青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『死んだレモン』フィン・ベル

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原題は<Dead Lemons>だから、邦題はほぼ直訳。辞書で引くと<lemon>には「できそこない、欠陥品」の意味がある。色と香りは抜群なのに、かじると酸っぱいからだろうか。レモンにしてみれば、とんだ言いがかりだ。<dead>には「まるっきり、すっかり」の意味がある。くせの強いセラピストが、主人公の現状を指していう言葉なので「まるっきりダメ人間」くらいの意味なのだろう。邦訳は格調高く「人生の落伍者」となっている。

主人公の名は、作家と同じ、フィン・ベル。ウェリントンに住む三十六歳の白人で、仕事も家庭生活もうまく行っていたのに「中年の危機」に陥り、自分の人生を疑い始める。人に頼らず解決しようとした挙句、アルコール依存症となり、妻も友人も失い、飲酒運転でトラックに追突し、腰から下が麻痺状態に。今は車椅子を使っている。退院後、事業を整理して自宅を売り払い、ニュージーランド南島の最南端、リヴァトンという町に流れ着く。

第一章に「現在」とあるように、二つの時間軸が交互に入れ替わる。主人公の現在置かれてる状態というのが「八メートル下に波が逆巻く崖の上、頭を下にして宙ぶらりんでいる」というのだから異様だ。「片脚が車椅子ごと巨石の間にはさまったおかげ」らしい。追いかけていた事件の証拠を発見したところを犯人の一人に見つかり、崖から落とされそうになるが、相手の腕をつかみ、逆に相手を崖下に落としたばかりだ。

第二章は「五か月前」。主人公がこの町に来て、丘の上に建つ「最果ての密漁小屋」と呼ばれるコテージに居を定めるところから始まる。リヴァトンは一時期、捕鯨とゴールドラッシュで賑わったが、資源が尽きると、多くの者は土地を去り、残った者は密漁や海賊行為に走った。海沿いの小屋はその名残りだ。住民は原住民のマオリと各国から流れついたよそ者に分かれる。その中には、町ができる以前から住み着いているゾイル家のような得体の知れない一族もいた。ベルを突き落とそうとしたのはそのゾイル家三兄弟の長男だ。

はじまりは、猫だった。どこからか入り込んできた猫のことで、コテージのまえの住人エミリーを高齢者向けコミュニティーに訊ね、彼女が二十数年前に娘と夫を失ったことを知る。図書館で昔の新聞記事にあたると、当時十二、三歳と思われるアリスの失踪にはゾイル家の関与が疑われていた。ただ、警察が調べても確たる証拠が揃わず、現在も行方不明のままだ。父のジェイムズが消えたのはその一年後。警察はすぐにゾイル家を捜索したが、やはり何も発見できなかった。

ベルがこの事件を調べ始めたのは、隣に暮らすゾイル家に強い違和感を感じたせいだ。町の人との間に距離を置き、独自の暮らしを続けるゾイル家は、それまでも住民との間に様々なトラブルを抱えていた。ベル自身、夜間によく停電するので、電気を時間によって使い分ける話し合いに訪れたとき、豚の解体の途中だった、と腕を血まみれにした兄弟に間合いを詰められ「この三兄弟はどこかおかしい。心がざわざわするような、妙な空気を感じる」と強く感じたのだ。

崖の上で逆さ吊りにされたベルが、この苦境をどう乗り越えるかが、文字どおり、サスペンス(宙吊り)となって、ページを繰る手が止まらない。一方で、リヴァトンの町に落ち着いたベルは、マーダーボールという車椅子ラグビーに夢中になる。それを通じてタイというマオリの友人もでき、その従妹のパトリシアという長身の美女ともつきあい始める。ベティという老セラピストの独特のカウンセリングを通じて、自分の抱える問題点に少しずつ近づいてゆく。表題通り、これは「人生の落伍者」が再び人生に復帰する物語でもある。

その一方で、ベルは過去の事件の資料を求めて、地元紙の記者ベイリーを訪ねる。ベイリーはエミリーの弟だった。初めは、姉をそっとしておいてほしい、と渋っていた彼も、ベルの本気を知り、かつての担当刑事を紹介してくれたり、自分の集めた資料を提供してくれたり、と協力的になる。ところが、ベルが話を聞いた、タイの伯父にあたる郷土史家が首を吊ったり、コテージが家探しにあったり、不審なことが立て続けに起こる。

現在のパートはハラハラドキドキのサスペンス。過去のパートはミステリ。過去が現在に追いついたとき、周到に張り巡らせてあった伏線を最後に鮮やかに回収してみせる本格ミステリになる。捕鯨や、金の採掘といったニュージーランドの歴史に関する興味、それに変わり者のゾイル一族の出自にまつわる謎とあいまって興趣は尽きない。南アフリカ共和国生まれ、というベルの出自が謎を解く手がかりとなるなど、プロットもよく練られている。

自殺用に、頭を吹っ飛ばすことのできる、ホローポイント弾が装填できる銃を買うほど追い詰められていた男が、マーダーボールという格闘技のようなスポーツによって、生きることを実感し、パトリシアとの出会いによって愛について本気に考えはじめ、いつの間にか再び人生を前向きに捉えはじめたところ、崖に宙吊りされ、絶体絶命、まさに崖っぷちだ。何という皮肉。しかし、死を前にすることで、かえって激しく生を求める、のも事実だろう。

「死んだレモン」状態だった主人公を生き返らせるためには、それほど強烈なカンフル剤が必要だったのかもしれない。ベルは何度も危機に見舞われ、そして、そのたびに不死鳥のように(文字通り、火の中から)よみがえる。話がうますぎると思うところもあるが、南ア出身の双子の刑事を上手に使うことで、その不自然さを回避している。お定まりのどんでん返しまで用意され、読者をあっと言わせること請け合い。圧巻のページ・ターナーである。