青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『影を呑んだ少女』フランシス・ハーディング

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舞台は十七世紀の英国。いわゆる清教徒革命の時代。主人公の名はメイクピース。変わった名だが、ピューリタンが多く暮らす界隈に住むにあたり、母が改名したのだ。メイクピースは眠りにつくと自分の頭の中に幽霊が入りこもうとしてくる恐ろしい夢を見る。叫び声をあげると母に叱られる。母はそれと闘えと命じるばかりで、尋ねても父のことは教えてもらえない。しかも二人は周囲の人々とは明らかになじんでいない。

母のつくったレースを売りにロンドンに出た日、騒ぎに巻き込まれ、母とはぐれたメイクピースは幽霊の噂を聞きつけ、一軒のパブに入り、そこで激しい怒りに襲われる。当時の英国には「熊いじめ」という娯楽があった。虐待にあって死んだ熊が死にきれず、霊が飼い主を恨んで暴れ回っていたのだ。その熊の霊がメイクピースに乗り移り、彼女は暴れ回り、気が狂ったものとして家に担ぎ込まれた。

『嘘の木』『カッコーの歌』のフランシス・ハーディングの新作ファンタジーである。乗りに乗っている感がある。騒動で母と死に分かれたメイクピースは、亡くなった父の屋敷に呼び戻され、名門貴族の厨房の下働きとして暮らし始める。どうやら、母は、ここで働いていたころ、貴族の嫡子に見初められ、メイクピースを身籠ったらしい。この館には同じように貴族が遊び心で手をつけた女の子どもたちが集められている。

それというのも、フェルモット家の血を引く者には不思議な力が授けられているからだ。いや、力と言っていいのかどうか? それはむしろ呪いの一種だろう。この名門貴族の血を引く者は、幽霊と交流できる力が異常に強い。死者の霊はそのままにしておくと弱まり、最後には消滅してしまう。しかし、死者の口から出た霊は、傍に入れ物としてのからださえあれば、新しい住まいを見つけて別の口に入り、そこで生き続けることができる。

ふつうは、それに相応しい教育やしつけを受け、準備の整った嫡子が、古くからそうして生き延びてきた霊を受け継ぐことになる。そのための儀式も呪文も代々伝えられている。ところが、当時、英国は王党派と議会派が激しく争っていた。戦争ともなれば、貴族は王を守って戦わなければならない。頭首が急に倒れたとき、傍に後継ぎが控えていれば問題ないが、いつもそういう訳にはいかない。

そこで、先祖の霊を入れておくための予備のからだが必要になる。庶子たちが集められているのは、正統な跡継ぎのからだに入れるまでの当座の宿所をつとめるためだ。しかし、問題がある。霊は一人分とは限らない。今のフェルモット卿のからだには八人の上座の人々が入っている。宿主の霊が強ければ、自分の霊と共存させられるが、それに耐えられなければ自分の霊は先祖の霊によって圧し潰されてしまい、もとの自分失ってしまうのだ。

屋敷にいた腹違いの兄のジェイムズと仲良くなったメイクピースは、この家の秘密を教えてもらい、ここから抜け出そうと試みる。しかしその度に二人は連れ戻されてしまう。そうこうするうち、戦争は激しさを増し、一家の住む一帯まで敵が迫る。戦のどさくさに紛れて脱走を企てる二人だったが、兄は兵士となって戦場に行き、残されたメイクピースにはとんでもない災いが降りかかる。

危惧した通り、戦争で一族のめぼしい貴族が敵に討たれ、霊を移すためのからだが急遽必要になり、館にいたメイクピースに白羽の矢が立つ。捕らえられ、無理やり口を開けさせられたメイクピースの中に潜入者の霊が入り込んでくる。多くの霊を移すため、様子を見るためのスパイ役だ。自分の頭の中に異者が侵入する恐怖がこれでもか、というくらい気味わるく描かれる。いやあ、これは怖い。

戦闘のさなか、近くにいた死者から出た霊に兄のジェイムズもからだを奪われる。再び相まみえた兄はすっかり様変わりしていた。新聞で脳の手術で幽霊を追い出した医者のいることを知ったメイクピースは、その医者を探して敵の真っただ中に分け入る。道中一緒になった女スパイや、医者、ピューリタンの逃亡兵、などといった連中と喧嘩したり、協力したりしながら、王党派と議会派とが睨み合う戦闘地帯を、兄を助ける手立て探し回る。

嘘を書かせると、ハーディングはうまい。ファンタジーということにすれば難しい理屈はいらない。次から次へと新手を繰り出してはハラハラドキドキさせ、読者を飽きさせない。なかでも、自分の頭の中に複数の人物を同居させるアイデアが秀逸だ。メイクピースの中に入ってくるのは先祖の霊と限らない。もともと熊が入居済みだ。多重人格とは異なり、入れ替わることなく異なる人格が同居するのだ。仲よくできる相手ならいいが、ウマの合わない相手もいる。そのやりとりが実に愉快。

人類はそもそも遺伝子を乗せる乗り物だ、という説を唱えたのはドーキンスだったが、からだは優れた力を引き継ぐ入れ物だ、という発想はそれに近いのかもしれない。その血を引く者には有無を言わせず、先祖代々の経験や技術を継承させるという点では伝統芸能である、能、狂言、歌舞伎の一門を思い出す。おそらく、見る人が見れば、ひとりの演者の中に、それまでの名人上手の舞い踊る姿が見えるのではないだろうか。

手塚治虫の『鉄腕アトム』のエピソードの一つに「群体」を扱ったものがあった。単独のヒーローとしてではなく、アトムが群体のひとつとなって闘う姿を描いたものだ。多くの者が、固有の生を残しながら一つになるシステムというアイデアは、小学生にも新鮮だったことを覚えている。メイクピース一人ではどうにもならない難局を、敵対する相手とも手を組み、次々と切り抜けていく姿には、単独者にはない新たな可能性を感じる。こんな時代だからこそ、相手の中に敵を見るのではなく、共闘できる存在を見つけたいのかもしれない。