青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『動く標的』ロス・マクドナルド

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ハメット、チャンドラーの後継者と呼ばれたロス・マクドナルドの手になるロスアンジェルスの私立探偵リュー・アーチャーが活躍するシリーズ物の第一作。何十年も前に訳されたハードボイルド小説の新訳である。どうして今頃になってと思うのだが、村上春樹の新訳が出たことでチャンドラーを読み返すことになった。新訳と旧訳、さらには原書を読み比べるという愉しみも見つけた。きっとこれも新しい読者を見つけるだろう。

サイコパスシリアルキラーが、考えられないような残酷な犯罪を犯すのが、昨今のミステリ界。それに倦んだ読者が古典的なミステリを希求している、ということがあるのかもしれない。ヴァン・ダインディクスン・カーなどの新訳も出ている。そういう意味ではこの作品、どこにでもいる普通の人々の中に潜む邪悪な心というものに目を向けているという点でぴったりかもしれない。

時は第二次世界大戦が終わって間もない頃、舞台はサンタテレサという名に変えられているが、南カリフォルニアのサンタバーバラ。そこに住む石油業界の大物サンプソンが行方不明になり、お抱え弁護士アルバート・グレイヴズの紹介で、私立探偵リュー・アーチャーが夫人に捜索を依頼される。アルバートは元検事でアーチャーは検事時代、彼の下で働いていた、という設定はチャンドラーのマーロウとバーニー・オールズの関係に倣ったのか。

サンプソンという人物は実力で成り上がったやり手だが、息子が戦死してから酒浸りとなり、星占いや怪しい宗教に入れあげて、家族が危ぶむような生活を送っていた。足に障碍を持つ妻との関係は冷え切っており、娘のミランダを溺愛していた。もし死ねば遺産は妻と娘で二分される。ミランダはお抱えパイロットのタガートという青年に夢中だが、タガートには他に好きな相手がいるらしい。アルバートミランダに求婚中で、それは父の認めるところだった。

被害者の死で利益を得るものが犯人というのは常識だが、起きているのは誘拐で、十万ドルという身代金は五百万ドルという遺産総額と比べると高が知れている。被害者の交際相手を調べていくうちに、捜査線上に次々と怪しい人物が浮かび上がってくる。酒がなくては自分を扱いきれなくなっている大金持ちにたかる、いずれも裏に事情のある危険な連中だ。

星占いが得意な落ち目の映画女優、その夫で危ない稼業に手を染める白髪の英国人、山上の小屋で太陽神崇拝に耽る似非宗教家、コカイン中毒で身を持ち崩した女性ジャズ・ピアニスト、と一癖も二癖もある人物が交錯し、テンポよく物語は進んでゆく。身代金をめぐっての仲間内の抜け駆け、裏切り、それに遺産をめぐる三角関係がからみ事件は錯綜する。アーチャーは事件解決の糸口を見つける。しかし、そこには思いもよらない結末が待っていた。

家族を主題とする物語であり、それに終わったばかりの戦争が影を落としている。家族の誰にも愛されていた息子の戦死が父と母を苦しめ、兄の代わりになれない妹を苦しめている。戦争当時は空の英雄ともてはやされた元パイロットの青年は、戦争が終わってしまえばただの人だ。亡き息子の身代わりとして金持ちに雇われ、自家用機のパイロットでもするしかない。金の力が人と人との間に軋轢を生じさせ、思わぬ事態を招くことにもなる。

よく練られたプロットで、特別な悪人ではないごくごく普通の人間が、ある状況下で次第に追い詰められていき、犯罪に手を染めるまでに至るプロセスが子細に描かれている。謎解きにはそれほどこだわらないハードボイルド小説でありながら、叙述はフェアで、目を留めて置かねばならないところには的確に目配せがされており、再読すれば、そこに書かれていることの意味がよく分かる。

一つだけ気になったところがある。終始サンタテレサで通しておきながら、アーチャーが情報局時代の上司に連絡するところで「あなたのボスにサンタバーバラの検事と連絡を取るよう言ってください」という箇所(P.181)がある。ここは原作でもそうなっているのだろうか?それとも訳者のミスだろうか。旧訳に当たってみようと思ったのだが、手元にない。気になって仕方がない。