青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『戦下の淡き光』マイケル・オンダーチェ

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大空襲の傷痕が残る第二次世界大戦直後のロンドンを舞台に、秘密を背負った人々の、誰にも知られず、勝利しても栄誉を与えられない非情な闘いを描く。二部構成で、第一部は十四歳の少年の視点で終戦直後の無秩序で無軌道な裏世界での活躍を描いている。第二部は二十八歳になった同じ人物の視点で、回想形式で時代を遡り、主人公の母の幼い時から今に至る暮らしとその人となりを想像をまじえて描いている。

「一九四五年、うちの両親は、犯罪者かもしれない男ふたりの手に僕らをゆだねて姿を消した」というのが書き出しだ。十六歳の姉と十四歳の弟を置いて、両親が仕事で海外に出かけてしまう。ところが、出発したはずの母のトランクが地下室で見つかる。母は本当はどこに行ったのか。二人の後見役を務めるのは「蛾」というあだ名を持つ間借り人のウォルター。もう一人が、川の北側で最高のウェルター級選手だったこともある「ピムリコの矢魚(ダーター)」という、どう見ても堅気には見えない胡散臭い人物。

それ以外にも得体のしれない人物が、主のいない家に夜半に集まっては話し込む。養蜂家や民族誌学者が一体この家に何の用があってやってくるのか訳がわからない。「僕」は彼らが犯罪者かもしれないと考える。だが、そのうちに「僕」は学校もそっちのけで「蛾」の仕事場であるピカデリー・サーカスの<クライテリオン・バンケット・ホール>で、洗濯係やエレベーター・ボーイ、そして皿洗いとして働きはじめる。両親の留守をいいことに、早くも大人の階段を上りはじめるわけだ。

挙句は、ダーターの仕事を手伝うまでになる。夜中にムール貝漁船を運転して運河や川筋をたどり、ドッグ・レースに使うグレイ・ハウンドや、中身の分からない荷物を密かに運ぶ仕事だ。監視船が来るとシートの下に犬を隠して静かにさせるのだから立派に犯罪の片棒を担いでいる。犬の血統書の偽造にまで手を貸すようになれば一人前のワルだ。バイト先で知り合ったアグネスとは、何度となく空き家で愛し合うようになる。

しかし、そんな生活は「蛾」の死とともに終止符を打つ。ある夜、姉弟が何者かに襲われ、二人を守ろうとして殺されたのだ。姉弟は家の客の一人に助けられる。我が子を危険な目にあわせたことで母は仲間と縁を切り、サフォーク州にある我が家へ引きこもる。親代わりを務めてくれた「蛾」を死なせた母を赦せない姉は一人で寄宿学校に入り、「僕」は母と二人きりで暮らし始める。ガーターともアグネスともそれっきりになる。

第二部、二十八歳の「僕」は、戦争中の資料を精査する文書係として情報部に勤務している。自らの意志ではない。外務省で働かないか、と声をかけられたのだ。そこで情報部に残された母に関するわずかな資料を調べ、母がなぜ我が子を残して家を出たのか、という謎を解こうとする。この時すでに母は亡くなっている。わずかな遺品の中にあった写真の人物は、葬儀の日「僕」に「お母さんは大した女性だった」と声をかけた人だ。一体誰なのか。

男の名はマーシュ・フェロン。屋根ふき職人の家の末っ子で、十六歳のとき祖父の家の屋根から落ちて骨を折る。動かすことができず祖父の家でしばらく暮らす間、八歳の母に出会う。やがて生来のナチュラリストであった少年は海軍提督だった祖父の支援を受け、カレッジに進むようになる。トリニティの煉瓦壁を登山に見立て、夜ごと登るうちに、一人の女性に発見され、ドイツ軍の侵攻を見張る要員にスカウトされる。

イギリス情報部に入るのは試験より縁故、本人をよく知る者の推薦であることが多い。家系や血筋、オックスブリッジ出身者であることはその資格の一つ。つまり糸は常に張られていて誰がひっかかるか目を光らせているわけだ。そして、候補者を見つけたらあとは教育する。その過程で合格、不合格がおのずと明らかになる。例えば、目的のためなら手段は選ばないとか、非情に徹することができるか、とかスパイに必要な資質が吟味される。

小さい頃、母はフェロンから色々なことを教えられて育った。その中には銃の扱いまであった。母はいい生徒だった。フェロンは結婚し娘を生んでいたローズに、子どもを守るために何をしなければならないかを教える。やがて母は無線の傍受の能力を買われ、敵の無線を聴き取り、味方に送信する仕事に就く。それを皮切りにフェロンとともに、ヨーロッパ各地に飛んで、暗号名ヴァイオラとして活躍するようになる。

フェロンは言う。「僕らのような仕事をしていると、政治的暴力から生き残った者が復讐の責任を担い、ときにはそれが次の世代に受け継がれているケースに出くわすことが少なくない」と。「僕」が襲われることになったのがまさにそれだ。戦争は終わったといえ、小規模な戦闘は各地に残っていた。母が送り込まれたのもそんな国のひとつだった。パルチザンを支援した行動が多くの民の命を奪うことになった。英国の英雄ヴァイオラはその地では悪魔の使者だったのだ。

もう一つ。「心得ておくべきなのは、戦闘地帯への入り方だけでなく、どうやってそこから抜け出すかだ。戦争は終わることがない。決して過去に留まらない。『セビリアで傷を負い、コルドバで死す』(ガルシア・ロルカの詩の一節)、それが大事な教訓なんだ」。戦争はどこまでも追いかけてくる。サフォーク州に引っ込んでからも、母は常に警戒を緩めることはなかった。その日がくるまでは。

一枚の紙にも表と裏がある。ひっくり返してみなければ裏に何が隠されているか、分かりはしない。第一部のあの奇妙な連中が誰で、何のためにあの家に集まってきていたのかが第二部を読むにつれて見えてくる仕掛けだ。彼らは親代わりとなって二人を守り、育てていたわけだ。しかし、それだけではない。あの自由を満喫し、いっぱしのワルを気取っていた少年を、沈鬱で孤独な世界に閉じこもる大人に変えている。あの「蛾」や、ダーターと過ごした日々は「僕」にとっての教育期間だったのだ。

紙の表面に書かれたことだけを読んで生きる者は幸せだ。しかし、裏面を読んでしまった者はそうはいかない。人から距離を置くことを覚える。下手にその中に入り込んでしまうと、きっと誰かを傷つけずにはいられないからだ。子どもたちを守るために母のやったことは、向こうの母から子を奪ってしまう罪深い所業でもあった。物事は表面だけで終わらない。裏の面を見た「僕」には、物事をそのまま受け取ることはできそうにない。

犯罪に手を染めていたダーターが青いモーリスを走らせていた道筋は戦時中、工場で作られたニトログリセリンを危険を冒して運ぶ道筋であったことを今の僕は知っている。記録に残されることはないが、彼らは知られざる英雄だったのだ。それに引き換え、故国の英雄とたたえられるヴァイオラは、その活動のせいで多くの無辜の人民を死に追いやっている。一つの戦争に関してもまったく別の一面が見えてくる。この二重の視点がうまく生かされ、小説世界は重層性を増す。

ひとつ気になったのが「ダーター」のことだ。<darter>というのは「突進するもの、ヒト」のこと。魚なら「矢魚」、鳥なら「ヘビウ」のことだ。「ダーター」だけでは何のことやら分からないから「矢魚(ダーター)」とルビを振ったのだろう。「ピムリコのダーター」がボクサーのあだ名なら、長身の「ダーター」は、長い首を水中に突っこんで魚をとらえるのが得意の「ヘビウ(蛇鵜)」の方がぴったりなのではないだろうか。

小説の最後で「僕」は探し当てたダーターと再会する。しかし、その再会は苦いものとなる。かつてあれほど「僕」の目に輝いて見えたダーターは、今や完全に別人になっていた。妻子持ちとなったダーターの変貌ぶりに気落ちした「僕」が、最後に目にしたものがそれまでの安定した世界をひっくり返しそうになる。どんでん返しが待っていた。『イギリス人の患者』のマイケル・オンダーチェの最新作。目に浮かぶ光景がすべて映画のように思えてくる。いつか映画化されないものだろうか。