『アウグストゥス』ジョン・ウィリアムズ 布施由紀子訳
ジョン・ウィリアムズは長篇小説を四冊書いているが、一作目は自己の設けた基準に達しておらず、自作にカウントしていない。二作目が『ブッチャーズ・クロッシング』。三作目が第一回翻訳小説大賞読者賞を受賞した『ストーナー』。『アウグストゥス』は、その四作目で、完成されたものとしては最後の小説である。『ストーナー』は、しみじみと心に沁みる小説で、高い完成度を持つ作品だった。これで、ジョン・ウィリアムズの小説はすべて読んだことになる。どれも素晴らしい出来映えである。
『アウグストゥス』は、書簡や回顧録といった媒体を用い、多様な視点を通じて初代ローマ皇帝アウグストゥスの人となりを描いてみせる書簡体小説。ユリウス・カエサルの死に始まり、アウグストゥスの死をもって幕を閉じる歴史小説でもある。陰謀と策謀、盟約と裏切り、敵と通じて互いの敵を撃つという信義無用のローマの政治と軍事をその場にいて目撃した当事者、傍観者の口を借りて多彩に描き出している。
もちろん、その中心にいるのはガイウス・オクタウィウス、後の初代ローマ皇帝、カエサル・オクタウィウス・アウグストゥスである。しかし、当のオクタウィウスの心の裡は小説も終わりに近づく第三部に至るまで、はっきりと分かることがない。ことが起きた時にオクタウィウスがどういう思いで、その行動をとるに至ったか、そして後でどう思ったかは、常に傍にいて彼を助ける、友人のアグリッパやマエケナスが書き残した文書の中で、間接的に触れている箇所を頼りに読者は推測するよりほかはない。
作品は三部に分かれている。第一部は、カエサルの暗殺からオクタウィウスが数多の戦いを制し、ローマ帝国の礎を築くまでの十三年間を、若い頃からの親友、軍人アグリッパの回顧録、同じく友人で外交・内政を担当した詩人のマエケナスの書簡を中心に描いていく。虚弱体質であったオクタウィウスに代わり、戦闘は常にアグリッパが指揮を執った。フィリッピの戦いやマルクス・アントニウスやクレオパトラとの戦いであるアクティウムの海戦などの様子は戦記物を読むようでもある。
第二部は打って変わってオクタウィウスの家族に目が向けられる。自分の家系を残すことにこだわるオクタウィウスと妻リウィアの間には子がなかった。そこで先妻の生んだ一人娘のユリアを何度も再婚させ、男子の跡継ぎを得ようとする。知力に長け、美貌の持ち主でもあったユリアは、父の威光の下、平和が到来したローマにいて、若い富裕層の享楽的な催しに耽る。政略結婚の道具であったユリアが自己に目覚め、ティベリウスという夫のある身で姦通の罪を犯し、流刑にされた島でしたためた回顧録が中心となる。この皇帝の娘のスキャンダルを描いてみたいと思ったのが本作の構想の基となった。
第三部は、七十六歳になり、死期を悟ったオクタウィウスが、ダマスクスに暮らす友人の歴史家、ニクラウスに宛てて船中で書く長い手紙が中心だ。アグリッパをはじめ、心の許せる数少ない友人を次々と逝かせ、孤独な余生を送るオクタウィウスに残されたのはヘロデ王との連絡役として長らく自分の傍に仕えたニクラウスよりほかにいなかった。ここに至って初めて、オクタウィウスは、カエサル暗殺の報を受け取ったときの心境に始まり、娘ユリアに寄せる父としての愛情や、野心家の妻リウィア、その子ティベリウスに対するわだかまりを自分の声で語り出す。
それまで、隔靴搔痒の感があったオクタウィウス像が、霧が晴れたように明らかにされる訳だが、自分の姿を容易に見せようとしなかったオクタウィウスのことだ。この手紙もまた一つの韜晦であると言えなくもない。それかあらぬか、オクタウィウス死去の後、この手紙が届けられたとき、ニクラウスもまた亡くなっていたというから、皮肉極まりない。皇帝の親書である。おいそれと他人が開けるはずもない。ということは、ここに綴られているオクタウィウスの切々たる心情はいったい誰の手になるものか。いうまでもなく作者による。それをいうなら、いくつかの資料は別として、この小説の中に書かれた大半の書館、回顧録はすべて作家の手になるものである。
これまで、大叔父のカエサルや、マルクス・アントニウス、クレオパトラに比べ、オクタウィウスは映画や演劇で採り上げられることがあまりなかった。しかし、その実態はパクス・ロマーナの創出者であり、ローマ帝国の版図を広げた最大の功労者でもある。どうしてそんなことになったのか。この小説の中のオクタウィウスは、先の三人に比べ、派手な演出を嫌い、自分が前に出ることなく、出自に関わらず有能な人材を登用し、戦いより婚姻関係で平和を維持しようと励む。もし、カエサルの跡を継がなかったら、一介の文人となっていただろう。そんな、思いがけなくローマを統べることになった人物の、稀有な半生とそれ故に引きうけざるを得なくなった孤独が読者の胸に迫る、壮大な叙事詩にも似た小説である。