『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ』フランチェスコ・コロンナ
ハビエル・アスペイティア作『ヴェネツィアの出版人』で小説の鍵を握る出版物として出てくる『ポリフィロの狂恋夢』。澁澤龍彦訳では『ポリフィルス狂恋夢』の初の日本語全訳となるのが、この『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ』である。本についての詳しいことは澁澤龍彦著『胡桃の中の世界』所収の「ポリフィルス狂恋夢」に書かれていることにほぼ尽きる。日本ではほとんど知られていなかったルネサンスの奇書に注目し、詳細な紹介をしている点で澁澤のチチェローネ(案内人)としての力量が窺い知れるというものだ。
澁澤はその中で、ポリフィルスの見るエロティックな夢の記述に着目し、ユングその他の夢解釈を引いて、著者と伝えられるドミニコ会修士フランチェスコ・コロンナの女性に対する執着をシンボリックな図像を通して解釈してみせるが、勿論それは澁澤自身の興味がそこにあるからで、出版物の歴史を通してみるとき、インキュナブラ(揺籃本)を代表する革新的なタイポグラフィの傑作として必ず取り上げられる書物であることはいうまでもない。
ギリシャ風の建築物や、エジプトの象形文字を配したオベリスク、女性が樹木に変化してゆく子細を描いた木版画等多くの挿絵入りで、ラブレーの『パンタグリュエル物語』その他の文学をはじめ、シュルレアリスムの画家、サルバドール・ダリの絵画にも影響を与えたとされるその大冊が、詳細な脚注と挿絵に、関連する資料を訳した付録までついているのだから、何はともあれ手にとらずにはいられないではないか。
表題にあるとおり、夢にまつわる本である。二部構成で、第一部がポリフィルスと呼ばれる男が見た不思議な夢を克明に記述したもの。第二部が、そのポリフィルスが愛する、ポリアという女性が語る自分とポリフィルスの恋愛譚になっている。ひとくちに言えば、身分違いの深窓の令嬢に一目惚れした挙句、娘が祈りをささげるディアーナ神殿に忍び入り、自分の恋情をかき口説くものの、相手にされず懊悩し、ついには悶死しかけた男が見た夢の顛末とでも言えばいいのかもしれない。
ところが、物語はそのようには書かれていない。まず、第一部では、狂死せんまでに恋焦がれる相手のポリアその人の容姿さえ定かではないのだ。無論、夢のことであるからもとより定かであろうはずもないのだが、夢の中で主人公は、地獄めぐりとも、胎内巡りともいうべき巡礼の旅を果たすのだが、途中で出会うニンフその他の美しい女を見るたびに、これがポリアなのだろうか、と疑いながら接している。ポリフィルス自身、ポリアをはっきり認知できないのだ。
第二部のポリアの説明がすべてを明らかにする。ポリフィルスは自宅二階の窓辺に身を寄せるポリアを通りすがりに透き見しただけで恋に落ちたのだ。そんなこととは知らないポリアはポリフィルスの度重なる求愛に終始冷たい態度をとり続ける。しかし、ポリフィルスが神殿で死んでしまい、良心の呵責に耐えられず夢を見る。その酷い夢を聞かされた乳母の解釈で、ポリアはディアーナ女神への貞潔の誓願を破り、ヴェヌス女神のもとへと逃れ、愛の成就を果たす。
すべては、ポリア(本名はルクレツィア)の先祖が、自分の美しさに増長し、神を侮ったせいで起きた悲劇に始まっている。ポリアの受難も、その身に備わった美徳と美貌によって起こる。自分の美しさが他人を不幸にしているのに、相手に対し慈悲心を持たず忌避する態度は先祖の罪をなぞることになる。乳母の話で目が覚めたポリアは涙を流して後悔し、その涙が死んだはずのポリフィルスを生き返らせる。そして、回復したポリフィルスにすべてを打ち明けたポリアは(夢の中で)別れを告げる。一人残されたポリフィルスは、執着を解かれるという話である。
不思議なのは第一部と第二部を記す文体の間にある温度差である。上に述べた内容は二人の奇縁を物語る恋愛譚としてそれだけで成立している。恋愛奇譚を書くならそれで済んでいる。ポリフィルスが龍や狼に襲われたり、女神やニンフ、牧羊神が登場する凱旋行列を見たり、ポリアとともにシテール島へ船出し、島での儀式に立ち会う第一部にはいったいどんな意味があるのだろう。
第一部でポリフィルスは、自分の見た建築物、オベリスク、彫像等について実に子細に解説をしている。建築術の知識や数学を駆使してなされる説明は、単なる恋に焦がれた男の口吻ではない。ひとつの解釈として、フリーメーソンの秘儀についての象徴的な解説になっているのではないか、というものがある。錨に巻きつく海豚の図像など、両者を結びつけるシンボルに事欠かないのは事実であるが、今は解釈例のひとつとして挙げておく。
文学的には、滅多に書いたりするものではないが、擬古的な美文の例として重宝するかもしれない。ギリシア・ローマ神話その他に出てくる数多の恋愛、嫉妬、復讐その他に纏わる人物を引いた豊富な引用が頻出するばかりでなく、建築用語、植物名、没薬、香料等、参考にしたくなる万物の名辞が詳細な註付きで、これでもかというほど繰り返し記載されるのだ。比喩、それも直喩を多用した絢爛たる美文は一読に値する。
イタリア旅行に携えるには少々重いかもしれないが、書斎の机の上に常備し、ルネサンスの画集を見たり、ラブレーや、ネルヴァルを読む際に繙くなど、閑雅なひと時を過ごすにはいいだろう。或は到底成就するはずもない恋の相手にやむにやまれぬ恋情を抱いて悶々としたりするとき、同病相憐れむ先人の苦難に共感しつつ、己の来し方行く末を案じたりするときなど、この書がそれなりの力になるやもしれぬ。とはいえ、書物というのは何かの役に立つから意味があるというものではない。存在そのものにすでに意味があるのだ。造本、装幀、訳業の完成度の高さに拍手を送りたい。