青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ユドルフォ城の怪奇』上・下 アン・ラドクリフ 三馬志伸 訳

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《上・下巻合わせての評です》

待つこと久しというが、これほど長く待たされると、待っていたことさえ忘れてしまう。本棚から手持ちの本を取り出して奥付を調べてみた。平井呈一訳の思潮社版『おとらんと城綺譚』が出たのが一九七二年、矢野目源一訳の牧神社版『ヴァテック』が七四年、国書刊行会版世界幻想文学大系『マンク』上巻が八一年だから、ゴシック・ロマンスを語る上で欠くことのできない『ユードルフォの怪』は、ほぼ半世紀遅れの本邦初訳である。

しかし他のゴシック小説が次々と訳出されたのに、どうしてこの作品だけがこうまで遅れたのだろうか。上下巻ともに五百ページを超える長さもあるが、作者のアン・ラドクリフに、ストロベリー・ヒル・ハウスを建てたウォルポールや、フォントヒル・アビーを建てたベックフォードのような人目を引く逸話がなく、話題性に乏しかったせいかもしれない。真相はともかく、ようやく日本語で読めるようになったのは何よりだ。

時は一五八四年、舞台はフランス。貴族の分家の末裔であったサントベールは煩わしいパリを離れ、ガスコーニュの別荘で妻と娘エミリーとの暮らしを愉しんでいた。ところが、熱病が夫妻を襲い、妻に先立たれたサントベールも転地療養の旅の途上、息を引き取る。この小説は、孤児となったエミリーが、叔母のもとに身を寄せたことを契機に、次から次へと降りかかる苦難と恐怖に見舞われるさまを描く、今風にいうならサスペンス・スリラーである。

ゴシック小説といえば「陰惨な城や僧院を舞台に、殺戮と凌辱と魔薬が横行し、死骸と幽霊が出没する恐怖と暗黒の世界(私市保彦著『幻想物語の文法』)」が定番だが、本作もまた、その紋切り型を踏襲する。主な舞台となるのは、イタリアのアペニン山中に立つユドルフォ城とフランス南部ラングドックにあるルブラン城。長く捨て置かれ、荒れ寂れた二つの城には、一方は女主(あるじ)の失踪、他方には奥方の変死、という事件があり、様々な噂が飛び交い、果ては幽霊を見たという者が続出する。

エミリーが、ユドルフォ城に行く破目になったのは、父が娘の後見人を叔母のマダム・シェロンと決めたせいだ。この叔母は道心堅固な父と違って俗物で、姪を自分の社交界での地歩を固めるための道具くらいにしか考えていない。勝手に結婚話を進めておきながら、モントーニが資産目当てで結婚を迫ると即座に承諾し、嫌がる姪を引き連れて夫の故郷のイタリアに旅立つ始末。遠縁の女主の謎の失踪により、モントーニの手に渡ったのが、峻険な山中に聳え立つゴシック様式のユドルフォ城である。

当時、英国ではピクチャレスクという美的概念が流行していた。いうなれば、風景美の理想であり、由良君美によれば「とにかく自然の風景美を描くのだが、その自然のなかに、ある峨峨たるもの、不均衡なもの、とりわけ岩や廃墟を不可欠の点景とすることによって美観を高めたもの(略)こう薄茜(うすあかね)の夕空のなかに遥かな寺院や廃墟が消え消えに取り囲まれていますね(『椿説泰西浪漫派文学談義』)」といった風景を指している。

ラドクリフは、ピクチャレスクの美に強い影響を受け、この小説を書いたにちがいない。というのも、父とともにピレネーを越えてラングドック地方に行く途中、あるいは叔母とともにユドルフォ城への山道を辿る途上で、エミリーはイタリア人画家、サルヴァトール・ローザが描く絵そのままの景観を目にすることになるからだ。まあ、全篇がピクチャレスクな風景を描くためにエミリーに旅をさせているようなもので、その合間に善人と悪人の互いの思惑をかけた相剋が書かれているといっていい。

今のミステリを読み慣れている読者には、長々と続く情景描写がくどく感じられるかもしれない。しかし、それだけの長さを担保することで、主人公だけでなく、彼女をいたぶる叔母やモント―ニのような敵役をただの薄っぺらな悪人ではなく、立体的な陰翳を持った人間として描くことに成功している。どちらかといえば、上から目線が気になるサントベールや思慮の足りない恋人のヴァランクールより、欲に目がくらんで破滅する、人間らしい敵役の方が魅力的に思えるほどだ。

ゴシック小説の代表作だが、幽霊譚の恐怖を期待すると裏切られる。エミリーは知性と教養を身に着け、詩や絵も得意で、リュートも弾けば歌も歌う。父の薫陶を受け、どんな状態にあっても自分を見失うことがない。感受性が強過ぎて、時には影に怯えることもあるが、すぐにもとの自分に立ち返る。お付きのアネットのように簡単に幽霊を信じたりしない。不可思議な現象が起きれば、自分の目や耳で確かめようとする。

ただし、謎は早くから提示されるが、その秘密は時が至るまで明らかにされない。謎は複雑に絡み合った宿命的な奇縁の中にあり、年若いエミリーの手には負えないからだ。最後の最後になり、それまで周到に配置されていた伏線が回収されて初めて、なるほどそうであったかとうならされる。二つの城の怪異、父が隠し持っていた母ではない女性を描いた細密画の秘密等々が明らかにされると、それまでもやもやしていた視界が一気に晴れる。

途中で放り出さずに最後まで読めば『ユドルフォ城の怪奇』が極上の謎解きミステリだと分かるはず。ただ、これほどの作品が、なぜ今まで訳出されなかったのかという謎は残る。もしかしたら、私市保彦のいう「特に、最後に奇怪な事件の合理的な種明かしがかならずなされるアン・ラドクリッフの技法は。まさに探偵小説の祖といってよい」という評にあるように「合理的な種明かし」が、当時の幻想怪奇文学ブームにそぐわなかったのではないだろうか。海外ミステリの人気が高い今だからこそ日の目を見たのかもしれない。