青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ヴェネツィアの出版人』ハビエル・アスペイティア

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『ポリフィルス狂恋夢』という絵入り本の話を初めて読んだのは澁澤龍彦の『胡桃の中の世界』だった。サルバドール・ダリの絵の中に登場する、飴細工を引き延ばしたように細長い足を持ち、背中にオベリスクを背負って宙を歩く象のイメージも、この本の中に収められている一葉の木版画に基づいていると紹介されていた。

作中『ポリフィロの狂恋夢』という書名で語られる面妖な本はフランチェスコ・コロンナ作と伝えられるが、実作者の名は明らかではない。しかし、出版した人物は奥付により明らかにされている。ヴェネツィアの出版人アルド・マヌツィオその人である。澁澤の本にもアルドゥス・マヌティウスの名で登場している、商業印刷の父とも称される十五世紀イタリアの出版人である。

タイトルからも分かるように、この小説は、そのアルド・マヌツィオが、ヴェネツィアを初めて訪れたその日から、愛する妻に看取られて死を迎えるまでの波乱に満ちた半生を、黒死病の蔓延する水の都ヴェネツィアを舞台に、ピコ・デラ・ミランドラやエラスムスといったルネサンスを生きた人文哲学者との交友をからめて、華麗に描き上げた歴史小説といえる。また、その影響力、伝播力を恐れて教会権力が出版を認めない当時の発禁本を秘密裡に印刷、出版しようと苦闘する出版人の努力を描くものともいえる。

何よりも興味深いのは、当時のイタリアの出版事情をその当事者の目から描いていることだ。当時の本は重くて大きく、台の上に置いて読むものだった。それを誰もが片手で持ち運べるポケットサイズの八折り版でギリシア古典を出版したのがアルドだった。その組版や活字には、熟練の活字工フランチェスコ・グリッフォの存在があった。イタリック(斜字体)の活字を考案したのも、この活字父型彫刻師の存在に負うところが大きい。

注釈なしのギリシア語で古典文学を出版するのは、ラテン語に訳されたアリストテレスを読んでいた当時としては大胆な試みだった。しかし、ドージェの息子やピオ王子の家庭教師をしていたアルドには、学生にとっては手軽に持ち歩けるギリシア語の古典文学全集の必要性が分かっていた。資本も印刷所も持たないアルドはヴェネツィアで手広く出版業を商っていたアンドレア・トッレザーニに協力を仰ぎながら、出版人への道を歩きはじめる。

ギリシア語の文学書を出し続けながら、アルドが秘かに出版を考えていたものがある。それはフィレンツェで同じ師匠に学んでいた学友のピコ・デラ・ミランドラに託された二冊の本の出版である。それが前述の『ポリフィロの狂恋夢』であり、もう一つがエピクロス作『愛について』である。この本では『ポリフィロの狂恋夢』の作者はピコ・デラ・ミランドラその人という大胆な設定がされており、エピクロスの本については、驚異的な記憶力を誇るピコが全篇を記憶したものを写本にしたという設定である。

『ポリフィロの狂恋夢』が、実際に出版された書物としてアルド・マヌティオの名を高めたタイポグラフィ史上の傑作であるのに対して、エピクロスの書物については詳しいことは残されていない。エピキュリアン(快楽主義)という名のもとになったことから、誤解されがちだが、快楽というのは肉体的快楽ばかりを意味するのではなく、むしろ精神的な快楽を意味するものであったとされているが、作中ではかなり性的な快楽の書であるという理解の上に位置付けられている。

それ故に。キリスト教との対立が生まれ、サヴォナローラの命を受け、異端の書を闇に葬るために暗躍する写本追跡人が、アルドが秘かに隠し持つピコの写本に目をつけ、執拗にそれを奪取し、火の中にくべようとアルドを追い回す。カトリック教徒であるアンドレアもまた、教会側の意を汲み、アルドの目論見を阻止しようと、折につけ出版の邪魔をする。一方で、自分の事業にとってアルドの見識を誰よりも必要とするのがアンドレア。それ故、自分の愛娘マリアを年の離れたアルドの妻として結婚させる。

ユダヤの血を引きながら、ユダヤ教にもキリスト教にも帰依しないアルドは、それでいながら女性との間には距離を置き、仕事ひとすじの人生を送ってきた。歳を経ての結婚には二の足を踏み、何とかマリアとの結婚を回避しようとするが、アンドレアの策謀によって結婚式は挙行される。初夜の床に就くのを拒否するアルドに対してマリアのとった行動が大胆で、その後のマリアの生き方に真っ直ぐつながっている。

学識はあるのだろうが、優柔不断で行動力の伴わないアルドに対し、ギリシア語も解し、印刷出版業についても熟知しているマリアという女性の魅力が際立つように描かれる。アルドの息子パオロは、父の偉業を後世に伝えるために伝記を書こうとして、若くして死に別れた父の真の姿をマリアに尋ねようとするが、母はそれに対して口を濁す。序章に記されたその事実が、後のアルドの実人生の持つ深い意味を物語る。

アルドの偉業を支えたのは、単にグリッフォだけでなく、妻であるマリアの存在が大きかったのだ。パオロには聞かせなかったヴェネツィアの出版人アルド・マヌティオの真の物語をその妻のマリアの記憶が語ったのが、この『ヴェネツィアの出版人』という物語。歴史的事実に作家の大胆な想像力が生み出した、ルネサンスを生きたであろう人々の破天荒な生き方を絶妙の筆加減で配したビブリオテカ・ロマンとでも名付けられそうな異色の小説。本好きな読者にこそおすすめしたい。