青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『発火点』C・J・ボックス

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コロラド州デンヴァ―にある環境保護局第八地区本部から、二人の特別捜査官が、ある件に関わる裁定文書をワイオミングまで届けに行くところから話は始まる。途中シャイアンの町で、陸軍工兵隊員の男と待ち合わせるが、男は二人が銃を携行していることに驚き、途中で姿をくらます。二人の特別捜査官は待ち合わせ場所に出向き、誰かに撃たれて死ぬ。この二人が主人公かと思っていたので、冒頭でさっさと死んでしまうことに驚いた。実は主人公は別にいた。

猟区管理官のジョー・ピケットを主人公とする、シリーズ物の最新作である。二人を殺して埋めた容疑者はブッチ・ロバートソンという男で、死体の埋まっていた分譲地の持ち主だ。ブッチは、ジョーの娘ルーシーの親友ハナの父親で、その日の朝、ジョーは仕事中、森の中でコーヒーのために火を焚いていた彼と話をしたばかりだった。森の木はマツクイムシにやられ、地表には枯葉が積もっていて、マッチ一本の火で山火事が起きる危険があった。

このシリーズは初めて読んだが、山に生きる主人公が魅力的だ。広大なワイオミングの山岳地帯に分け入り、森の生き物の暮らしや環境を守り、違法な狩人から動物たちを守る、今の仕事が気に入っているが、体の方は若い頃のように無理がきかなくなった。家族のことを考えると、現場を離れてデスクワークをすることも視野に入れる必要がある。どうやらこれまで、上や周囲との間に様々なトラブルを抱え込んでいるようで、なかなか腹を括れない。

ブッチの妻パムの話によれば、夫妻は金を貯めて湖を臨む土地を買い、そこに家を建てる気でいた。基礎工事のためにトラクターを動かして三日目、環境保護局から三人の女性がやってきて、夫妻の土地は湿地帯に属しており、形状を変えると莫大な罰金を払うことになる、と警告された。何度電話しても責任者と話ができず、一年経ち、何かの間違いだったのだと思い、トラクターを動かし始めたら、書類を渡すから待つようにと連絡があったという。その話には引っかかるものがあった。サケット事件に酷似していたからだ。

環境保護局から来たファン・フリオ・バティスタという男は権力を笠に着て、強引にブッチを逮捕しようと焦っていた。犯人の首に賞金を懸けるとまで言い出すので、ブッチに危険が及ばぬよう、ジョーは捜査員を案内して山に入ることにする。どちらが指揮を取るかで、州知事ルーロンと環境保護局地区本部長のフリオとの間で一波乱あるが、フリオはヒスパニック系というマイノリティの出自を盾に、白人による差別だと言い立て、逆に知事を抑え込んでしまう。鼻持ちならない男だが、悪知恵だけは働くようだ。

一方、賞金の一件を聞きつけた元保安官マクラナハンは、以前ブッチの店で働いていて、一緒に狩りをしたことのあるファーカスを道案内人として雇い、ソリオという狙撃手を引き連れ、反対側から山に入る。マクラナハンはブッチを射殺して賞金を射止めるだけでなく、選挙で自分を追い落した新保安官リードの鼻を明かし、次の選挙での返り咲きを目論でいた。

慣れない山中を馬で行く捜査員を率いるのはアンダーウッドという環境保護局管理特別捜査官だ。探索行の中で言葉を交わすうちに、ジョーは、プロとして仕事を果たそうとするこの男に親近感を覚えるようになる。話をするうちにフリオという名が新しい名で旧名がジョンだと知ったジョーは妻に電話してフリオについて調べさせる。すぐに圏外になる電話が人物や読者を焦らし、サスペンスを盛り上げる。さらにGPSが思わぬ悪さをすることに。

時が経つにつれ現場を知る者と机上で命令を下す者との対立が募っていく。食料その他、野営の準備もせずに山に入った捜査員に対し、山での狩りに慣れているブッチには準備に遺漏はなかった。マクラナハン一行はターゲットを捕捉し、ソリオは千六百メートル向こうの迷彩服の男を仕留めるが。相手は一枚上だった。逆に襲撃され、人質にとられてしまう。ブッチはフリオを電話に呼び出し、人質の命と交換に脱出用のヘリを要求する。

後半は、現場を知らない男の愚行が原因で山火事が起きる。ジョーは、急いで山を下りるアンダーウッドたちと別れて、ブッチを探すために、炎の迫る山にあえて残る。ジョーはブッチを見つけるが、山火事からどう逃れるかを考えねばならなかった。昔、シャイアン族が凶暴なポーニー族に追われ、切り立った絶壁の渓谷を渡った言い伝えがある。ジョーは以前、その跡をたどったことがあった。今はそれに賭けるしかなかった。

ジョーとブッチは手足纏いの二人を連れ、背後に迫りくるオレンジの炎を避けながら、サヴェッジ・ランを行く。この山火事からの脱出行が、ただならぬ迫力だ。まさに冒険サスペンス。ひとつ急場を乗り越えると更なる難関が待ち受けている。自分一人でも厄介なのに、山に不慣れな腹の出たマクラナハンまで連れて逃げなければならない。しかも、ずっと敵対してきた相手だ。それでも、最後まで命を守ろうと猟区管理官は最善を尽くす。

ようやく、渓谷の底を流れる川に降り、火傷を負った体を冷やす。ジョーは漂流物の中から丸太を掘り出し、今度はそれを舟代わりにして急流下りだ。左右に岩が突き出た激流を乗り切るため、右に左に舵を切る二人。息もつかせぬ急展開の連続。最後には誰も見たことのない大滝が待っていた。打ち身と切り傷だらけになりながらも、ジョーはこの川下りを満喫し、無事生還したら、いつか戻ってこよう、と思うのだった。

ミステリによくある汚れた裏街ではなく、山の美しさと怖さを描き切っているところがいい。環境を守る立場にありながら、法を悪用して私欲を満たす男がいる一方、命を賭して自分の仕事を完遂する男がいる。持つべきでない人間に権力を持たせることの愚かしさ、恐ろしさに改めて思い及び、エピグラフにある「悪の凡庸さ」が腑に落ちた。読者は、持てる知力と体力をフル活用して危機的状況を克服する主人公の活躍をたっぷりと堪能されたい。山岳小説好きとしては、シリーズの過去の作品を読みたくなった。作中ちらっと姿を見せる凶悪な印象の鷹匠ネイトが活躍するスピン・オフまであるというから楽しみだ。