一口に言えば、夭折により作品数が極めて少ないマイナー・ポエットの未発表原稿をめぐる探索行。いうところのビブリオ・ミステリである。本に関する蘊蓄が熱く語られるのが、この手の作品の常道で、そういう衒学趣味的な部分を愛する読者には喜ばれるにちがいない。もっとも、これを書いたのが、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』をチェコ語に訳した翻訳者でもあることからも知れるように通常のミステリとはいささか様子がちがう。
というのも、作中に堂々とというか、いけしゃあしゃあとというか、ドッペルゲンガー(分身)を持ち込んでいるからだ。まともなミステリ作家なら、作中に超常現象は持ち込まない。そんなものを読まされた日には、真剣に謎を追う気が失せてしまうからだ。ということは、これはビブリオ・ミステリの形式を借りた、所謂ポスト・モダン小説なのか、とまあそんなことはどうでもいい。読めば分かる。とんでもなく面白いから。
舞台となるのは日本の渋谷、とチェコのプラハ。主人公はプラハの大学で日本文学を専攻するヤナ。彼女は博士論文のテーマに、川下清丸(かわしたきよまる)という作家を選んだ。横光利一らと親交があるので、新感覚派に属すると考えられるが、若くして死んだため、作品の数が極端に少なく、作家についても未知な部分が多い。当然それについて詳しく調べることが論文を書くための下準備となる。ヤナは日本文学に詳しい院生、クリーマの手を借りて、川下の作品と作家その人について追い始める。
二つの世界が同時進行で語られる。一つは、言うまでもなくプラハの大学で、川下という日本人作家とその作品を精査するチェコ人の若い男女の物語。志を同じくする仲間であり、余人をもって代えがたい資質を持つ二人は当然のように惹かれあい、急速に関係を深めていく。しかし、二人とも、言ってみれば日本文学オタクで、本の中に頭を突っ込んで生きている。それ以外の部分についてはほとんど言及されない。二人の恋愛感情は、日本人作家川下の書いたテキストの中で生成変化していく、いうなれば形而上的恋愛である。
二人の代わりに生々しい恋愛を生きるのは、川下が自分をモデルにして創り出した聡(さとし)という若者と、どうやら聡の父の愛人であったらしい、聡の叔母にあたる清子という年上の女性である。大正期の作家川下の書いた「恋人」という作品が、この本の中では本文とフォントを変えて引用されている。部分的引用というより、作中作のように一篇まるごと抛りこまれているようなのだ。いかにも大正・昭和初期を思わせる、いささか古風な文体で書かれた短篇を何度も読まされるうち、読者は奇妙な感覚に陥る。ミステリと思って読んでいたものが、いつの間にか純文学を読まされている、といった思いに駆られるのだ。
もう一つの世界は日本の渋谷、ハチ公前がその舞台。こちらの主人公がドッペルゲンガーのヤナだ。実はヤナは数年前に友だちと日本を訪れたことがある。そのとき、友だちとはぐれた彼女は、待ち合わせのお約束、ハチ公前で街を行き交う人並を眺めながら、このままここにいられたら、という思いに駆られていた。その所為なのかどうか、気がつけば、肉体だけがプラハに帰り、ヤナの<想い>だけがそのまま渋谷に残った。実体のない想念としてのヤナは、まるで幽霊みたいにそれからの年月を今に至るまで渋谷を彷徨い続けていた。
おかしいのは、プラハにいる本物のヤナが頭でっかちで、文学の中で恋愛しているというのに、想念としてのヤナは、憧れの日本にいて、毎日お気に入りのビジュアル系バンドのメンバーで仲代達矢に似た青年を追っかけまわし、停電で地下の練習スタジオに閉じ込められたところを救出したりしている。こっちのヤナは、七年前で成長が止まっているからか、けっこうミーハーで、分身テーマでよくある、見かけは同じだが、中身は別というお約束を守っている。幽霊のヤナの方が、本物のヤナより形而下的であるのが面白い。この一つひねった感じが本作の持ち味。
二つの世界が平行線をたどるばかりでは、話が終わらない。プラハのヤナと、渋谷のヤナを一つにする役目を担うのが、日本に留学中のクリーマだ。プラハに一人残してきたヤナのことを思いながら、渋谷の町を歩いていた彼は、街中でヤナを発見する。誰にも見えないはずのヤナが、なぜクリーマには見えたのか、その辺の説明は特にないが、よしとしておこう。七年前からこの<閾>の中に閉じ込められているヤナは、当然二年前にプラハで出会ったクリーマのことを知らない。このあたりのクリーマとヤナのちぐはぐな会話が愉快。
ヤナの現状を理解したクリーマは、分裂したヤナを一つにするには、もう一度ヤナが日本に来るしかない、という結論に至る。そのためには川下についてもっと研究し、その成果をもとに論文の概要を提出して留学の審査に通るしかない。ずっと渋谷にいたので、川下のことを知らないヤナに、彼は常時携帯していた「恋人」と「揺れる想い出」の二篇を渡し、これを読むように言う。こうして、川下に興味を抱いたヤナは、クリーマと友人の兄であるアキラの手を借り、自殺した川下の未発表原稿を処分した川島の妻に会うことになる。
未亡人が川下の遺した原稿類を処分したのには理由がある。川下清丸の本名は上田聡。父は姪の清子と恋仲になり、清子を妊娠させてしまう。世間への外聞を憚った父は伝手を頼って渡仏する。日本文学をかじったことがあれば、これは誰をモデルにしているかは自明だろう。上田聡は、叔母である清子に恋慕し、周囲の反対に耳を貸さず、関係を持つに至る。その結果二人は川に身を投げ、清子は助けられて命を拾うが、聡は水死する。妻の幸子が、夫の残した原稿を他人の目に触れさせたくないという気持ちも分かろうというもの。
さて、肝心のその原稿は果たして、言葉通り処分されていたのか、それとも秘匿されていて、百年の時を超え、遂に日の目を見ることになるのか、興趣は尽きないが、それは本作を読んでもらうしかない。それより、ヤナとクリーマが探り出してくる川下の書き物の中には、日本文壇の動向、新感覚派をめぐる文士たちの交友関係、さらには文士たちが遭遇した関東大震災についての回想録、などと言った珍品がザクザク出てくる。読んでいるうちに、これが1991年にプラハで生まれた作家の書いたものであることを忘れてしまうほどだ。
この作品の真骨頂は新感覚派の流れを汲む、川下清丸の作品の引用部分にある。いわゆるパスティーシュ。漢字仮名混じりの和文で読んでこそ、その味わいが伝わる。一つ気になるのは、原文ではどうなっているのかだ。これほど日本文学に詳しい作家なら、日本語で創作するのは容易だろうが、それではチェコの人にはまず読めない。よくある、作者によるチェコ語への翻訳という手を使ったか。もしそうなら、川下の作品を日本語で読めるのは、この邦訳しかないことになる。こういう例が過去にあっただろうか、寡聞にして知らない。
日本人には、外国人の目からは、日本や日本人はどう見えるのかを気にするところがある。そういう観点からいうと、この小説は大いに好奇心を満足させてくれるにちがいない。表紙カバーの印象からすると、書店では平台でなければ、外国文学(翻訳小説)の棚に並ぶと想像されるが、ちょっと勿体ない。翻訳小説好きはもちろんだが、ふだんは外国文学を敬遠しているような、日本の純文学が好きな読者にこそ手に取ってもらいたい作品だ。