青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『沈黙の森』C・J・ボックス 野口百合子訳

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ジョー・ピケットは最近、このワイオミング州トゥエルブ・スリープ郡の猟区管理官になったばかりだ。かつて許可なく釣りをしたということで、州知事に違反切符を切ったことで有名な男だ。ライフルの命中率は高いが、拳銃はからっきしダメで、おまけに常時携帯が義務付けられているというのに、よく車に置き忘れる。運転に邪魔なので外しているからだ。もっとも、携帯していても隙をつかれて抜き取られたこともある。

のっけからその失敗談が語られるので、読者は呆気にとられる。ワイオミングといえば映画『シェーン』の舞台となったところじゃないか。それが油断していて拳銃をとられるとは、とんでもない間抜けだ。そんな男が主人公で大丈夫なのか。誰でもそう思う。そこがつけ目だ。こう見えて、ジョーは目端が利く。馬鹿ではないのだ。頑固で愚直なところがあり、少々恐妻家でもあるが、猟区管理官としての能力は高い。ただ猟季ともなれば、なかなか家に帰れないので、家族には負い目がある。

『沈黙の森』は猟区管理官ジョー・ポケットを主人公とする人気シリーズの第一作。最新作『発火点』では大学生になっている長女のシェリダンも、ここではまだ七歳だ。夢見がちで動物好きのシェリダンは、本作で重要な働きをしている。夢で怪物を見たというシェリダンの話が気になったジョーは、家の外でたきぎの山に凭れて死んでいる大男を発見する。以前、禁猟期に鹿を撃って違反切符を切ったことがある男で、銃を奪われた相手でもあった。

男の手には取っ手が握られ、開いたクーラーボックスの中には小動物のものらしい糞が残っていた。なぜ死にかけの男がわざわざジョーの家までやってきたのか、中に入っていたのは何なのか? ジョーはその謎を解くために容疑者と思われるアウト・フィッター(アウトドア・レジャーのサポートをするガイド)仲間二人の捜索隊に志願する。ところが、同行者の二人、猟区管理官のウェイシーと保安官助手のマクラナハンが血気にはやって発砲し、大事な証人は重体、被疑者の二人は死体で発見され、謎は解けるどころか深まるばかり。

そんなとき、シェリダンはたきぎの山の中に何かが動くのを見つけ、親には内証で餌をやり、ペットにして可愛がる。ジョーは糞を調べてもらおうと、シャイアンにある狩猟漁業局に送るが、どうしたことかなしのつぶて。それどころか、銃を奪われた一件が狩猟漁業局の知るところとなり、副局長に呼び出され、違法な捜査に加わった件まで問題にされ、停職処分にすると脅される。しかし、ジョーに好意を持つ者もいて、あの糞が何のものかを知ることができた。

基本的に、ジョーの視点で描かれているため、ジョーの視界に入らないところは語られない。ところどころ、シェリダンの視点がまじるのだが、まだ七歳のシェリダンには、ペットのことで自分を脅す人物が、父の知り合いであるということは知っていても、名前は知らない。父に話せば母や妹に危害を加えると言われては口を噤むしかない。読者は、何者かの悪だくみがあり、ジョーの知らないところで、それが進められていることだけが分かる仕組みだ。

猟区管理官であるジョーにそれを知らせようとあの大男は死を賭してやってきたが、その前にこと切れた。誰かがその秘密を葬り去ろうとして必死になっている。三人の殺しは怨恨によるものではない。誰かが何かを隠蔽しようとしてしたことだ。シャイアンで、それが何なのかを知ったジョーは確かな証拠を得るためにアウトフィッターが殺された現場に向かう。

ジョーが証拠を求めて分け入る渓谷の窪地の描写が美しい。そこでエルクのような大物を狩りをしても、運び出す手筈がないために、そこは誰も入り込まない土地となっている。いわば人が初めて目にする景色なのだ。ところが、そこにいる筈の動物がいない。よく見ると塚状のものがいくつもある。そこは大量殺戮の跡地だった。人跡未踏の動物たちの天国が毒で汚染されていたのだ。

ジョーが愛するワイオミングの大自然は、アウトドア・レジャーやハンティングを目的とする者にとっては天国だが、たいして金にはならない。野生動物の保護は大事なことだが、規制は多く、ある者にとってはそれが金儲けの邪魔になる。たとえば、そこに絶滅したはずの動物が生き残っていたことが知れれば、マスコミは大騒ぎし、議会は法律を作り、規制ははるかに厳しくなり、その一帯の立ち入りは禁止され、そこで働く多くの者は仕事を奪われてしまう。

権力を握る者は、その力で人を操り、臭いものに蓋をする。ジョーのような頑固者は丸め込むには難しいので、手を出せないようにするしかない。あらゆる手段を尽くして隠蔽が図られた。しかし、ジョーは裏切りの証拠を手にした。最後はウェスタン流の決着をつけるだけだ。圧倒的に無力なものが、真実のために立ち上がり、一人で悪を暴こうとする。相手は町の実力者であり、保安官、政府の官僚といった権力者だ。ジョーの味方は家族しかいない。まるで一昔前の西部劇の世界である。

それまで見えていなかったものが、一つの謎を解くことで一気に明らかになる。なぜ、ジョーなのか、といえばジョーこそが信じるに足る猟区管理官だからだ。他の者の手に渡れば、握りつぶされてしまう。だからこそジョーでなければならなかった。裏から手を回して仕事の邪魔をされ、自信を無くしかけ、会社勤めも考えていたジョーが、動物の大量虐殺の現場を抑えたことで、自身を取り戻し、遂には苦手だった拳銃でかたをつける。溜飲が下がる、とはまさにこのことだ。第一作ながら、後のシリーズに至るキャラクターの性格づけがしっかりなされていることに驚いた。次作が読みたくなるのもよく分かる。