青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『フライデーあるいは太平洋の冥界 トゥルニエ/黄金探索者 ル・クレジオ』

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危機的状況に見舞われているというのに、マスコミは知らぬ顔を決め込んで、退屈な日常の風景を飽きもせず垂れ流している。大衆は大衆で、よせばいいのに狭い日本の中を右往左往、旅に出ては感染者を増やしている。他でもない、鳥や魚が人を恐れることなく近寄ってくる珊瑚礁の楽園をネズミだらけにしたのは人間だ。

大帆船を造り、遠洋を航海するようになった人間は、水や食料を求めて航路に点在する珊瑚礁の島々に上陸した。その機会をとらえ、船倉に巣食っていたネズミが上陸し、天敵の猫のいない島で大量に繁殖したのだ。たとえ本人にその気はなかったにしても、人の移動は、それまで無垢であった場所に、災禍を持ち込まずにはおかない。

そんな話をこの本で知った。『フライデーあるいは太平洋の冥界 トゥルニエ/黄金探索者 ル・クレジオ』だ。何かと息苦しい世の中だ。自分のまわりにいる人々から逃れ、南の果ての島にでも行ってみたい。そんなことを考えている人にはうってつけの一冊。トゥルニエの『フライデー』(長いので以下略)は題名からも分かるように、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をリライトしたもので、表題になっているのがクルーソーでなく、フライデーになっているところがミソ。

もともと、アレキサンダー・セルカークという航海長が航海の途中、船長と諍いを起こし、チリ沖合いに浮かぶ、サン・フェルナンデス諸島の孤島に置き去りにされる。救出後、新聞がそれを記事にした。デフォーが、それをヒントに本当は長いタイトルを持つ『ロビンソン・クルーソー』という小説を書く。続編も書かれた。家族での漂流を描いた『スイスの家族ロビンソン』という児童文学もある。誰もが二次創作をしたくなる題材なのだ。

初めロビンソンは、無人島で生きることに混乱し、退行現象を起こして泥の中に浸ってみたりもする。しかし、思い直し日課を作る。早朝の礼拝に始まり、農耕、牧畜という日々の糧を得るための労働、そして日曜日は休息、というプロテスタント的な規律を島の生活に持ち込む。難破船から火薬やマスケット銃を運び、洞窟の奥にしまい、外敵に備えて守りも固める。いわば、西欧的な社会を孤島に持ち込んだのだ。

インディオの仲間に殺されようとしたところを救ったフライデーを、ロビンソンは当然のように奴隷として扱う。初めは従順だったフライデーだが、言葉も覚え、共に長く暮らすうち、しだいに本性が現れる。フライデーのトリックスター的な側面が明らかになることによって、ロビンソンの行動の持つ意味が悉くひっくり返され、価値の転倒が起きる。主人の大事な衣装をサボテンに着せたり、内緒でパイプ煙草を吸っているところを見つかるのを恐れ、洞窟の奥に捨て、火薬を爆発させて溜め込んだ食料も吹っ飛ばしてしまったりするフライデーの活躍が痛快だ。

結果的にそれが転機となり、ロビンソンは自分を縛りつけていた文明社会の軛から自由になる。一種の哲学小説であり、時間や世界、自己同一性、ひいては人間そのものについての思索を深めるのに役立つ本でもあるが、読んでいて愉しい。全部読み終わってから冒頭部分を読み返すと、これから起きることのすべてが、あらかじめ船長のタロット占いに出ていたことが分かる。心憎い仕掛けだ。

ル・クレジオの『黄金探索者』はマダガスカル島の東に浮かぶモーリシャス島とロドリゲス島を主な舞台とする、海賊が隠した宝をめぐる探索の物語。モーリシャスのプーカンに邸宅を構えるアレクシの一家は仲の好い家族だった。主人公のアレクシと姉のロールはマムの手で教育され、二人はマムの話を聞いて育つ。しかし、父が事業に失敗し、家はサイクロンで壊され、地所は借金のかたとして伯父の手に渡る。

父の死後、寄宿学校をやめ、伯父の会社で事務仕事をするようになったアレクシだが、父が話してくれたロドリゲス島にあるという海賊の財宝のことが頭からはなれてくれない。アレクシは、ロールに別れを告げ、港に停泊中のブラドメール船長のスクーナー、ゼータ号に客として乗り込む。この帆船での初めての航海が前半の白眉。まだ少年の面影を宿す若者の海への憧憬が抒情的な筆致で船旅の持つ愉楽をたっぷりと味わわせてくれる。

船員として働かないかという船長の誘いを断り、アレクシは一人ロドリゲス島に上陸し、残された手がかりをもとに海賊の財宝を探す。アレクシはここで山の民と呼ばれる脱走奴隷の美しい娘ウーマと出会う。初々しい二人は次第に心を通わせ、愛し合うが、戦争の影が忍び寄ってきていた。志願兵としてアレクシは第一次世界大戦に参加し、各地を転戦。辛くも死を免れ、モーリシャス島に帰郷する。

伯父の会社に復職し、しばらくはロールとの再会を喜んだアレクシだが、港にゼータ号の姿を見つけると、またしても海に出る。ロドリゲス島に戻ったアレクシは、遂にすべての手がかりを明らかにするが、財宝はなかった。そこに見出したのは夜空に浮かぶ星と地上の石に刻まれた目印との照応だった。イギリス湾の岩の上に星座の位置を示す徴を掘る孤独な営為こそが海賊の望みだったことをアレクシは悟る。

誰もいない海岸で地図を頼りに岩の上に徴を探しては探査坑を掘る。唯一の喜びは脱走奴隷の娘との忍びあい。絵に描いたように甘美な南の島のロマンスだが、ほとんど恋人同士のような姉との心の通い合いが、脱走奴隷の女とどこかの島で隠れて暮らすという夢のような生活を選ぶことを邪魔する。宝はなかったが、もうそれに縛られることもなくなった。きっとまた船に乗り、海に戻るのだろう、と予感させるところで終わっている。

いつまでも雨の降り続く、まるで雨季にでも入ってしまったかのような今どきの日本。いっそのこと、その湿気にまみれ、南の海の暮らしを描いた小説に浸りきるのも悪くない。