青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『カッコーの歌』フランシス・ハーディング

f:id:abraxasm:20181210162202j:plain

『嘘の木』の作者フランシス・ハーディングの二冊目の翻訳になる。翻訳の世界ではよくあることだが、本国ではこちらが先に出版されている。それで、評判になった作品を読んで、期待して次回作を読むとそれほどでもなかった、ということもある。さて、今回はどうなるだろうか。『カッコーの歌』は、信頼できない語り手が物語る、アイデンティティ(自己同一性)の不安をテーマにしたファンタジー、とひとまずは括ることができる。

ひとまずは、というには訳がある、興味深いテーマがいくつも用意されていて、どれか一つだけも、充分物語を作れるだけの重さを備えているのに、徹底して突き詰めることなく、物語の中に惜しげもなくぶちまけられているからだ。湧き出してくるアイデアを整理できないまま、勢いで書かれたのだろう。その分、次のページを繰らせる力は強い。あれこれ考えずに物語の中に浸りきりたいというタイプの読者にはうってつけの読み物である。

話が進むにつれて主人公の名前がくるくる変わっていく。初めはトリス、次に偽トリス、そして、トリスタ(哀しみ)と。どうして、そんなことが起きるかといえば、物語は主人公が水から這い上がってくるところを助け出されたところから始まっていて、ショックのため、一時的に記憶をなくしているのか、自分のことを相手が呼ぶ呼称によって理解しているからだ。母親(らしき人)は、トリスと呼ぶが、妹(らしき人)は、そいつは偽者だと言ってきかない。

記憶は失くしておらず、今がジョージ五世の御代であることも、自分の住所も言うことができる。それなのに、両親や妹を判別するのになぜ自信が持てないのか、このあたり、作者はなかなか巧みな語り口で語っている。「わたし」という、一人称限定視点で語られていながら、この語り手は、自己同一性を周囲の認識に頼っている点で、いわゆる「信頼できない語り手」なのだ。

おいおい明らかになってくるが、どうやら、「わたし」は本当の人間ではなく、葉っぱとねじれた枝とイバラでできた「人形」らしい。事件を目撃した妹の証言によれば、二人の男が姉のトリスを誘拐し、その代わりに姉の書いた日記やブラシその他の姉に関する何やかやを水の中に人形と一緒にぶちこんだ後で、水から出てきたのが「わたし」らしい。つまり、今いるトリスは、いうところの「取り替え子」なのだ。

「取り替え子(changeling)」というのは、ヨーロッパの伝承で、人間の子が連れ去られ、その代わりに妖精やトロールの子が置き去りにされること、あるいは、そうして取り換えられた子のことを指す。また、妖精などの子ではなく魔法をかけられた木のかけらなどが残されていることもあり、それはたちまち弱って死んでしまうこともある、ともいう。「わたし」が生きていられるのが七日間と日限が切られている本書の場合、後者のほうだろう。

初めは、いくつもの謎の提出があり、主人公の出自や、父親に対する脅迫めいた行為も仄めかされるので、ミステリめいた展開を予想するが、主人公が命を吹き込まれた人形であることが明らかになるにつれ、一挙にファンタジー色が強くなる。瓦斯灯がともり、馬車が行き交う町の上を三つのアーチ橋が架かり、橋上を鉄道が、橋の下を人や車が通る英国の地方都市を舞台にした、小さな姉妹の冒険ファンタジーである。

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本がある。それによれば「合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱」といったさまざまなことが、キツネにだまされたという物語を生みだしながら暮らしていた社会が高度経済成長期を境に徐々に崩れていったのだろう、ということになる。

時代こそ違えこの物語も、鉄道も通り、自動車も走りだして、少しずつ開けていく産業革命後のイギリスの町が舞台である。以前は人間と共存していたある種族が、かつては誰の場所でもなく、自然に存在した場所が消え、すべて地図上に明記されてしまった村に住めなくなり、互いに見知らぬ人々が生きる都市に住処を求めることになる。一人の仲間の思いつきで、皆が住める場所を見出したのも束の間、土木技師である主人公の父が契約を反故にしたため、復讐としてその娘をさらい、代わりに「取り替え子」を置くという行為に出たのが、ことの顛末である。

その種族の一人で「わたし」を作った人形師の話。

ナイフは(略)突く。切る。むく。削る。だがハサミは、たった一つの仕事しかしない。物をふたつに切りわけることだ。力で分ける。すべてをこちら側とあちら側にして、あいだには何も残さない。確実に。われわれはあいだの民だ。だからハサミがきらう。ハサミはわれわれを切り裂いて理解したがっているが、理解するということはわれらを殺すも同じなんだ。

二元論は、物事をきれいに分かつ。不分明なものは残さない。前に聞いたことがあるが科学の「科」には「分かつ」という意味があるそうだ。科学万能な世の中は、それ以前は見過ごされていた、きれいに分類することのできないものの存在を認めない。性や人種、イデオロギーを例にとるまでもなく、世界は二者択一には適さないもので溢れている。それを性急に分けることは息苦しいことであり、立場によっては生きる場を奪われることにもなるだろう。この物語にはかなり重いテーマが隠されている。

その他、戦争という経験が、宗教、階級差やジェンダーに与えた影響への示唆など、モズという名の人形師の語る世界観は傾聴に値する。こういう話をもっと聞いていたいという読者もいようが、そんな辛気臭い話ばかりでは息がつまる。サイドカーを駆って、今でいうバイク便で生計を立てている長身の氷の女、ヴァイオレットをはじめ、生きのいい女性が活躍する後半は息もつかせぬ一大冒険ロマンになっている。小難しい講釈はひとまず置いて、異形のものが自分の生きる場所を見つけようと必死に生きる姿に喝采を送りたい読者も多いだろう。若い人たちを本好きにさせる力のある本である。