青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『路地裏の子供たち』スチュアート・ダイベック

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古い日本映画を見るのが好きだ。外国映画も好きだが、出てくる風景に見覚えがない。日本の映画なら別に名作でなくても、背景になっているちょっとした風景が、まるで記憶の中にある少年時代のそれと重なって見える。ごくふつうのどこにでもある田舎町の何でもない家並や路地から、当時の自分や遊び友だちが駆け出してきそうな気がする。

少年時代は誰にでもあるだろうが、戦後育ちの者には懐かしく思い出すことのできる現実の風景は、周りにそれほど残っていない。高度経済成長期を通じて、町の風景は一変した。それと時を同じくするようにして人々の生業にも変化が起き、それまで目にしていた人々の姿が町から消えた。たとえば、ポン菓子屋、紙芝居屋といった人々。どこからかやってきて、空き地や路地裏で店を開き、子ども相手の小商いが終わるとまたどこかへと去ってゆく。

小さいながらも店を持つ駄菓子屋などとちがって、その素性の知れないところが子ども心に魅力に溢れていて、ついつい後について行きたくなったものだ。ところが、当時は、夕暮れ時に知らない町をうろうろしていたりすると「子取り」が子どもをさらいにくるという話が囁かれていた。売られた子の行き先がサーカスで、酢を飲まされて柔らかくなった体で曲芸をさせられるというのだ。くわばら、くわばらだ。

大きな道なり、川なりを一つ越えるとそこはもう町外れで、顔見知りの人はいない。日の高い間はまだいいとして、日が暮れかかると一気に心細くなって、あわてて自分の町内に帰って来たものだ。ラジオから流れてくる音楽や夕飯の煮炊きの匂いがいつもと同じであるだけで一安心する。その一方で、知らない町からやってきて、どこへともなく去ってゆく行商の人々への興味、関心は高まるばかりだった。

『路地裏の子供たち』は、作者であるスチュアート・ダイベックが子ども時代を過したシカゴの、貧しい労働者や移民たちが住みついた界隈を舞台にして書かれた短篇集である。そんな町にやってくるのがパラツキーマン。「彼は小さな金色の鈴を鳴らしながら、白い荷車を押して近所を回る老人だった。四つ角に来るたびに立ちどまると、お金を握りしめた子供たちが寄ってきて、細かいナッツをまぶした糖蜜アップルや、尖ったスティックに刺した赤いキャンディアップル。あるいはまた、白い荷車のガラスの下に並んだパラツキーをじっくり吟味した」。

パラツキーとは、パリパリのウエハースを二枚、蜂蜜で貼りあわせたお菓子のことだ。ジョンとメアリの兄妹が、パラツキーマンの後を追って町外れにある、空き地で開かれている見慣れぬ人々の集会を目撃してしまうという話が、巻頭に置かれた「パラツキーマン」。誰もが子ども時代に感じる郷愁を、子どもから大人に変わりつつあるアドレッセンス期の危うい心のバランスを接点に一瞬にして幻想の中に引き入れる離れ業をやって見せている。

原題が<Childhood and Other Neighborhoods>。脚韻を踏んでは訳せないが、「子ども時代とその界隈(の物語)」といったあたりだろう。ポーランド系移民の出自を持つ作家が住んでいた界隈は、ロシアその他の東欧からの移民が多く暮らしていたようで、ロマを思わせる人々の集う様子や、血のスープという名前の料理など、国際色豊かな人々の暮らしが展開し、貧しい暮らしの中で力を合わせて逞しく生きる人々の姿が描かれている。

個人的には「パラツキーマン」ともう一つ「バドハーディンの見たもの」が心に残った。段ボールでこしらえた耳や掃除機のホースで作った鼻を持つ象の中に入ったバドハーディンが草ぼうぼうの空き地に現れる。今は大きくなったバドハーディンは昔、太っちょのいじめられっ子だった。彼は何のために象になって現れたのか。たった一人の大事な友達はわだかまりを残したまま二度と会えなくなった。象となったバドハーディンはその元凶である教会に乗り込んで、めちゃめちゃに暴れ回る。

他者に見せている自分の外皮の寓意なのだろう、まだらな灰色に塗られた大きなつくり物の象が効いている。その中でペダルを踏み、ハンドルを回している自分は小さい頃の少年のままなのだ。駄菓子屋のミスター・ガジーリにはお見通しだった。彼は失くした友情を回復するつもりでやってきたのだ。プレゼント用に準備したのだろう。鼻からこぼれ出る銀貨や腕時計、宝石が哀しい。ピュアな子どもの魂を持ったまま大人になってしまったバドハーディンの孤独がしみじみと心に迫る。

全十一篇。巻末に付された日本版特別寄稿エッセイ「『路地裏の子供たち』を書いたころ」の中で、この物語が生まれるきっかけにコダーイ音楽との出会いがあったことを語っている。音楽について行った作家はその中で迷子になり、自分の想像力の中にあるそれまで訪れたこともなかった場所に行き着く。「シカゴを舞台とはしていても、リアリズムから離れて、想像の都市へと通じている物語」に。読んでいる間、自分もまた見覚えのある風景の中を歩いているような気がしてならなかった。