青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『パールストリートのクレイジー女たち』トレヴェニアン 江國香織 訳

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「一九三六年、僕は六歳だった。妹は三歳、母は二十七歳で、僕たちは新しい生活を始めようとしていた」。ところはニューヨーク州オールバニー。ニューヨークといえば聞こえはいいが、パールストリートはアイルランド系の貧民が暮らすスラムだ。家族を捨てて家を出ていったきりの父から、アパートを借りたから引っ越して来いという手紙が来て、はるばるやってはきてみれば、父は留守。聖パトリックデイの飾りつけだけが空しく待っていた。

「僕」の父はペテン師で、家族はいつも置いてけぼりを食ってばかり。今度も期待も虚しく、父は顔を見せることなく母と二人の子どもは見知らぬ土地に取り残される。フランス人とインディアン(オノンダガ族)の血を引く母は、鬱の時と躁の時が交互にくる性格で、今回も激しく落ち込んだ後は、父への怒りをぶつけるように猛然と家中を掃除しはじめる。所持金は五ドルで、帰る家はなし。ここで生きていくしかないのだ。

一家の働き手に見捨てられ、病弱でフルタイムで働けない母を支え、新聞配達で金を稼ぎ、母が寝込んだときは看病し、幼い妹の世話をしなければならない「僕」が、パールストリートで暮らした子ども時代を描く物語。世界恐慌の時代で、一家の暮らしは食うにも困る有り様。おまけに母はかっとなると相手かまわず喧嘩を吹っ掛けるたちで、生活保護の申請に行っても相手とやり合ってしまい、話にならない。

ただ、自分で服を縫い、当時はまだ珍しいパンツルックを着こなす美しい母が「僕」は大好きだった。母は、スラム街で暮らしていても自分たちをそこの住人と同じだとみなしてはいなかった。いつか迎えの船が来る、それまでの辛抱だ、と信じていた。だから、掃除も洗濯もしっかりこなし、休日は街に出かけ、ウィンドウショッピングをし映画を見た。妹のアン=マリーは、第二のシャーリー・テンプルを夢見て、ダンスのレッスンさえ受けていた。

スラム街の話と聞くと、なんだか惨めに聞こえるかもしれないが、それはちがう。たしかに食べるものはピーナッツバターを塗った食パンがせいぜいで、それも手に入らないときはポテトのスープだけ。材料となるじゃがいもは、妹の乳母車を引いて何ブロックも離れた配給所に行って「僕」がもらってくるのだ。傍目から見たら、悲惨な境遇だろう。しかし、これを書いているのは大きくなった「僕」だ。回想を通して見れば、事態はいささか違って見える。失われた時間を振り返る時、人は誰しもフィルターをかけずにはいられないものだ。

「僕」はただの子どもではなかった。スラム街の子が通う地域の小学校では学力がずば抜けていて、年上の子のクラスに編入されるが、そこでも成績は群を抜いていた。IQを調べたところ二百幾つ、というから凄い。分かりきったことを何度も繰り返す授業は退屈で、ついつい空想にふけることが多くなる。教師に贔屓され、いじめの対象にされるが、殴られても相手を離さず、いつまでも食い下がるので、そのうち構われなくなる。当然相手になれるような子はいない。一人でごっこ遊びをするのが習慣になる。

当時のポップスや、ラジオの人気番組、そして、映画の話が文章の間に大量に紹介されている。母が好きな女優がベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードだというから、なるほどと思う。男まさりのしっかりした女性を目指していたのだろう。母はダンスが得意で従妹のローナとペアを組んでコンテストで優勝したこともある。ラジオから流れてくる曲に合わせて歌ったり踊ったり、ドラマを聞いたり、と夕食後の団欒は楽しそうだ。

「僕」をめぐる大人たちについて触れておこう。「僕」の素質にいち早く気がついた優れた教師のミス・コックス。彼女の早すぎる死で「僕」は勉強する気を失う。雑貨屋の主人のケーンさんはユダヤ人で「企業心溢れる社会主義者」。本屋を失敗してこの町に流れてきた。人種的偏見に悩まされながらも、親切で支払いはツケにしてくれる。「僕」は、ケーンさんが短波ラジオ仕入れる国際情報で、ヨーロッパで何が起きているかを知る。ヒトラーが登場して、ポーランドに侵攻し、瞬く間にヨーロッパを席巻していった頃だ。

アパートの最上階にカウボーイが引っ越してくる。ボイラーの故障を修理してくれたのがきっかけで、ベンは家族と仲良くなる。やがて、母との間に交流が生まれ、二人は結婚を考え始める。そんな時、日本が真珠湾を襲い、ベンも戦争に行くことになる。僕のごっこ遊びは、人の来ないレンガ工場の砂山を使った砂漠のアラブ人から、ワシントンパークの丘の上で、一人で何役もこなして日本兵やナチを相手に戦う、戦争ごっこに変わる。

成長するにつれ、母と衝突することも増える。何度か家出も試みたが、残された母と妹のことを思うと家に帰るしかなかった。母が自分のことを頼りにしていることも分かるが、それが自分を縛りつけていることに耐えられなくなる。ベンが自分の代わりに母の力になってくれたら、自分はどこへでも出て行ける。戦地からの便りが途絶えるたびに、ベンの身の安全より自分の将来が心配になる自分のことが「僕」は許せない。果たして、ベンは無事帰還して、母と一緒になれるのだろうか。

大恐慌時代から第二次世界大戦へと移ろいゆくアメリカの世相。そんな中、IQ二百以上の多感な少年の目を通して語られる、貧しさにめげず、たくましく生きる一家の暮らし。性に目覚め、神とのつきあい方に悩み、奇妙な隣人たちを通して人間を知ってゆく「僕」と当時のアメリカの姿が、事細かに生彩溢れた文章で綴られる。こんなに面白い小説を読んだのは久しぶりだ。結びで、二十四年後の「僕」は、父レイとの再会を果たす。蛇足のように挿まれた逸話が放つ最強のイロニーを含め、トレヴェニアンの小説術は素晴らしいの一語に尽きる。訳は江國香織。文章に独特のリズムがあり、読んでいて愉しい。小説好きにお薦め。