青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ウィトゲンシュタインの愛人』デイヴィッド・マークソン 木原善彦訳

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SF的な味わいのジャケットに惹かれて手を出すと裏切られる。たしかに、地球にただひとり残る女性が主人公であることはまちがいないが、なぜそういうことになったのかについての説明は一切ない。「汚染」という言葉が出てくるから、何かが起きたのだろう、ということは想像できる。であるにせよ、どういう理由で、この四十代後半と思しきアメリカ人女性だけが、人はおろか動物その他の姿の消えた地球上に、十年以上も生き続けているのかについて、答えを求めても得るところはない。

説明できないのは、多分本人も知らないからだ。この本は「私」の独白、というより、タイプライターを叩いて、紙の上に印字したものとしてある。自分が記憶しているものごとを思い出しては、脈絡もなく、それからあれへと話題をつなげてゆく。過去の出来事が多いが、その中にぽつりぽつりと現在の様子が混じるので、今は夏、「私」がいるのはアメリカの海辺の近くの廃屋で、そこからは砂丘が見えることが分かる。 

かつて「私」はしばらくの間「心から離れた状態(アウト・オブ・マインド)」でいたことがある。言い換えるなら「正気を失っていた時期」「記憶から消えた時間」があったということだ。ここまで分かったところで、「訳者あとがき」に書かれている、J・G・バラードの次の文章を読んでほしい。「真のSF小説の第一号は――誰も書かなければ私が書こうと思うのだが――記憶を失った男が浜辺に横たわり、錆びた自転車の車輪を見つめ、その車輪と自分との関係の中にある絶対的本質をつかもうとする、そんな物語になるはずだ」。

浜辺に住む記憶を失った男が、自分の目にしているものと自分との関係の中にある絶対的本質をつかもうとしている。男と女を入れ替えたら、これは、J・G・バラードが書くことがなかった「真のSF小説」にそっくりではないか。「絶対的本質」とはまたご大層な物言いだが、表題の「ウィトゲンシュタイン」がここで関係してくる。ウィトゲンシュタインには「語りえぬことについては、沈黙するしかない」という名文句で知られる『論理哲学論考』という著書がある。

つまり、この小説は、J・G・バラードの設定を借りながら「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の世界に人が暮らしたらどうなるかを実験した小説」(デヴィッド・フォスター・ウォレス)なのだ。もう一つ、男性優位の世界をひっくり返してみせるのに、男と女を入れ替えていることからも分かるように、これは「真のSF小説」を目指した真面目くさった実験小説ではない。「論考」は難解極まりないことで有名だが、作家はその難解なテクストを使ってパロディーをやろうとしたのだ。

地球に記憶をなくした女ひとり、というSF的な設定を借りることで、世界を名づけるのは「私」ひとり、という絶対的な場を与えたのだろう。「私」が何かを語ることでしか、世界は存在しない。「私」の言葉と世界は対応している。「私」が誤れば世界も偽りとなる。だから「私」は、自分の記憶の誤りを何度も訂正する。曖昧な文を見つけると、次の文に正しく書き直す。そのこだわりが、いちいちウィトゲンシュタインの命題に関わっているように思えてくる。

命題その一は「世界はそこで起きることのすべてだ」。画家の「私」にとっての世界はまず絵画だ。「私」は世界中の美術館を訪ねている(ロシア語が読めないのでエルミタージュには行っていない)。面白いのはそこが鑑賞のためだけの場でなく、暖を取るための材料として大量の額縁をや絵が保存されている場でもあることだ。名画と呼ばれる絵画も布と木でできた物質だ。視点が変われば価値も変わる。

「私」の画題はトロイア戦争におけるヘレネやカッサンドラといった悲劇的な女性像。別にトロイア戦争を知らなくても読むことに支障はないが、知ってた方が楽しく読める。クリスタ・ヴォルフの『カッサンドラ』はお勧めだ。「私」は車でトルコに行き、トロイア遺跡を見学し、その意外な狭さにがっかりしている。たしかに、実際この目で見ると共感したくなるほど小さい。しかし、トロイア戦争自体、史実かどうかもはっきりしていないのだ。

「究極の二十世紀小説」とか、やたら威勢のいい惹句のせいで不安を覚える読者がいるかもしれないので、老婆心ながらひとこと申しそえると、『ウィトゲンシュタインの愛人』は、誰にでも読めるし、卑近なユーモアに溢れていて、抜群に面白い。たしかにペダントリーが駆使され、画家や、音楽家、哲学者にまつわる挿話が次から次と披露されるので怖毛をふるうかもしれないが、ご心配なく。「私」だってクロード・レヴィ=ストロースをジャック・レヴィ=ストロースと誤記している。名前の列挙は作家の遊び心の現れと見ればいい。

遊び心といえば、「私」は夏の季節、裸で暮らしている。世界に自分一人なら、そうなるのが自然かもしれない。昔はいろんな物を車で運んでいたが、ガソリンが切れたら別の車に乗りかえるしかない。その度に載せ替えるのが面倒で、今では数着の衣類以外は捨ててしまっている。絶対的本質を求める哲学者のカリカチュアだろう。以前は瓶詰の水を飲んでいたが、人がいなくなった今はテムズ川の水が生で飲めるという。人がいなくなれば世界はクリーンになる。当然水道は使えないので、大便は近くの海、小便は砂丘ですます。このあたりはSFっぽくて笑える。

「世界はそこで起きることのすべてだ」という命題をはじめ、「私」の独白はいちいちもっともらしく語られるのだが、正確を期そうと心がける、その端から記憶ちがいを書き連ねるし、自分の知ってることを饒舌に書きちらしながら、それを知ったのがちゃんとした本でなく、レコードのライナー・ノーツや子ども用の伝記であることをばらしてしまう。教養のひけらかしは、生理的現象の話で一気に笑い飛ばされ、奔放なユーモアと情感に満ちた情景描写が立ち現れる。

パンデミックが起き、世界を悲観的に見てしまいがちな、この時代だからこそ、読んでみたい、しなやかで、したたかな一冊。どんな境遇に置かれたとしても、「私」のように、冷静かつ知的に事実をたんたんと見つめ、ユーモアを忘れず、自分の身のまわりにあるもの、たとえば夜明けや落日の荘厳さを愛で、それを言葉で表してみること。人と世界とはそういう関係で結ばれている。そう、「語りえぬことについては沈黙するしかない」のだから。