『言語の七番目の機能』ローラン・ビネ 高橋啓訳
評を書くときには、読者がその本を読む気になるかどうかを決める際の利便を考慮し、どんなジャンルの本かをまず初めに伝えるようにしているのだが、本書についてはどう紹介したらいいのか正直なところ悩ましい。シャーロック・ホームズ張りの推理力を発揮する人物が、ワトソン役の警視とともに殺人事件の謎を追うのだから、謎解きミステリというのがいちばん相応しいのだろうけれど、ミステリとひとくくりにしてしまうと少々具合が悪いことになる。通常のミステリ・ファンが本書を面白がるとは思えないからだ。
『黒死館殺人事件』から法水麟太郎の超絶的な博学の披露を取り去ってしまったら、並みの推理小説と大して変わらないという評を読んだことがある。まあ、それは確かにそうだろう。衒学趣味(ペダントリー)を味わうことが謎解き興味より大事にされているのが明かな作品なのだ。名探偵を主人公に据えた探偵小説には、もともとそういうきらいがある。人の窺い知れない謎を解き明かすことのできる人物には、他を圧するだけの知の持ち主であることが要求されるのだ。それを出し惜しみするのはかえって無理がある。
シモン・エルゾグは、パリ第八大学(ヴァンセンヌ)で記号学の講座を受け持つ講師。今はサン=ドニにある大学がヴァンセンヌにあることから分かるように、時代は一九八〇年から八一年にかけて。フランスの政治で言えば、大統領がジスカール・デスタンからフランソワ・ミッテランにかわる激動の時代。社会党のミッテランが大統領に選ばれた日のパリの狂騒ぶりは、よく覚えている。
シモンが捜査に加わることになったのは、ジャック・バイヤール警視が大学を訪れ、無理矢理シモンを相棒に選んだからだ。ついには、一緒に大統領の執務室に招かれ、正式に国家に雇われることになる。どうやらことは国家的な一大事らしい。イデオロギー的にはヴァンセンヌに勤めるシモンは左派で、現大統領には批判的だが、ことの経緯上やむを得ない。何しろ、交通事故で入院中のロラン・バルトが、実は事故ではなく誰かに襲われた疑惑がある、というのだ。
この小説は、フランスの政権移行を背景に、時代の寵児であったロラン・バルトの事故死を題材にした謎解きミステリの形をとりながら、記号学や構造主義といった当時の知の体系を軽やかにさらってみせるとともに、フーコーやデリダ、ドゥルーズ、アルチュセール、ジュリア・クリステヴァ、フィリップ・ソレルスといった綺羅星のごとき哲学者や作家たちを巻き込んで、ロマン・ヤコブソンが残したとされる『一般言語学』の草稿をめぐる、てんやわんやを露悪的な形で嘲笑してのける、かなり厄介な小説である。
ただ、小説内に書かれているアルチュセールが妻を絞殺した事件は実際に一九八〇年に起きているし、ロラン・バルトが交通事故に遭ったのも同じ年の二月で、史実と創作を巧みにないまぜにしてみせる小説作法は、ゴンクール賞最優秀新人賞を受賞した『HHhH―プラハ、一九四二年』以来、この作家の得意とするところだ。本作の目玉は表題にある『言語の七番目の機能』である。ヤコブソンの本には言語の持つ六つの機能が紹介されているが、七番目はない。ところが、草稿にはそれが書かれていたというから穏やかでない。
バルトはどこからか草稿を入手し、ひそかに屋根裏部屋に隠し持っていた。そして、紙片の裏表にびっしり「言語の七番目の機能」について書き写したコピーを持ち歩いていた。何者かがそれを奪う目的で彼を襲ったと考えられる。アルジェリアで戦ったこともあるバイヤールは左翼とインテリには縁がない。コレージュ・ド・フランスを訪ねてフーコーにバルトの話を聞きに行ったのはいいが、話の内容がさっぱり分からない。そこで、話を翻訳してもらおうと記号学の専門家を探しに今度はヴァンセンヌを訪れ、シモンを見つけた次第。
風体が逞しく押し出しのいいバイヤールと線の細いインテリのシモンという、二人のコンビがなかなかいい。読者はバイヤール同様、記号学について何も知らなくても心配することはない。すべて、シモンが分かりやすく翻訳してくれる。そして、知的エリートの際限のない大言壮語を聞かされたり、性的に放埓の限りを尽くすさまを見せられたりするたびに、腹の中でバイヤールがつぶやく悪口雑言に共感する。この仕掛けが小説の工夫なのだ。
ビネは、フーコーやソレルスの文体を模倣して、パスティーシュの技量を見せつけながら、返す刀で、口舌の裏に隠された名誉欲やライヴァルの足を引っ張ろうとする敵愾心などをここぞとばかりに暴き立てる。言葉が華麗で文体が流麗であればあるほど、その内実の醜悪さが浮かび上がる。ミステリ仕立ての本作が意識したはずの『薔薇の名前』の作者、ボローニャの賢人ウンベルト・エーコを除いて、ほとんどのフランス人の哲学者や作家はひどい書かれようだ。フーコーの性豪振りなどあからさま過ぎて、これでよく文句が出なかったなと心配になるほど。
映画『ファイト・クラブ』から着想した「ロゴス・クラブ」という秘密の会合が面白い。拳ならぬ弁論で戦う一対一の争いである。弁論術のレベルによっていくつかの位階があり、相手を倒すことで位階が上がるシステムだ。もっとも、本戦ともなれば試合に敗れると指を切り落とされるという痛い判定が待ち受けている。まだ誰も知らない「言語の七番目の機能」を手に入れることができれば、恐らく無敵の勝者になれるだろう。
大は国家権力をめぐる暗闘から、小は個人の名誉欲まで、様々な思惑がいくつも重なりもつれあって何人もの人命が奪われる。パリ、ボローニャ、イサカ(アメリカ)、ヴェネツィア、ナポリと、大西洋を挟んでヨーロッパとアメリカを股にかけた壮大な謎解きミステリであり、スパイ小説でもある。カー・チェイスあり、傘に毒薬を仕込んだ暗殺あり、謎の日本人の二人組まで登場する一大エンターテインメント。時移れば、あの知の巨人もこう揶揄われるのか、と構造主義やポスト構造主義華やかなりし時代を知る者には、ほろ苦い思いを抱かせる問題作ではあるが、読ませる小説であることは間違いない。