青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『方形の円』ギョルゲ・ササルマン

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古い地球儀の極の方に「テラ・インコグニタ」と記された土地がある。誰も足を踏み入れた者がいないため、地名は勿論、地勢も植生も何が棲んでいるのかも分からない、未知なる領域のことである。誰も知らない土地、世に忘れられた世界のことを書いたものには前々から惹かれるものを感じていた。稲垣足穂の『黄漠奇聞』、小栗虫太郎の『人外魔境』といった小説の影響が強いのかもしれない。

マルコ・ポーロの『東方見聞録』のパロディという形式を纏い、五十五の架空の都市を物語るのが、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』。青年マルコが憂い顔の皇帝フビライ・汗に招かれ、旅先で目にした数多の都市の有様を物語る形で書かれている。およそありそうもない都市や、未来都市、全くの寓意としか考えられない都市が登場する点で、本書によく似ている。ほぼ同時期に全く離れた地で、兄弟のように相似た本が構想されたことが不思議でならない。

ギョルゲ・ササルマンは建築士でもあるようで、同じように到底存在不可能な都市について書き連ねた書物という点は似ているものの、その形態が異なる。誰かがミロラド・パヴィチの『ハザール事典』を例に挙げていたが、カルヴィーノの『見えない都市』が、どちらかといえば巻物風に次々と広げていくようであるのに比べ、『方形の円』は、短い断章を項目別に編配置した建築や都市に関する事典のようだ。

文体も、『見えない都市』はいかにも物珍し気に驚異に満ちた世界を描き出そうとするマルコの口吻が伝わってくるようであるのに対し、『方形の円』は、一部を除いて、ソリッドでフラットに書かれている。まず、都市の形態が俯瞰的な二次元平面で説明され、やがて、時間の経過に連れ、都市が生成変化してゆく過程が綴られる。多くの都市は、初期の目標が達成された後、そこに暮らす人々の意識の変化や天災、戦争による被害といった影響を受け、まったく姿を変えてしまうことになる。しかし、叙述は寧ろ冷淡すぎると思えるくらい温度に変化がない。

ぽつぽつと書きためられていったのであろう制作過程を物語るように、一つ一つの章は断章と言っていいほど短い。しかるに、その短さの中に、すべてが詰まっているという感が強い。事典風だというのは、そういうスタイルから感じられる特徴である。普通の作家なら、ここにある一つの章から短篇は勿論、長篇小説が書けるだけの素材とアイデアが惜しげもなく詰め込まれている。知的過ぎる作家に共通するのかもしれない、ボルヘスを彷彿させる簡素さだ。

削ぎ落したような文体は嫌いではないが、内容は変化するものの、淡々とした記述が続くと、さすがに変化が欲しくなる。名前を持った人物が登場すると、俄然面白くなる。「一部を除いて」と先に述べたが、その一部がこれらの物語群だ。イカロスやアンティオペーといった神話上の人物、イギリス貴族の探検家、あるいは山岳登山者等々。都市の運命を中心にした章に比べ、これらの章は人間が主人公。都市や建築論も興味深いが、悲劇に見舞われる人間の姿の方に惹かれるのは仕方がない。

「サフ・ハラフ(貨幣石市)」は、直径二マイルの円環状の都市。外観は完璧に組み合わされた石のブロックでできた高さ六〇~七〇フィートの壁。まさに「方形の円」そのもの。イギリス貴族の探検家、ロード・ノウシャーは、仲間を失い、案内人に逃げられた挙句、わずかな水と食糧の入ったリュック一つを手に、やっとのことで目的地たどり着く。体を横にしなければならないほど狭い入口から内部に入ったものの、行けども行けども螺旋状の廊下は出口に行き着かない。一夜が去り、次の晩も暗黒の回廊を進む。やっと辿り着いたロードがそこに目にしたものは何だったか。

「ダヴァ(山塞市)」では、未踏峰の初登頂を目指した三人の登山者が頂上で先着者の遺物を発見する。一瞬の幻滅の後、三人は第二峰の登頂を目指す。不思議なことに、人跡未踏であるはずの第二峰の上半部は巨大な堡塁の形をしており、城壁、塔、銃眼を備えているではないか。この謎を解明しようと、登山者は峻険なナイフリッジを傷だらけになって踏破し、岩を彫って作り上げた城内に足を踏み入れる。不思議なことに内部から何かの音が聞こえてくる。果たして、それは…。

チャウシェスク政権下のルーマニアで発表された時、検閲にひっかかり、十篇が削除されるという憂き目を見たという。荒唐無稽とも思われる作品の寓意的な部分が、現政権を風刺したものと受け止められたようだ。たしかに、独裁国家における政府の姿は荒唐無稽極まりない。その後、スペイン語訳が出版され、それを目にしたル=グウィンが手許に置くうちに愛着を覚え、ついに英訳を試みるという運に恵まれる。ル=グウィンが書いた英語版の序文が付されている。翻訳への愛が溢れた、この序文が実に素晴らしい。

カバー装画にも触れておきたい。スターリン・クラシック様式で建築途上にある、バベルの塔のような高層建築が背後に迫りくる暗雲の遥か上方に聳えている。SF的でもあり、神話的でもある絵が、内容を暗示してくれている。ジャケ買いしたくなること請け合い。各書店に置かれては、是非、面陳で並べることをお勧めする。