青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『祖国』上・下 フェルナンド・アラムブル 木村裕美訳

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<上・下巻併せての評です>

ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペイン両国に跨がるバスク地方。古くから独自の言語、バスク語を話す民族が暮らす土地だが、現在は国境によって北はフランス領、南はスペイン領に分断される形になっている。この小説は、スペイン側のギプスコア県にある村に暮らす二家族の確執を描く。確執を生み出すもとになったのは、民族独立運動から派生し、今やヨーロッパ最後のテロ組織といわれるETAバスク祖国と自由)が起こした殺人事件。

殺されたのは、村で運送会社を経営するチャト。それ以前からETAに運動資金として多額の金銭を要求されていた。何度か応じはしたものの、相手の要求は増すばかりで、誰かに仲介を頼もうと働きかけていた矢先、自宅や会社の壁に落書きが書かれ始める。それは次第に過激なものとなり、いつの間にか暗殺さえ仄めかす落書きが村中の至る所で見られるようにまでなる。しかし、息子の再三の助言にもかかわらず、頑固なチャトは村から立ち退くことを認めない。村のために、それまでも力を尽くしてきた自負があるからだ。

同じバスク人ではあるが、個人で企業を経営するチャトの家はまずまず裕福で、息子のシャビエルは病院勤めの医師となり、娘のネレアはサラゴサで大学に通っていた。家族で外国旅行にも行く。経営者として組合のストにも立ち向かわざるを得ない。雇われているのは地元の人間だ。資本家と労働者、富める者と貧しい者という構図で見れば、両者は敵対関係にある。それが地域固有のナショナリズムと結びつき、尖鋭化した組織から非協力者=敵と目されるようになったわけだ。

問題は、加害者の一人として警察に逮捕されたのが、チャトの家とは家族ぐるみで付き合いのあるホシアンの長男、ホシェマリだったことだ。屈強な若者であったホシェマリはそれまでの活動が認められ、ETAの仲間に入り、フランスで訓練を受けていた。おまけに犯行当時、村にいたのを目撃されていた。ややこしいのは、ここからだ。村人は、殺されたチャトの葬儀には顔を見せず、逮捕されたホシェマリを英雄視したのだ。

二人の子は家を出て行き、ひとり村に残されたチャトの妻、ビジョリはそれまで親しく付き合っていた村人から村八分の目に合わされる。姉妹のように仲の良かったホシェマリの母親、ミレンは息子可愛さのあまり、ETAのシンパとなって、ビジョリを敵対視しするようになる。テロが、二つの家族を仲たがいさせ、家族の構成員である親子兄弟の間にも対立が生じる。この小説は、家族の崩壊と、そこからの再生の道のりを、二家族九人のそれぞれの視点から描き出す構成をとる。

それぞれの人物の視点から、一つの事件を見ることで、単なるテロによる殺人が、ちがった意味合いを帯びて目に映るように見えてくる。ともすれば、イデオロギー的になりがちな主題を扱うにあたって、単純な善悪二元論に陥らないように、年齢、性別、兄弟関係を違えた複数の視点を確保した作家の工夫が生きる。読者は、最愛の夫を殺された妻の立場、官憲に犯人扱いされ、投獄された息子を持つ母の立場、兄に怖れと反発を感じながらも、逃亡の手助けをせずにおれない弟の立場などに寄り添いながら、事態の進展を見守ることとなる。

背景にあるのは民族独立運動とその尖鋭化された形としてのテロリズムだが、話を引っ張っていくのは、家の中心となる二人の母親の姿である。特に、愛する夫を殺され、村人から相手にされなくなり、ついには息子シャビエル(余談ながら、有名なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルバスク人。おそらく同名だろう)の助言を聞きいれ、サンセバスティアンのピソ(集合住宅)に引っ越してからも、村の墓地に通い続けるビジョリのぶれない芯の強さだ。

頑固だった亡きチャトを除けば、この小説の中の男たちはみな、善人ではあるが、どちらかといえば、自分の立ち位置をはっきりしようとしない。父を殺されたシャビエルは、その報復や復讐ではなく、父に託された母を守ることに専念するあまり、遂には愛する人さえ失ってしまう。チャトの親友だったホシアンは、村人の目や妻からの叱責を気にしてチャトと目を合わせることすら避けるようになる。しかも、内心それを大いに恥じている。

ホシェマリは、勉強嫌いだが運動能力は高い、よくある悪童の典型だ。スリルを求めてやり始めた悪戯がエスカレートして、いつの間にかテロリストの実行部隊にリクルートされてしまう。何も知らない村人からは英雄視されるが、本人はいたってナイーブな家族思いの青年に過ぎない。その弟のゴルカは、兄とは対照的な文学好きの内向的な少年として育つ。後に流暢なバスク語の使い手となってラジオ局に勤めるが、自分を局外者の位置に置き、周囲とは一線を画す。それには訳があるのだが、それはまた別の話。

それに比べ、女たちはみな、確固とした意志の強さを見せる。息子に肩入れするあまり、柄にもなく政治的な言辞を吐くミレンの姿は、強いというより弱さを見せないための強がりにも見える。しかし、ホシェマリの姉のアランチャは、突発性の難病のせいで、頭は働くものの体はほとんど動かせない障碍者ながら、iPadを駆使して自分の意思を表明し、母親の反対にもめげず、両家の間にある確執を解こうと努力する。アランチャの介護をするエクアドル人女性のセレステといい、何度も男で痛い目を見ながら、めげることを知らないネレアといい、女たちの逞しさには圧倒される。

チャトとホシアンが日曜ごとにサイクルツーリングに出るところや、さほどスポーツに関心のなさそうなシャビエルがレアル・ソシエダードを応援するためにサッカー場に出かけるところ、ミレンの得意なメルルーサの衣揚げ、バルでつまむピンチョス、といった、この地方ならではの独特の文化を点景に、古くから続く歴史と文化を持つバスク地方の光と影を人々の哀歓に寄り添いながらくっきりと描き分けたフェルナンド・アラムブルの『祖国』。ベルナルド・アチャガの『アコーディオン弾きの息子』とは、またひと味ちがう、現代バスク文学の傑作の誕生である。