青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『泡』松家仁之

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薫は東京の私立男子校に通う高校二年生。学校が休みになる八月の一か月間、紀伊半島にある砂里浜(さりはま)という漁師町で暮らすことになった。どうにも学校に足が向かなくなったのだ。特にいじめにあった、というのではない。生理的嫌悪感に似たもので、体育系教師が幅を利かす校風も嫌だし、もともと志望校に落ちて滑り止めに受かって通うようになっただけの学校で、そこに居場所が見つからなかったということもある。

祖父のいちばん下の弟で、薫にとっては大叔父にあたる兼定が、砂里浜でジャズ喫茶を営んでいた。両親ともに教職者という家庭で育った薫には、法事の際に帰郷しては面白おかしく話を聞かせてくれる兼定がお気に入りだった。東京にいれば同じ学校の生徒に出くわすこともある。かといって昼間誰もいない家に、ひとり閉じこもってばかりもいられない。温泉と海水浴場しかない漁師町だが、ひと夏過ごすにはうってつけだった。父が電話すると大叔父は快く受け入れてくれた。

佐内兼定(さないかねさだ)はもともと東京生まれだが、小樽高商でロシア語を学び、戦争が始まると軍属として満州に渡った。不可侵条約を破って侵攻してきたソ連軍により、シベリア抑留生活を送る憂き目を見た兼定は、復員後生家に戻ったが、両親は死に、長兄の鍬太郎が家長となっていた。当時、シベリア抑留者は、ソ連によって赤化教育を受けた「アカ」だという風評が蔓延っており、兼定の帰国を家族は喜ばなかった。

シベリア抑留時の友人の遺品を届けるため、砂里浜を訪れた兼定は、海が見えて坂のある町の佇まいが気に入り、当地に腰を据えることにした。保険の営業で得た蓄えを元手に、閉店したバーを格安で譲り受け、中古ながらオーディオ機材は高級品を揃えた。コーヒーと軽食を出し、モダンジャズを聴かせる店は、それなりに地元に受け入れられ、常連客もでき、どうやら軌道に乗るようになっていた。

はじめは一人でやっていた「オーブフ」(ロシア語で「靴」の意)に、ある日、ダッフルバッグを手にし、長髪に髭を伸ばし放題にした男が顔を出した。なぜかその男を見たとき、店にいつきそうだと感じた兼定は、そのまま自分の経営する貸アパートに案内し、店で雇うことにした。岡田というその男は、料理も上手にこなし、客あしらいも上々で、最近では岡田目当てに足を運ぶ客も出てきて、兼定は隠居気分になりつつあった。

それぞれ理由は異なるものの、東京を捨てた男三人が、太平洋に面した海辺の町で暮らし始める。薫にとっては、自分というものを意識してはみたものの、それをどう扱っていいやら分からない、思春期の葛藤を抱えた若者の自分探しの旅である。兼定にとってはシベリア抑留という過酷な試練を経て、ようやく帰国してみれば、国家や家族からまるで余計者扱いされるという理不尽な目に遭い、わだかまりを覚えていた親族との和解の機縁でもある。

根のある二人とちがい、流れ者の岡田は謎めいている。過去を語ることもない。ふらりとやってきて、偶々ここに草鞋を脱いだだけの人物だ。しかし、岡田が緩衝材となることで、年の離れた兼定と薫の関係がぎくしゃくせず、薫はいつもより自然に自分と向き合うことができる。兼定兼定で、親戚の年配者らしい説教を垂れたりせずにすむ。薫にしてみれば、邪魔にもされず、かといって放りっ放しというのでもない、東京にいるのとは違って、実に気持ちのいい毎日が送れるのだった。

緊張の高まる町にどこからか流れ者がやってきて、いつの間にか住み着いては町の人の気持ちを宥め、それぞれが自分の思うように生活を始める、そんな映画か小説がどこかにあったような気がするが、はっきりとは思い出せない。薫は岡田に料理を習い、その流れるような自然な動きに魅せられる。繰り返しを厭う気持ちの強い薫だが、ジャズ喫茶の調理場を手伝ううちに、日々の繰り返しの中に確かにある生きる実感のようなものを感じ始める。

妄想ばかりで、憧れの女性との関係は中途半端で終わる薫とちがい、岡田には新しい女性との関係が始まる。兼定の目には日に灼けた薫は外見だけでなく、内面もたくましくなったように見える。店はいつでも岡田に譲って引退する気でいるが、岡田にはそれが桎梏と受け止められはしまいか。お互い、突っ込んだ話は抜きでやってきた。それがよかったのだ。今更、面と向かって話すようなことでもない。

特に何が起きるでもない。都会を遠く離れた海辺の町のジャズ喫茶をめぐる他愛ないと言えばそうも言える話。ジャズ喫茶といっても、マニアが眉根に皺を寄せて黙りこくって曲に耳を傾ける、といった本格的な店ではない。昼食がてら店を訪れ、食後のコーヒーと店長こだわりのジャズをいっとき味わってはそれぞれの職場に帰っていく。そんな止まり木のような店だ。薫もまたひと夏、羽をやすめに来た若鳥のようなものだ。

一昔前のヨーロッパ映画の、若者のひと夏の経験を描いたモノクロフィルムのような、全篇に白く乾いた熱気を漂わせる一篇。年老いた者には、巡り巡ってようやく落ち着いた老年の淡々とした日々の何気ない日常の持つ滋味を、若者には、思春期の自我の芽生えに手を焼く疾風怒濤の惑乱を、そして、齷齪と人生を生きる者には、かつて夢見た何処の誰とも知れぬ流れ者だけが味わうことのできる放逸の生を、しみじみと思うさま味わわせてくれる。近頃、なかなかお目にかかれない端正な趣きのある小説である。