青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『夜の果てへの旅』L=F・セリーヌ

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それでは、これがあの悪名高いセリーヌの代表作なのか。読み終えて意外な気がした。おそるおそる手に取ったせいかもしれないが、若い頃の作品ということもあり、まだ反ユダヤ主義は顔をのぞかせてもいない。それどころか、主人公はこんなことまで言っている。

民族だと? おまえが民族なんて言ってるものはな、そんなもんはな、目脂(めやに)をためて蚤にたかられて震えてるおれたちみたいな乞食の寄せ集めさ、飢えとペストとおできと寒さに追われて世界中から叩き出されてここへ吹き溜まってきただけじゃねえか。海のせいでこっから先へは行かれなかっただけの話だよ。それがフランスさ。それがフランス人てやつさ

見事なまでの啖呵の切り方じゃないか。それに、やたらと言葉を重ねる癖、下劣で卑猥、汚濁に満ちた罵倒の文句が最初のページから矢継ぎ早に畳みかけてくるところなど、読者の煽り方がうまい。訳文にもよるのだろうが、テンポのいいリズムで最初からぐいぐい迫ってくる。文体のノリの良さは他に類を見ない。こういうタイプの作家だとは知らなかった。

「始まりはこうだった。おれはなんにも言ったわけじゃない。ひとことも」で始まり、「でもう話すことはない」で終わるのが皮肉に感じられるほど饒舌な文体による、これは一種のビルドゥングスロマンなのかもしれない。なにしろ主人公は小説が始まったときはまだ二十歳なのだ。もっとも、無軌道な若者の異国を舞台にした冒険譚を中心とした前半と帰国して医者として働く後半では、文体も主人公の自己や他者に対する見方も変化する。

主人公で語り手でもあるバルダミュは医学生。友だちとカフェで愛国心について議論している真っ最中に連隊が目の前を行進する。勢いに乗った若者は行進について行き、そのまま入隊してしまう。当時は第一次世界大戦のさなかでフランスはドイツと戦っていた。二か月の訓練を終えると「おれ」は大佐付きの伝令となっていた。初めての戦場でドイツ軍に撃ちまくられた「おれ」は戦争の本質を突然理解する。正気の沙汰じゃない、と。

戦争というもののばかばかしさ、その没義道ぶりをこうまであからさまに真正面から描いて見せた小説もめずらしい。「おれ」は、臆病であることを隠しもしないし、恥じてもいない。「監獄からなら生きて出られる。戦争じゃあそうは行かない」。まさしくその通り。いわば人殺しを商売にしている軍人とちがって志願兵はただの素人だ。その素人の目から見た戦争の素顔が、饒舌体で延々と語られる。「おれ」は言う。「もう二度と人間の言うことは信じないぞ、人間の考えることは。怖いのは人間で、しかも人間だけだ。いつだって」。

その後、発作に襲われた「おれ」は、突然わめき出し、病院に入れられる。長期療養の後、心の病を理由に除隊となる。いわば札付きになったわけで、医学への道を断たれ、アフリカ行きを決める。船旅の間も他の乗船客との間にとけ込めず孤立し、自分は皆に憎まれていると思い込み、船室から一歩も出られない。人嫌い、というより人が怖いのだ。アフリカではある商会の奥地にある交易所で現地人との物々交換が仕事だ。周りに白人は一人もいない。こうして旅が始まる。

食料は毎日罐詰、飲み水は泥水、雨仕舞の悪い小屋には白蟻やら鼠、蛇が入ってくる。惨憺たる日々の慰めは。昧爽の壮大な空の眺めだ。しかし、熱病にかかり、現地人の手でスペイン領に運ばれる。夢うつつの状態で船に乗せられ、着いた先がアメリカだ。しかし、街が縦に並ぶ大都会は「おれ」には合わない。モリ―という恋人までできたのに、フランスに逆戻り。双六でいえば振り出しに戻ったところで「青春流離編」ともいうべき前半終了。

大学に戻って医師免許を手に入れた「おれ」は、貧しい人々が暮らすパリ郊外の町で医者を始める。たかだか数フランの診察料が払えない貧乏人相手に、若い頃とちがって親身につきあう。ただし、金を払わずにすむ医者のことを、住民は有難いと思うより、腕が悪い、と見ている。おべっかを使いながら、裏では陰口をきかれていると「おれ」は思っている。世間知はついてきているが、人間というものを信じてはいない。

独り語りの前半に比べると、後半はリアリズム小説に近い形式で語られる。「おれ」がつきあうどの人物も貧しく、生きるのに必死だ。「おれ」は、その世界をただうろうろとするばかり。何とかしようにも、金もなければ医師としての力量もないのだ。チフスに罹った少年のために、遠くにいる医者に知恵を借りに行ったり、毎日診察したり、以前と打って変わった「おれ」の変貌ぶりだが、人はそう簡単に変わったりしない。

軍隊時代に知り合い、その後もロバンソンという男がドッペルゲンガーのように行く先々について回る。「おれ」は、ロバンソンが、患者の一人である老婆を事故を装って殺そうと考えていることを知る。しかし、見て見ぬふりをする。ロバンソンはもうひとりの「おれ」なのだ。何かことがあれば、そこから逃げてばかりいる「おれ」には、ロバンソンを止めることができない。

小説はロバンソンの死で幕を閉じる。まるで主人公がロバンソンででもあったかのように。恋人に求められながら、そこから逃げようとするロバンソンはどこまでも正直だ。結婚生活なんて嘘をつかなきゃやれないもんだ。誰だって知っていて目をつぶる。そうしなきゃこの世界に安住することはできないからだ。しかし、ロバンソンはそれを拒否し、恋人に撃たれて死ぬ。「おれ」はロバンソンの臨終に立ち会いながら、自分というものの小ささに気づく。おれには「人間をただの生命よりでっかくするものが欠けてたんだ、他人の生命への愛が。そいつが、おれにはなかった」んだ、と。若い裡に読んでおきたい小説だ。