苦境の原因だ。実質的には家族でも法的には他人である。もしものことがあれば、この異国の地で住む場所を失ってしまうことになる。陽光にあふれ空気の乾燥したカナリア諸島の暮らしを捨てて、じめじめしたイングランドに帰る気のしないアイヴァーは、今まで封印してきたベネットの遺言を読もうと決意する。

大した事件は起きないが、ベネットはただ転んだだけで正気を失うし、テリーサも書棚の踏み台から足を滑らせたのが原因で死期を早める。老人にとってはちょっとしたことが命取りなのだ。七十をこえてもバリバリ現役のフランやジョゼフィーンだが、フランは運転はできても電気系統には疎い。ジョゼフィーンヌにしてもDVDの取り扱いがよく分からない。そうした小さなことが老人を生きづらくさせている。彼女らよりは少し若い自分にも身につまされることは多い。

難民問題や民族独立といった政治的な課題から、同性愛者の抱える不安、老人問題といった身近な話題まで、多彩な話題を多くの人物に振ることで、ストーリーらしきもののない身辺小説的な話に立体的な構造を持たせることに成功している。女性の髪形や服装、化粧といったディテールを微細に描き分けることで、人物の個性を際立たせることの巧みさはいうまでもない。フランお手製の料理はイギリスの食事がまずいという先入観を打ち破るものだし、ワインやアブサンといったアルコール類への目配りも利いていて読む愉しさに尽きない。

エピグラフに引いたD・H・ロレンスやW・B・イェーツをはじめとする作家や詩人への言及もたくさんあるので、英文学愛好家には何かと読みどころが多い。何より個性あふれる人物が魅力的で、個人的には寝たきりの身でありながら美貌のジンバヴウェ人介護士を口説くことに成功する食えないオヤジのクロードに親しみを覚えた。飲み食いだけでなく、知的な会話や活動を含め、老いを描いているのに少しも枯れを感じさせない。これは国民性の違いだろうか。

日常会話の中にシェイクスピアギリシャの古典、ベケットの戯曲、イェーツやロレンスの引用が頻繁に出てくるのは文芸評論家でもある作家ゆえかもしれないが、体が動かなくなるにつれ、人との交流は会話が中心になる。その際に、どれだけの引き出しを持ち、互いに相手ができるかが大事になる。医者通いや我が子の愚痴が共通の話題では悲しすぎる。我が身を振り返っても、文学の話のできる友人は身近にはいない。残り少ない人生を楽しく語り合える友を持つフランやジョゼフィーンが羨ましく思えた。