青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『アコーディオン弾きの息子』ベルナルド・アチャガ

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<mother tongue>という言葉がある。「母語」という意味だが、「母国語」という訳語もある。真ん中の「国」だが、ほんとうに必要だろうか。半世紀も前のことになるが、高校の修学旅行で南九州を旅したことがある。市の方針で行き先が隔年で北九州と南九州に割りふられていた。仲間の間では「長崎」の入る北九州の方が人気だった。当時、宮崎は新婚旅行のメッカだったが、高校生にはサボテン公園など興味がわくはずもない。

たしか鹿児島だったと思う。トイレ休憩でバスが止まったので、老婆が果物を売りに来た。窓越しに話しかけられたのだが、声は聞こえるのに何を言っているのか全く理解できない。あれには驚かされた。同じ日本であっても、日本最南端の地まで来ると言葉はまるで通じないのだ。あの言葉が老婆の「母語」なのだ。そこには「想像の共同体」である「国(ネイション・ステーツ)」の入る余地がない。

教科書やテレビで「標準語」や「日本人」が「刷り込み」ずみで、何の疑いもなく自分は日本人で日本語を話していると思っていたが、何のことはない、百年前なら老婆と私は国もちがえば言葉もちがう異郷の人だった。日本版「南北戦争(Civil War)」の結果、南が勝つことでベネディクト・アンダーソンいうところの「想像の共同体」である「日本」という国家が誕生する。正確には「日本」ではなく「大日本帝国」だったが。

イソップ物語にある牛を羨む蛙のように、腹ならぬ領土を拡張させていったあげく戦争に敗れて「大」と「帝国」がとれ、ただの「日本」になる。それが不満で戦前の日本こそが真正の日本だと思いたがる人々がいて、ちょっとまともなことを言うと「反日」扱いを受けるこの頃だが、彼らのいう「反日」とは「反日帝国主義」をつづめたものだと定義付けたらどうだろう。ずいぶんすっきりするのではないか。

閑話休題。属する国家の言語と人々の使用する母語に齟齬のある民族がある。ピレネー山麓の仏西国境を跨ぐ位置にあるバスク地方の人々がそれだ。作者のベルナルド・アチャガはスペイン領南バスクのギプスコア生まれというから、まさにバスク人である。小説では山の中にある桃源郷のように描かれるその地方はオババという架空の名に変えられている。そのオババ生まれの語り手が語る少年たちの交流と、成長する過程で知ることになる土地が抱える過去の悲劇が物語の中心である。

一九九九年九月、カリフォルニア州スリーリバーズから小説は始まる。ストーナム牧場を経営するダビが死に、幼なじみで一番の親友であるヨシェバが、過去を回想する。ダビはオババで生まれ、伯父の経営する牧場で働くために渡米し、メアリー・アンと知り合って結婚し、二人の娘を持つ。ダビは小説を書いており、それは完成していたが、少数言語であるバスク語で書かれていたため、大学で翻訳を教える妻にも読めなかった。

メアリー・アンはオババの図書館に寄贈するため、限定三部の一冊をヨシェバに託す。作家であるヨシェバはロンドンに帰る機上でそれを読み、メアリー・アンに感想を伝えるとともに、単に翻訳するだけではなく、語られていない部分を自分が書き足し、一冊の小説として完成させたい意思を伝える。メアリー・アンの同意を得て書かれたのが、この『アコーディオン弾きの息子』という小説である。表題はダビの小説の原題をそのまま冠している。

ダビ自身の手になる過去の回想は男友だちや女の子との出会いと別れを描いた抒情的なものだが、ダビが愛してやまない伯父の牧場があるイルアインという山間の村には、父の時代、土地に住む九人の村人が銃殺されるという過去があった。フランコバスク地方の独立を恐れ、バスク語を禁止したため、反対運動が起き、それは後にテロも辞さない「バスク祖国と自由」(ETA)という過激な運動に引き継がれることになる。

ダビの父、アンヘルは親フランコ派であり、母の兄で牧場を経営する伯父ファンはそれを憎んでいた。ダビはイルアインでの農村の生活を愛していたが、父はアコーディオン弾きを継がせたがった。ダンス・パーティー会場のホテルが、その昔アメリカ帰りのドン・ペドロからアンヘルの仲間のベルリーノが奪いとった曰くつきのものだった。殺されかけたドン・ペドロを匿ってフランスに逃がしたのが若い牧童のファンだったのだ。

素朴な農民の生活と稀少なバスク語を愛するダビは、運動に熱心ではなかったが、彼の暮らす伯父の小屋は自由主義共産主義に熱を上げる若者たちの隠れ家にぴったりだった。ダビが知らぬ間に、彼の夢のアルカディアは、フランコ独裁政権をめぐる戦いの戦場に姿を変えていたのだ。後にそれを知ることになるダビの苦い思いが、その間の経緯を小説の中から省いていた。ヨシェバがその後を書き継ぐことで、皮肉なことに小説は厚みを持つことになる。

反面、書き手がちがうという建前なので無理もないのだが、ダビの筆になる牧歌的な村で暮らす若者の青春群像と、ヨシェバによる地下に潜って活動する部分との間に若干しっくり噛み合っていない感じが残る。作者が同い年なので、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの歌が出て来たり、マックィーンが『パピヨン』撮影のためアリ・マッグローと町を歩いていたり、黒いビキニ姿のラクエル・ウェルチが話の中に登場したりするのが懐かしかった。惜しむらくは、表記が「ラケルウェルチ」。若い訳者はご存じないようだが、そのポスターが映画『ショーシャンクの空に』で使われるほどの人気女優だったのですぞ。