『これは小説ではない』デイヴィッド・マークソン 木原善彦訳
シュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットの画に「これはパイプではない」というのがある。紛れもなくパイプを描いた絵の下に、「これはパイプではない」と書かれているところに面白みがあるのだが、書かれていることはまちがっていない。『ウィトゲンシュタインの愛人』の作者なら、こういうだろう。正しくは、それは「パイプを描いた絵」なのだ、と。
『これは小説ではない』は、断章形式で書かれた実験小説である。そう書くと怖気づく読者がいるやもしれないが、面白さについては保証する。よく似た形式で書かれていた『ウィトゲンシュタインの愛人』には、まだしもケイトという名の女性が登場し、地上から人間が姿を消した世界という舞台が与えられていた。これは、そこから登場人物と世界を取り去ったものといえる。作家は、次のような断章で小説を書き出す。
〈作者〉は文章を書くのを本気でやめたがっている。
〈作者〉は物語をでっち上げるのに死ぬほどうんざりしている。
〈作者〉の意図に関する断章はまだある。
〈作者〉は登場人物を考え出すことにも飽き飽きしている。
まったく物語のない小説。〈作者〉はそれを作りたい。
登場人物もいない小説。一人も。
物語なし。登場人物なし。
にもかかわらず、読者にページをめくる気にさせる。
それどころか、始まりと終りがちゃんとある小説。
最後には悲哀の余韻さえ残るもの。
舞台設定(傍点四字)のない小説。
いわゆる家具もなし。
それゆえ、結局は描写(傍点二字)もなし。
重要な中心的動機づけ(傍点四字)のない小説。それが〈作者〉の望みだ。
それゆえ同様に、葛藤(かっとう)や対立のないもの。
社会的なテーマなし。つまり、社会の描写なし。
現代の風俗や道徳の描写なし。
断固として、政治の話はなし。
象徴をまったく用いない小説。
これらの断章の間に、「誰それ(作家、詩人、劇作家、作曲家等々の人名)は何々(病名)で死んだ」という文が無数に並ぶ。芸術家の死因のカタログのようである。他に作家や画家、音楽家の逸話。「誰それ(前同)は何(楽器)を弾いた」という事実。名作が世に出た時に、同時代の批評家や同業者からどれだけ罵倒されたか、という話題も多い。ジョイスの『ユリシーズ』など、ひどいものだ。婚外子の話。作家の父の職業、と脈絡のない事柄が羅列される。ただ、本当に脈絡がない訳ではない。
すべては繋がっている。その証拠に、ページを跨いで、同じ話題が繰り返されている。まるで詩の「繰り返し句」(リフレイン)のように。大事なことは繰り返される、とどこかで読んだ気がする。となれば、何が繰り返し言及されているかを探れば、この小説が何について書かれているのかが分かるわけだ。いちばん多く繰り返されているのは、作家の死因。これは死にとりつかれた作家もしくは芸術家の死を描いた小説である。
しかし、あまりにも多くの作家、芸術家が果てもなく何らかの病気で死ぬので、そこに何が隠されているのか知りたくなる。「木を隠すなら森の中」というのは、チェスタトンの『ブラウン神父の童心』に出てくる科白だ。画家のアルキンボルドに野菜や花を並べて王の肖像になぞらえた絵があるのをご存知だろうか。あるいは、「みかけハコハゐがとんだいい人だ」という歌川国芳の浮世絵を。どちらも、当人と全く関係のないものを用いて、人物の肖像を描いたものだ。
『これは小説ではない』もまた同じ手法を用いている。過去の同業者の人生の一部を借りてきて、塩梅よく配置することで、そこに〈作者〉とのみ記される、ある人物の人生、並びにその死を判じ物のように浮かび上がらせようというのがこの小説の意図するものだ。しかし、突拍子もない取り合わせや、まるで、あらかじめ意図された断章の「なぞなぞ」のような配置が、詩のような、音楽のような効果を上げ、読む者をして心地よくさせる。
これはイリス・クレールの肖像画だ。私がそう言えばそうなのだ。
ロバート・ラウシェンバーグはパリのある画廊に送った電報にそう書いた。
これは小説だ。〈作者〉かラウシェンバーグがそう言えばそうなのだ。
まるで赤塚不二夫の言い種だが、これがすべてを物語っている。〈作者〉が、そういえば、そうなのだ。〈作者〉によれば、これは番号さえ振れば「長詩」にもなり、新たな『フィネガンズウェイク』でもあるかもしれない。そして〈作者〉のいうように「自伝」なのかもしれない。
しかし、〈作者〉が自分でいていることを鵜呑みにはできない。原爆に関する記述が、何か所かある。これは「社会的なテーマ」だろう。よく読めば、他にもいろいろあるにちがいない。「葛藤や対立」もある。実験小説に対する批評家の無理解にはかなり頭に来ていたのか、批評家と作者の対立を描いたエピソードの数は片手では足りない。ジョイスの『ユリシーズ』や、ホメロスの『イリアス』に寄せる関心の高さは、小説の向こう側にいる〈作者〉の顔をおぼろげに映し出してもいる。
まちがいなくページを繰るのが楽しい書物である。二度読み、三度読み、読めば読むほど仕掛けが見えてくる。「なぞなぞ」が解け、隠された絵柄が見え始めると、もう止まらない。〈作者〉の術中にはまっているのだ。そして、最後まで読めば、上出来のミステリのように「悲哀の余韻が残る」謎解きが待っている。それまでが、読む愉しさに満ちていただけに、いっそう悲哀を感じるのだ。〈作者〉のいう「重要な中心的動機づけ」がそこに透けて見える。文学や絵画、音楽が好きな読者には、芸術家に関するトリヴィア(詳細な註付き)のあまりな椀飯振舞に歓喜のめまいすら覚えるにちがいない。そして、その華やぎとうらはらにひそかに滲み出す悲哀も感じることだろう。
明らかに〈作者〉は存在している。
登場人物としてではなく、作者として、ここに。