青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『タタール人の砂漠』ディーノ・ブッツァーティ

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長い間、小競り合いと呼べるほどの戦闘すらなかった隣国と境を接する辺境の砦に新任の将校が赴任する。時を同じくし、今まで微妙な均衡の上に成り立っていた両国間の戦争と平和のバランスにかすかな亀裂が生じ、それがやがて運命的な悲劇を招き寄せることになる。ほぼ同じ頃に書かれた『タタール人の砂漠』は、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』に酷似する。

任地に先輩将校がいて、次第に気心が通じあう仲になってゆく点もよく似ている。『シルトの岸辺』が海、『タタール人の砂漠』が山を舞台にしている点が異なるが、事実上の戦闘行為というもののない軍事拠点で平穏な日々を費やす軍人たちの心境というものにはかなりの共通点が見いだせる。軍人として最も敵に近い位置にいながら、戦えない。それは大いなるディレンマといえる。

話を『タタール人の砂漠』に戻そう。舞台はどこともはっきりしない荒涼とした山岳地帯。大砲はあるが移動手段は馬や馬車、無線通信もない時代の話だ。主人公はジョヴァンニ・ドローゴという中尉。士官学校を出て初めての赴任先がバスティアーニ砦。北の王国に面した砦として、かつてそこに行くことは軍人としての名誉だったこともあるが、今では重要視されておらず、最近では昇進を望む若い将校の腰掛けにされている始末だ。しかし、中には長年月を砦で過ごす者もいて、砦に向かうドローゴが最初に出会ったオルティス大尉もその一人だった。

若い軍人の常として、戦功をあげ、昇進を夢見るドローゴは、砦に大した価値観を持たない大尉の話を聞くうちに、急速に砦での勤務に嫌気が差す。すぐにでも帰任しようと上官に願い出るもののうまく丸め込まれ、通例の四年間勤務を続けることになる。同じ年ごろの将校仲間も多く、馬を飛ばして近くの町で羽を伸ばす楽しみも見つけると、勤務自体は楽なものなので、砦の暮らしにも馴れ、悪いところでもないような気がしてくる。何しろ、期限が切られているので、それまでの我慢なのだ。

しかし、十年、二十年と居続ける者は、砦に何を期待しているのだろうか。両側を深い絶壁に遮られ、南には深い谷、北には絶壁と絶壁の間に三角形の土地が見える。砂礫が広がるばかりのそこが「タタール人の砂漠」といわれるところ。かつてタタール人が攻め入って来たという伝説が残る。その手前に国境線が横たわっており、バスティアーニ砦に勤務するということは、真っ先に敵と戦う栄誉を担っていることを意味する。

上は司令官から、下は仕立屋として働く兵曹長まで、いつかきっとタタール人の砂漠に敵が現れることを今か今かと待ち続けて今に至ったのだ。居続ける理由の一つに男所帯の気楽さがある。砦の料理は美味で、視察と称してわざわざ食べに来る将校もいるほど。新しい服が欲しければ腕のいい仕立て職人もいる。生活のこまごました世話は気の利く従卒がやってくれる。山岳地帯の自然は厳しいものの雪解けの季節のうれしさは格別である。長くいるうちに、不都合なことににも馴れ、何もない砦の暮らしに居心地の良ささえ感じるようになる。

いわば、これが罠なのだ。いつかやってくる敵の襲来を待つという大義名分を自分でも信じているふりをして、砦という閉鎖的な社会に閉じこもるうちに、一般的な社会との接点を失ってしまう。砦での暮らしは竜宮城にいるようなもの。帰ってみれば今浦島。四年が経過し、一時帰郷したドローゴは、自分と無縁の世界に住む友人に親しみを覚えられず、婚約者のマリアとの間にも壁を感じる。最愛の母さえもかつてのように自分を愛していないことを知り、砦に帰ることを選ぶ。

軍隊という世界は普通の場所ではない。人と人の通常の約束事の上に規律があり、それが支配する。そのために死ななくてもいい人間が死ぬこともある。また、様々な価値観や気質を持つ男たちが閉鎖的な空間に起居するため、相容れぬ気質を持つ者の間には確執が起きる。ふだんは何とかやり過ごしていても、一朝ことあるときにはそれが火種となり、命のやり取りさえ起きる。気楽そうに見える砦の生活にものっぴきならない事情のあることも作者はしっかり書き添えている。

要領のいい将校は四年で砦を去って下界に戻り、妻や子のある普通の暮らしを営む。それでは、砦の生活を選んだ者に何が残されているかといえば、敵の来襲以外何があろうか。目を皿のようにしてタタール人の砂漠を見張る兵が、黒いものの動くのを見つける。ざわめきたつ砦。それが敵兵の隊列であることが分かり、いよいよその時が来たと砦中が沸き立っている最中、竜騎兵が一通の書類を携えてやってくる。隣国の兵は、国境線の確定のためにやってくる武器を携行しない測量隊に過ぎないことが判明する。

期待と遅延、ようやく訪れたと思えた好機は一瞬にして潰える。これが狼が来たと呼ばわる少年の例となり、タタール人の砂漠に人影を見たり、夜半に灯りがちらつくのを見たと訴える将校に対し、軍は不必要に不安を煽るものとして、警告を与え、望遠鏡の使用を禁じる愚挙に出る。敵が道を作っているのだという同僚の意見を信じていたドローゴは、それ以降、確認する手段を失ってしまう。

博打で負け続けた客が起死回生の逆転劇を待つように砦に居続ける者たちの前に、今度こそ本当に敵が責めてくるという事態が勃発する。しかし、そのとき年老いたドローゴは肝臓の病でベッドから起きることもままならない。何というアイロニー。しかし、突然やってきたわけではない。事態がこのように進むことを話者は小出しに知らせてくれている。伏線を張り、幻想的な夢で仄めかしている。それを読者は知っているが、主人公は知らない。

第二次世界大戦前に書かれたこの小説が発表されたのは敗戦後のイタリア。当時はネオ・リアリスモが主流で、日の目を見なかったという。しかし、今読んでも心惹かれるものがある。いいものは時を選ばない。人は何かを待ちわび、待ち続け、報いられることもなく一生を終える。その事実に何の変りがあることか。俗世間での栄達や気散じが大事なら、そう生きるのもいいだろう。しかし、何かできるかもしれないという期待に一生を捧げる人生を選んだとして、仮に報いられることがなかろうと、誰がそれを笑えるだろうか。いつまでも読み継がれる物語だろう。