『私はゼブラ』アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ 木原義彦訳
ゼブラ(シマウマ)というのは本名ではない。父が死んだ時、木立ちを透いて棺の上に光が指して縞を作った。それを見て強烈なメッセージを受けた主人公が咄嗟に発したのが「私の名はゼブラ」という言葉だった。それ以来、彼女はゼブラを自称することになる。持って生まれた人格と異なる、新たなアイデンティティの獲得であり、宣言である。本名はビビ・アッバス・アッバス・ホッセイニという二十代の亡命イラン人である。
ホッセイニ一族はイランの知識人階級に属し、代々文学を能くしてきたが、独学者、反権力主義者、無神論者をもって任じていたため、時の権力者が王であれ、宗教者であれ、決して認められることなく、中には処刑された者すらいる。父の代にイラン・イラク戦争が勃発し、テヘランの家を捨て、カスピ海に近いノーシャーにある一族の隠れ家「本のオアシス」に逃げ込んだ。ゼブラはそこで生まれ、本に囲まれて育つ。以下に目次を示す。
- 「プロローグ・私の不運な起源の巻」
- 「ニューヨークシティ・父の死とその埋葬、その結果、私の魂が不規則にいくつにも分裂するの巻」
- 「バルセロナ・亡命の虚空に飛び込み、言葉の防腐処理人ルード・ベンボと関わり合いになる巻」
- 「ジローナ・ミニ博物館の創設とルード・ベンボとの共同生活の巻」
- 「アルバニャ・ピレネー山脈の緑の谷で複数の魂に酸素を供給し、自然とのソクラテス的対話に従事するの巻」
- 「ジローナ・虚無の巡礼の仲間とともに亡命の歩廊を旅するの巻」
- 「水の大陸・沈んだ希望の海を渡るの巻」
古い物語の形を借りていることからも分かるように、この小説は騎士道物語の形式を借りることで、その陳腐さを逆接的に批判したセルバンテスの『ドン・キホーテ』に倣っている。アロンソ・キハーナが騎士道物語を読みすぎたように、ゼブラは、父から午前中はニーチェを、午後はゲーテ、オマール・ハイヤム、ダンテ、スタンダール、リルケ、カフカ、ペトラルカ、セルバンテス、ベンヤミン、そして清少納言や芭蕉まで、ありとあらゆる文学を教えられて育った。
郷士に過ぎないアロンソ・キハーナが「遍歴の騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」を自称して遍歴の旅に出るのは、物語の読み過ぎで正気をなくしたからだ。ゼブラもよく似たもので、本人はいたって意気軒昂だが、その振る舞いは常軌を逸している。寝食を忘れ、文学に没頭しているので、何日も部屋から出てこなかったり、ぷいとどこかへ行ってしまって帰ってこなかったり、一緒に暮らす者にとっては迷惑千万な相手なのだ。しかし、ゼブラはそんなことに無頓着で、ただ只管、亡命の虚空の中を虚無の巡礼者として遍歴するばかり。
戦禍を逃れて国境地帯を彷徨う中で母を亡くし、父と二人食うや食わずで諸国を遍歴し、新大陸に渡ったものの父は病みついた挙句に死ぬ。父の死を契機に自分の考える文学理論を実践に移そうと、父と遍歴したルートを逆にたどる「大旅行」(グランド・ツァー)を計画する。「文学するテロリスト」、「虚無の女騎士」を自称して。「プロローグ」に特に濃厚な厭世的で虚無的な語り口は、ニーチェの文体のパスティーシュだろうか。他にも多くの文体模倣が駆使されているに違いない。
ゼブラは。父に言い聞かされたホッセイニ一族第一の戒め「おまえは文学以外の何ものをも愛してはならない」に固く縛られている。また厳しい文学修行を通じて、その場しのぎの無内容な会話というものができない。バルセロナの空港へ迎えに来てくれたルード・ベンボを一目見るなり強く惹かれるのだが、気持ちを素直に表せない。相手の言葉の誤用を質したり、シェイクスピアやダンテを引用してみたり。このちぐはぐな会話が滑稽で、つい笑ってしまうのだが、笑われているのは果たしてどちらだろう。
「でも、セックスのためのセックスはありだし、それはすべきだと思う。形而上学的な意味では、私は既にあなたという重荷を肩の上に担いでいるのだから、セックスのときは私が上にならせてもらう」。道端で初対面の相手にこんなことをいう。万事がこの調子。空気なんか端から読む気はないし、常に上から目線で相手と接するから、言葉は切り口上になる。それが災いして、二人はなかなか理解し合えない。セックスはできるのに、ルードが求める愛には応じられない。
父による呪縛でごちごちに凝り固まった若い女性のアイデンティティは、一族の負の遺産であり、人間を蔑視した父の憎悪を引き継いでいる。しかし、それだけではない。貧苦と孤独な生活を強いられながら、自分を育てるための栄養を摂るようにして、脳内に取り込んだ、世界屈指の文学者の思惟や警句がゼブラの中で互いに響き合って、次から次へと独自の新しい発見、発想が飛び出してくる。この目くるめくようなアイデンティティの変容には驚かされる。
「亡命」という主題を抜きにしてそれを語ることはできない。ゼブラはどこへ行くにも死んだ父のトランクを持ち歩く。そこには一族の家訓を描いた絵やサモワールといった日用品とともに『神曲』や『オデュッセイア』が入っている。ゼブラはそれを「私の過去の遺骸(なきがら)」と呼ぶ。曲がりなりにも、自分の国というものがあり、読もうと思って手を伸ばせばそこに本がある。それが当たり前だと思っていた。しかし、遍歴を定めとする亡命者に書庫はない。文学は予め自分の中に入っていなければならないのだ。実在する本は、時折り開いて、そこにあることを確かめるよすがなのかもしれない。