青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ホーム・ラン』スティーヴン・ミルハウザー

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二〇一五年に刊行されたスティーヴン・ミルハウザーの短篇集<Voices in the Night>。何でも大きくて長いのが好きなアメリカでは短篇集でさえ厚い。日本でそれを訳すとなると、二分冊にするしか手はない。『ホーム・ラン』はその二冊の一冊目。残りは同じ訳者により二〇一一年『夜の声』(仮題)として刊行予定。作品の選択とその配列は訳者に課せられ、作者によって了承を得ている。

短篇小説八篇と短いエッセイが一篇収録されている。訳者は「短篇小説の野心」と題されたエッセイから読むことを強く推している。ミルハウザーの短篇についての考えを知るという意味でも、これから読むのもお勧めだ。でも、ミルハウザーならよく知っているというファンなら、冒頭の「ミラクル・ポリッシュ」から読むのもありだ。訳者には悪いが、やはりミルハウザーらしさが横溢している、この一篇から読み始めるのがいいかもしれない。

見知らぬ男から買った「ミラクル・ポリッシュ」という名の鏡の研磨剤。ふと思い出だして使ってみると、あら不思議。ふだんは人生に疲れ切った自分の顔が、顔かたちは同じなのに、どこかみずみずしく生き生きとして見えるではないか。ふだんは鏡など見ない自分が、ついつい鏡をのぞくようになる。その度に、なんだか自信に満ちた自分、いいことのありそうな自分が目に入り、元気づけられる。気をよくした「私」は部屋という部屋の鏡を研磨剤で磨き、遂にはホーム・センターに出向いて新しい姿見まで買う始末。

恋人のモニカも鏡の中では輝きを増している。いつ家を訪れても、ついつい自分ではなく鏡に映った「彼女」の方に目をやる男に、モニカは「あたしか彼女かよ」と最後通牒を突きつける。訳者のいう、この作家の短篇に多く共通するテーマ「ここではないどこかへの希求、その恍惚と挫折」がよく現れた一篇。人生を諦めかけていた男にかけられた魔法は、現実よりほんの少し見映えのする鏡の中の世界を生きることだった。しかし、彼女はそれを許さない。選択を迫られた男のとった行動は?

アルカディア」というのは、ギリシア由来の理想郷をさす言葉。ここでは森の中に建てられた「特別なニーズに応じるために作られた、のどかな森の隠遁所(リトリート)」のことだ。入居者向けに用意されたパンフレットには、お客様の声、スタッフの自己紹介、施設内の設備、湖や洞窟、沼、塔といった散策用のロケーションなどが、ランダムに配されている。いかにも高級リゾート施設への入所を誘いかける文面ながら、どこか違和感が残る。

たとえば「塔」の文章中にある「てっぺんでは展望台が塔の外側にぐるりとついており、腰の高さの手すりは著しく傷んでいます」という箇所や「沼」の「水は概して浅いのですが、水の下に隠れた、腐食した植物からなる沼地は足で踏むとその圧力で突然崩れる場合があります(略)とりわけ物騒な場所を示したパンフレットをご用意しています」という部分。わざと危険な場所に誘導しているようにも読めはしまいか。

<Et In Arcadia Ego>「われアルカディアにも在り」というラテン語の名言がある。ところで「われ」とは誰のことなのだろう? 実はこう言っているのは「死神」だ。アルカディアのような理想郷にさえ「死」は存在することを示唆している。この小説の「アルカディア」は、疲れて休息を求めている人、悲嘆に暮れて活路が見出せずにいる人、行き止まりに来てしまった人たちに、(死に至る)道を示すためによういされた施設だったのだ。

他に、久しぶりに母親の家を訪ねた息子と母の再会を描いた怪異譚「息子たちと母たち」。十三人の妻と同居する男が、それぞれの妻の特徴を淡々と語る「十三人の妻」。突然、自殺熱のようなものに襲われた町の住人が語る「私たちの町で生じた最近の混乱に関する報告」。お得意のアメリカのスモールタウンの夏の魅力を「ここではないどこかへの希求、その恍惚と挫折」というテーマで描き切る「Elsewhere」。

釈迦族の王子として、一切の危険と醜いものを遠ざけた城の中に暮らすガウタマが「生老病死」の四苦を知るに至るまでの若き日々を描いた「若きガウタマの快楽と苦悩」は、精緻な造りものを鏤めた在りし日のミルハウザーの世界を彷彿させる逸品。こういうのがもっと読みたいと思わせてくれる。しかし、誰でも年をとる。ミルハウザーとてそれは免れない。少年の日の熱に浮かされたような世界から、病や老いを扱う黄昏の世界への移行は紛れもない。

短篇小説の掉尾を飾る「ホーム・ラン」はマーク・トウェインが書きそうな途方もないほら話。これを最後に持ってきたのは訳者の自画自賛か。リズムに乗った、ハジケっぷりが半端ない。原文とはかなり変えているのだろうが、ノリノリの文章だ。古館一郎の朗読で聞いてみたいものだ。長篇小説重視のアメリカ文学の世界にあって、短編小説家の肩身の狭さを厭うかのような出だしから、一気に形勢を逆転し、短篇小説の持つ力の万能感を謳いあげるエッセイ「短篇小説の野心」は、やはり最後に読むのが相応しい。ミルハウザーの意気軒高ぶりがうかがわれ、こころ強い。

『フライデーあるいは太平洋の冥界 トゥルニエ/黄金探索者 ル・クレジオ』

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危機的状況に見舞われているというのに、マスコミは知らぬ顔を決め込んで、退屈な日常の風景を飽きもせず垂れ流している。大衆は大衆で、よせばいいのに狭い日本の中を右往左往、旅に出ては感染者を増やしている。他でもない、鳥や魚が人を恐れることなく近寄ってくる珊瑚礁の楽園をネズミだらけにしたのは人間だ。

大帆船を造り、遠洋を航海するようになった人間は、水や食料を求めて航路に点在する珊瑚礁の島々に上陸した。その機会をとらえ、船倉に巣食っていたネズミが上陸し、天敵の猫のいない島で大量に繁殖したのだ。たとえ本人にその気はなかったにしても、人の移動は、それまで無垢であった場所に、災禍を持ち込まずにはおかない。

そんな話をこの本で知った。『フライデーあるいは太平洋の冥界 トゥルニエ/黄金探索者 ル・クレジオ』だ。何かと息苦しい世の中だ。自分のまわりにいる人々から逃れ、南の果ての島にでも行ってみたい。そんなことを考えている人にはうってつけの一冊。トゥルニエの『フライデー』(長いので以下略)は題名からも分かるように、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をリライトしたもので、表題になっているのがクルーソーでなく、フライデーになっているところがミソ。

もともと、アレキサンダー・セルカークという航海長が航海の途中、船長と諍いを起こし、チリ沖合いに浮かぶ、サン・フェルナンデス諸島の孤島に置き去りにされる。救出後、新聞がそれを記事にした。デフォーが、それをヒントに本当は長いタイトルを持つ『ロビンソン・クルーソー』という小説を書く。続編も書かれた。家族での漂流を描いた『スイスの家族ロビンソン』という児童文学もある。誰もが二次創作をしたくなる題材なのだ。

初めロビンソンは、無人島で生きることに混乱し、退行現象を起こして泥の中に浸ってみたりもする。しかし、思い直し日課を作る。早朝の礼拝に始まり、農耕、牧畜という日々の糧を得るための労働、そして日曜日は休息、というプロテスタント的な規律を島の生活に持ち込む。難破船から火薬やマスケット銃を運び、洞窟の奥にしまい、外敵に備えて守りも固める。いわば、西欧的な社会を孤島に持ち込んだのだ。

インディオの仲間に殺されようとしたところを救ったフライデーを、ロビンソンは当然のように奴隷として扱う。初めは従順だったフライデーだが、言葉も覚え、共に長く暮らすうち、しだいに本性が現れる。フライデーのトリックスター的な側面が明らかになることによって、ロビンソンの行動の持つ意味が悉くひっくり返され、価値の転倒が起きる。主人の大事な衣装をサボテンに着せたり、内緒でパイプ煙草を吸っているところを見つかるのを恐れ、洞窟の奥に捨て、火薬を爆発させて溜め込んだ食料も吹っ飛ばしてしまったりするフライデーの活躍が痛快だ。

結果的にそれが転機となり、ロビンソンは自分を縛りつけていた文明社会の軛から自由になる。一種の哲学小説であり、時間や世界、自己同一性、ひいては人間そのものについての思索を深めるのに役立つ本でもあるが、読んでいて愉しい。全部読み終わってから冒頭部分を読み返すと、これから起きることのすべてが、あらかじめ船長のタロット占いに出ていたことが分かる。心憎い仕掛けだ。

ル・クレジオの『黄金探索者』はマダガスカル島の東に浮かぶモーリシャス島とロドリゲス島を主な舞台とする、海賊が隠した宝をめぐる探索の物語。モーリシャスのプーカンに邸宅を構えるアレクシの一家は仲の好い家族だった。主人公のアレクシと姉のロールはマムの手で教育され、二人はマムの話を聞いて育つ。しかし、父が事業に失敗し、家はサイクロンで壊され、地所は借金のかたとして伯父の手に渡る。

父の死後、寄宿学校をやめ、伯父の会社で事務仕事をするようになったアレクシだが、父が話してくれたロドリゲス島にあるという海賊の財宝のことが頭からはなれてくれない。アレクシは、ロールに別れを告げ、港に停泊中のブラドメール船長のスクーナー、ゼータ号に客として乗り込む。この帆船での初めての航海が前半の白眉。まだ少年の面影を宿す若者の海への憧憬が抒情的な筆致で船旅の持つ愉楽をたっぷりと味わわせてくれる。

船員として働かないかという船長の誘いを断り、アレクシは一人ロドリゲス島に上陸し、残された手がかりをもとに海賊の財宝を探す。アレクシはここで山の民と呼ばれる脱走奴隷の美しい娘ウーマと出会う。初々しい二人は次第に心を通わせ、愛し合うが、戦争の影が忍び寄ってきていた。志願兵としてアレクシは第一次世界大戦に参加し、各地を転戦。辛くも死を免れ、モーリシャス島に帰郷する。

伯父の会社に復職し、しばらくはロールとの再会を喜んだアレクシだが、港にゼータ号の姿を見つけると、またしても海に出る。ロドリゲス島に戻ったアレクシは、遂にすべての手がかりを明らかにするが、財宝はなかった。そこに見出したのは夜空に浮かぶ星と地上の石に刻まれた目印との照応だった。イギリス湾の岩の上に星座の位置を示す徴を掘る孤独な営為こそが海賊の望みだったことをアレクシは悟る。

誰もいない海岸で地図を頼りに岩の上に徴を探しては探査坑を掘る。唯一の喜びは脱走奴隷の娘との忍びあい。絵に描いたように甘美な南の島のロマンスだが、ほとんど恋人同士のような姉との心の通い合いが、脱走奴隷の女とどこかの島で隠れて暮らすという夢のような生活を選ぶことを邪魔する。宝はなかったが、もうそれに縛られることもなくなった。きっとまた船に乗り、海に戻るのだろう、と予感させるところで終わっている。

いつまでも雨の降り続く、まるで雨季にでも入ってしまったかのような今どきの日本。いっそのこと、その湿気にまみれ、南の海の暮らしを描いた小説に浸りきるのも悪くない。

『影を呑んだ少女』フランシス・ハーディング

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舞台は十七世紀の英国。いわゆる清教徒革命の時代。主人公の名はメイクピース。変わった名だが、ピューリタンが多く暮らす界隈に住むにあたり、母が改名したのだ。メイクピースは眠りにつくと自分の頭の中に幽霊が入りこもうとしてくる恐ろしい夢を見る。叫び声をあげると母に叱られる。母はそれと闘えと命じるばかりで、尋ねても父のことは教えてもらえない。しかも二人は周囲の人々とは明らかになじんでいない。

母のつくったレースを売りにロンドンに出た日、騒ぎに巻き込まれ、母とはぐれたメイクピースは幽霊の噂を聞きつけ、一軒のパブに入り、そこで激しい怒りに襲われる。当時の英国には「熊いじめ」という娯楽があった。虐待にあって死んだ熊が死にきれず、霊が飼い主を恨んで暴れ回っていたのだ。その熊の霊がメイクピースに乗り移り、彼女は暴れ回り、気が狂ったものとして家に担ぎ込まれた。

『嘘の木』『カッコーの歌』のフランシス・ハーディングの新作ファンタジーである。乗りに乗っている感がある。騒動で母と死に分かれたメイクピースは、亡くなった父の屋敷に呼び戻され、名門貴族の厨房の下働きとして暮らし始める。どうやら、母は、ここで働いていたころ、貴族の嫡子に見初められ、メイクピースを身籠ったらしい。この館には同じように貴族が遊び心で手をつけた女の子どもたちが集められている。

それというのも、フェルモット家の血を引く者には不思議な力が授けられているからだ。いや、力と言っていいのかどうか? それはむしろ呪いの一種だろう。この名門貴族の血を引く者は、幽霊と交流できる力が異常に強い。死者の霊はそのままにしておくと弱まり、最後には消滅してしまう。しかし、死者の口から出た霊は、傍に入れ物としてのからださえあれば、新しい住まいを見つけて別の口に入り、そこで生き続けることができる。

ふつうは、それに相応しい教育やしつけを受け、準備の整った嫡子が、古くからそうして生き延びてきた霊を受け継ぐことになる。そのための儀式も呪文も代々伝えられている。ところが、当時、英国は王党派と議会派が激しく争っていた。戦争ともなれば、貴族は王を守って戦わなければならない。頭首が急に倒れたとき、傍に後継ぎが控えていれば問題ないが、いつもそういう訳にはいかない。

そこで、先祖の霊を入れておくための予備のからだが必要になる。庶子たちが集められているのは、正統な跡継ぎのからだに入れるまでの当座の宿所をつとめるためだ。しかし、問題がある。霊は一人分とは限らない。今のフェルモット卿のからだには八人の上座の人々が入っている。宿主の霊が強ければ、自分の霊と共存させられるが、それに耐えられなければ自分の霊は先祖の霊によって圧し潰されてしまい、もとの自分失ってしまうのだ。

屋敷にいた腹違いの兄のジェイムズと仲良くなったメイクピースは、この家の秘密を教えてもらい、ここから抜け出そうと試みる。しかしその度に二人は連れ戻されてしまう。そうこうするうち、戦争は激しさを増し、一家の住む一帯まで敵が迫る。戦のどさくさに紛れて脱走を企てる二人だったが、兄は兵士となって戦場に行き、残されたメイクピースにはとんでもない災いが降りかかる。

危惧した通り、戦争で一族のめぼしい貴族が敵に討たれ、霊を移すためのからだが急遽必要になり、館にいたメイクピースに白羽の矢が立つ。捕らえられ、無理やり口を開けさせられたメイクピースの中に潜入者の霊が入り込んでくる。多くの霊を移すため、様子を見るためのスパイ役だ。自分の頭の中に異者が侵入する恐怖がこれでもか、というくらい気味わるく描かれる。いやあ、これは怖い。

戦闘のさなか、近くにいた死者から出た霊に兄のジェイムズもからだを奪われる。再び相まみえた兄はすっかり様変わりしていた。新聞で脳の手術で幽霊を追い出した医者のいることを知ったメイクピースは、その医者を探して敵の真っただ中に分け入る。道中一緒になった女スパイや、医者、ピューリタンの逃亡兵、などといった連中と喧嘩したり、協力したりしながら、王党派と議会派とが睨み合う戦闘地帯を、兄を助ける手立て探し回る。

嘘を書かせると、ハーディングはうまい。ファンタジーということにすれば難しい理屈はいらない。次から次へと新手を繰り出してはハラハラドキドキさせ、読者を飽きさせない。なかでも、自分の頭の中に複数の人物を同居させるアイデアが秀逸だ。メイクピースの中に入ってくるのは先祖の霊と限らない。もともと熊が入居済みだ。多重人格とは異なり、入れ替わることなく異なる人格が同居するのだ。仲よくできる相手ならいいが、ウマの合わない相手もいる。そのやりとりが実に愉快。

人類はそもそも遺伝子を乗せる乗り物だ、という説を唱えたのはドーキンスだったが、からだは優れた力を引き継ぐ入れ物だ、という発想はそれに近いのかもしれない。その血を引く者には有無を言わせず、先祖代々の経験や技術を継承させるという点では伝統芸能である、能、狂言、歌舞伎の一門を思い出す。おそらく、見る人が見れば、ひとりの演者の中に、それまでの名人上手の舞い踊る姿が見えるのではないだろうか。

手塚治虫の『鉄腕アトム』のエピソードの一つに「群体」を扱ったものがあった。単独のヒーローとしてではなく、アトムが群体のひとつとなって闘う姿を描いたものだ。多くの者が、固有の生を残しながら一つになるシステムというアイデアは、小学生にも新鮮だったことを覚えている。メイクピース一人ではどうにもならない難局を、敵対する相手とも手を組み、次々と切り抜けていく姿には、単独者にはない新たな可能性を感じる。こんな時代だからこそ、相手の中に敵を見るのではなく、共闘できる存在を見つけたいのかもしれない。

『アコーディオン弾きの息子』ベルナルド・アチャガ

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<mother tongue>という言葉がある。「母語」という意味だが、「母国語」という訳語もある。真ん中の「国」だが、ほんとうに必要だろうか。半世紀も前のことになるが、高校の修学旅行で南九州を旅したことがある。市の方針で行き先が隔年で北九州と南九州に割りふられていた。仲間の間では「長崎」の入る北九州の方が人気だった。当時、宮崎は新婚旅行のメッカだったが、高校生にはサボテン公園など興味がわくはずもない。

たしか鹿児島だったと思う。トイレ休憩でバスが止まったので、老婆が果物を売りに来た。窓越しに話しかけられたのだが、声は聞こえるのに何を言っているのか全く理解できない。あれには驚かされた。同じ日本であっても、日本最南端の地まで来ると言葉はまるで通じないのだ。あの言葉が老婆の「母語」なのだ。そこには「想像の共同体」である「国(ネイション・ステーツ)」の入る余地がない。

教科書やテレビで「標準語」や「日本人」が「刷り込み」ずみで、何の疑いもなく自分は日本人で日本語を話していると思っていたが、何のことはない、百年前なら老婆と私は国もちがえば言葉もちがう異郷の人だった。日本版「南北戦争(Civil War)」の結果、南が勝つことでベネディクト・アンダーソンいうところの「想像の共同体」である「日本」という国家が誕生する。正確には「日本」ではなく「大日本帝国」だったが。

イソップ物語にある牛を羨む蛙のように、腹ならぬ領土を拡張させていったあげく戦争に敗れて「大」と「帝国」がとれ、ただの「日本」になる。それが不満で戦前の日本こそが真正の日本だと思いたがる人々がいて、ちょっとまともなことを言うと「反日」扱いを受けるこの頃だが、彼らのいう「反日」とは「反日帝国主義」をつづめたものだと定義付けたらどうだろう。ずいぶんすっきりするのではないか。

閑話休題。属する国家の言語と人々の使用する母語に齟齬のある民族がある。ピレネー山麓の仏西国境を跨ぐ位置にあるバスク地方の人々がそれだ。作者のベルナルド・アチャガはスペイン領南バスクのギプスコア生まれというから、まさにバスク人である。小説では山の中にある桃源郷のように描かれるその地方はオババという架空の名に変えられている。そのオババ生まれの語り手が語る少年たちの交流と、成長する過程で知ることになる土地が抱える過去の悲劇が物語の中心である。

一九九九年九月、カリフォルニア州スリーリバーズから小説は始まる。ストーナム牧場を経営するダビが死に、幼なじみで一番の親友であるヨシェバが、過去を回想する。ダビはオババで生まれ、伯父の経営する牧場で働くために渡米し、メアリー・アンと知り合って結婚し、二人の娘を持つ。ダビは小説を書いており、それは完成していたが、少数言語であるバスク語で書かれていたため、大学で翻訳を教える妻にも読めなかった。

メアリー・アンはオババの図書館に寄贈するため、限定三部の一冊をヨシェバに託す。作家であるヨシェバはロンドンに帰る機上でそれを読み、メアリー・アンに感想を伝えるとともに、単に翻訳するだけではなく、語られていない部分を自分が書き足し、一冊の小説として完成させたい意思を伝える。メアリー・アンの同意を得て書かれたのが、この『アコーディオン弾きの息子』という小説である。表題はダビの小説の原題をそのまま冠している。

ダビ自身の手になる過去の回想は男友だちや女の子との出会いと別れを描いた抒情的なものだが、ダビが愛してやまない伯父の牧場があるイルアインという山間の村には、父の時代、土地に住む九人の村人が銃殺されるという過去があった。フランコバスク地方の独立を恐れ、バスク語を禁止したため、反対運動が起き、それは後にテロも辞さない「バスク祖国と自由」(ETA)という過激な運動に引き継がれることになる。

ダビの父、アンヘルは親フランコ派であり、母の兄で牧場を経営する伯父ファンはそれを憎んでいた。ダビはイルアインでの農村の生活を愛していたが、父はアコーディオン弾きを継がせたがった。ダンス・パーティー会場のホテルが、その昔アメリカ帰りのドン・ペドロからアンヘルの仲間のベルリーノが奪いとった曰くつきのものだった。殺されかけたドン・ペドロを匿ってフランスに逃がしたのが若い牧童のファンだったのだ。

素朴な農民の生活と稀少なバスク語を愛するダビは、運動に熱心ではなかったが、彼の暮らす伯父の小屋は自由主義共産主義に熱を上げる若者たちの隠れ家にぴったりだった。ダビが知らぬ間に、彼の夢のアルカディアは、フランコ独裁政権をめぐる戦いの戦場に姿を変えていたのだ。後にそれを知ることになるダビの苦い思いが、その間の経緯を小説の中から省いていた。ヨシェバがその後を書き継ぐことで、皮肉なことに小説は厚みを持つことになる。

反面、書き手がちがうという建前なので無理もないのだが、ダビの筆になる牧歌的な村で暮らす若者の青春群像と、ヨシェバによる地下に潜って活動する部分との間に若干しっくり噛み合っていない感じが残る。作者が同い年なので、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの歌が出て来たり、マックィーンが『パピヨン』撮影のためアリ・マッグローと町を歩いていたり、黒いビキニ姿のラクエル・ウェルチが話の中に登場したりするのが懐かしかった。惜しむらくは、表記が「ラケルウェルチ」。若い訳者はご存じないようだが、そのポスターが映画『ショーシャンクの空に』で使われるほどの人気女優だったのですぞ。

『結ばれたロープ』フリゾン=ロッシュ

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登山の経験もなく、山の近くに住んでもいないのに、何故だか山の生活を書いた小説を見つけると読まずにいられない。自分には出来ないことをする人々への憧憬があるのだと思う。最近読んだものの中ではローベルト・ゼーターラーの『ある一生』やパオロ・コニェッティの『帰れない山』などが気に入っている。

1941年というから、ずいぶん昔に書かれている。実際にあった出来事をもとに書かれた小説で、舞台となっているのは1925年から1926年ごろのシャモニーとその周辺の山々だ。主人公のピエールは山好きの若者で、父も伯父もシャモニーでは知られた山岳ガイド。その中でも「でかいやつ」と称される難ルートに挑むクライマーのガイドを務めることができる指折りのガイドだった。

その年の登山シーズンもそろそろ終わりかけたころ、ピエールは「赤毛」と呼ばれる伯父の助手をつとめ、モンブランに登頂するパーティーをガイドし、ジェアンのコルの小屋に降りた。そこで、父のジャンがドリュ峰で雷に打たれて死んだことを知らされる。疲れた体を休める暇もなく、二人は急いで救援に向かう。

山の天候について誰よりもよく知るジャンがなぜ、落雷に遭ったのか。ジャンはクラリスのジョルジュを助手にして、アメリカ人登山客のガイドをしていた。天候の急変を告げる雲行きに危険を察知して下山を勧めるが、頂上を目の前にした登山客は、そのために金を払っている、と首を縦に振ろうとしない。やむなく急いで頂上を攻めたその帰り、二人を先に下ろしていて雷に打たれてしまう。

この小説のハイライトとなるのは、三つの山行を描いたパートである。そのひとつが、ジャンの替わりにガイドを務め、無事に客を麓の町まで連れ帰るジョルジュの孤独な闘いを描く部分。客はジャンの死にショックを受け、気がおかしくなっている。呆けた状態の客と二人で帰りの難所を切り抜けなければならず、ジョルジュは苦闘し続け、凍傷に見舞われながらも、遂に下山に成功し客を連れ帰る。

ヘリコプターのない時代、誰かが遭難すれば、救援に向かうのは仲間のガイドたちだった。熟練のガイドはそれぞれ客に従って出払っている。山頂近くの岩場に残されたジャンの遺体を運び下ろすために、ガイド組合長は、その場に居合わせたベテランガイドにまだ若いガイド助手を組ませ、救援に向かわせる。途中で合流したピエールと赤毛を加えた一行は、ドリュ峰に向かうが、雪に阻まれる。

冬の間、父を山の上に置き去りにすることを受け入れられないピエールは無理な登山を行い、墜落してしまう。幸い危険を予測した友人のブールがロープで確保してくれていたので、クレバスの中に墜ちることは免れ、三十メートル下の雪の積もった岩に衝突した後、ロープで宙づりになり意識を失う。仲間に助けられ、何とか下山したピエールは頭蓋骨骨折で手術を受けることに。

この骨折によって、ピエールには後遺症としてめまいが残る。山行の途中で手を離す危険もあるという医者の説明を聞いてガイドを夢見ていたピエールはショックを受ける。自らを試そうと山に入るが、医者の言う通りめまいが起き、以前のように果敢に山に挑むことができなくなったことを知る。夢破れた若者は、誰とも会おうとせず、酒に溺れるようになる。

そのピエールを助けようと、山の仲間が一つの策を企てる。高地牧場で行われる牛の女王を決める催しにかこつけて、山行を拒否するピエールを無理矢理連れ出し、自信を取り戻させようというのだ。仲間が一緒ならできるから、と。『結ばれたロープ』という表題は、この仲間たちの友情を表しているのだろう。ピエールはめまいに悩まされながらも、なんとか頂を極めることに成功する。

極めつけは、凍傷で両の足の指を失ったジョルジュが意志の力でハンデを克服しようと山行にピエールを誘い、二人でヴェルト峰に登る部分だろう。体に障害を持つジョルジュと心に傷を負ったピエールが、二人っきりで難所に挑むのだ。あえて、ブールやフェルナンには告げない。彼らがいればどうしても頼ってしまうからだ。山行では仲間の存在は大切なものだ。ピエールが一時的にではあるが、感覚を取り戻せたのも友の危機を助ける咄嗟の行動だった。

一方で、最後には自分自身との闘いに勝つことが山では何より大事なのだ。ジャンが遭難したのも、自分の判断の正しさより、シャモニーのガイドの名誉というちっぽけなプライドを上位に置いたからだ。ピエールの墜落も父を思うが故の焦りが原因だ。どんなに腕があっても、自分自身との闘いに勝つ意志力がなければ、登頂に成功することはできない。そして、登ったからには降りなくてはならない。初めからその余力を見込むだけの力量がいるのだ。

厳しい雪や氷との闘いがメインだが、所どころに挿まれる、山間の自然描写の美しさ、フォンデュを作る段取りの詳しい描写、シャモニーの人々の独特な風習や土地柄など、読むべきところの多い小説である。おそらくモデルにした人物がいるのだろう。実力はあるくせに自分を抑え、人の支えになる方を選ぶブールという人物の造形など、つくり物でない彫りの深さを感じさせる。何度でも読みたくなる小説である。当時のシャモニー近辺を撮影した多くの写真が文章に花を添えてくれている。

『夜の果てへの旅』L=F・セリーヌ

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それでは、これがあの悪名高いセリーヌの代表作なのか。読み終えて意外な気がした。おそるおそる手に取ったせいかもしれないが、若い頃の作品ということもあり、まだ反ユダヤ主義は顔をのぞかせてもいない。それどころか、主人公はこんなことまで言っている。

民族だと? おまえが民族なんて言ってるものはな、そんなもんはな、目脂(めやに)をためて蚤にたかられて震えてるおれたちみたいな乞食の寄せ集めさ、飢えとペストとおできと寒さに追われて世界中から叩き出されてここへ吹き溜まってきただけじゃねえか。海のせいでこっから先へは行かれなかっただけの話だよ。それがフランスさ。それがフランス人てやつさ

見事なまでの啖呵の切り方じゃないか。それに、やたらと言葉を重ねる癖、下劣で卑猥、汚濁に満ちた罵倒の文句が最初のページから矢継ぎ早に畳みかけてくるところなど、読者の煽り方がうまい。訳文にもよるのだろうが、テンポのいいリズムで最初からぐいぐい迫ってくる。文体のノリの良さは他に類を見ない。こういうタイプの作家だとは知らなかった。

「始まりはこうだった。おれはなんにも言ったわけじゃない。ひとことも」で始まり、「でもう話すことはない」で終わるのが皮肉に感じられるほど饒舌な文体による、これは一種のビルドゥングスロマンなのかもしれない。なにしろ主人公は小説が始まったときはまだ二十歳なのだ。もっとも、無軌道な若者の異国を舞台にした冒険譚を中心とした前半と帰国して医者として働く後半では、文体も主人公の自己や他者に対する見方も変化する。

主人公で語り手でもあるバルダミュは医学生。友だちとカフェで愛国心について議論している真っ最中に連隊が目の前を行進する。勢いに乗った若者は行進について行き、そのまま入隊してしまう。当時は第一次世界大戦のさなかでフランスはドイツと戦っていた。二か月の訓練を終えると「おれ」は大佐付きの伝令となっていた。初めての戦場でドイツ軍に撃ちまくられた「おれ」は戦争の本質を突然理解する。正気の沙汰じゃない、と。

戦争というもののばかばかしさ、その没義道ぶりをこうまであからさまに真正面から描いて見せた小説もめずらしい。「おれ」は、臆病であることを隠しもしないし、恥じてもいない。「監獄からなら生きて出られる。戦争じゃあそうは行かない」。まさしくその通り。いわば人殺しを商売にしている軍人とちがって志願兵はただの素人だ。その素人の目から見た戦争の素顔が、饒舌体で延々と語られる。「おれ」は言う。「もう二度と人間の言うことは信じないぞ、人間の考えることは。怖いのは人間で、しかも人間だけだ。いつだって」。

その後、発作に襲われた「おれ」は、突然わめき出し、病院に入れられる。長期療養の後、心の病を理由に除隊となる。いわば札付きになったわけで、医学への道を断たれ、アフリカ行きを決める。船旅の間も他の乗船客との間にとけ込めず孤立し、自分は皆に憎まれていると思い込み、船室から一歩も出られない。人嫌い、というより人が怖いのだ。アフリカではある商会の奥地にある交易所で現地人との物々交換が仕事だ。周りに白人は一人もいない。こうして旅が始まる。

食料は毎日罐詰、飲み水は泥水、雨仕舞の悪い小屋には白蟻やら鼠、蛇が入ってくる。惨憺たる日々の慰めは。昧爽の壮大な空の眺めだ。しかし、熱病にかかり、現地人の手でスペイン領に運ばれる。夢うつつの状態で船に乗せられ、着いた先がアメリカだ。しかし、街が縦に並ぶ大都会は「おれ」には合わない。モリ―という恋人までできたのに、フランスに逆戻り。双六でいえば振り出しに戻ったところで「青春流離編」ともいうべき前半終了。

大学に戻って医師免許を手に入れた「おれ」は、貧しい人々が暮らすパリ郊外の町で医者を始める。たかだか数フランの診察料が払えない貧乏人相手に、若い頃とちがって親身につきあう。ただし、金を払わずにすむ医者のことを、住民は有難いと思うより、腕が悪い、と見ている。おべっかを使いながら、裏では陰口をきかれていると「おれ」は思っている。世間知はついてきているが、人間というものを信じてはいない。

独り語りの前半に比べると、後半はリアリズム小説に近い形式で語られる。「おれ」がつきあうどの人物も貧しく、生きるのに必死だ。「おれ」は、その世界をただうろうろとするばかり。何とかしようにも、金もなければ医師としての力量もないのだ。チフスに罹った少年のために、遠くにいる医者に知恵を借りに行ったり、毎日診察したり、以前と打って変わった「おれ」の変貌ぶりだが、人はそう簡単に変わったりしない。

軍隊時代に知り合い、その後もロバンソンという男がドッペルゲンガーのように行く先々について回る。「おれ」は、ロバンソンが、患者の一人である老婆を事故を装って殺そうと考えていることを知る。しかし、見て見ぬふりをする。ロバンソンはもうひとりの「おれ」なのだ。何かことがあれば、そこから逃げてばかりいる「おれ」には、ロバンソンを止めることができない。

小説はロバンソンの死で幕を閉じる。まるで主人公がロバンソンででもあったかのように。恋人に求められながら、そこから逃げようとするロバンソンはどこまでも正直だ。結婚生活なんて嘘をつかなきゃやれないもんだ。誰だって知っていて目をつぶる。そうしなきゃこの世界に安住することはできないからだ。しかし、ロバンソンはそれを拒否し、恋人に撃たれて死ぬ。「おれ」はロバンソンの臨終に立ち会いながら、自分というものの小ささに気づく。おれには「人間をただの生命よりでっかくするものが欠けてたんだ、他人の生命への愛が。そいつが、おれにはなかった」んだ、と。若い裡に読んでおきたい小説だ。

 

『あの本は読まれているか』ラーラ・プレスコット

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表題にある「あの本」というのが、ノーベル賞作家、ボリス・パステルナークの長篇小説『ドクトル・ジバゴ』。ソ連が出版を許可しないので、イタリアで出版され、瞬く間に世界中で翻訳され、ノーベル賞を受賞する。しかし、反革命的であることを理由に、ソ連は受賞式への参加を認めなかった。国外追放を怖れたパステルナークは国に留まることを選び、受賞を拒否。しかし、結果的にはノーベル賞を受賞している。

パステルナークは結婚していたが、オリガという歳の離れた若い愛人がいた。彼女がラーラのモデルである。この小説は東西冷戦期間中である一九四九年から一九六一年のソ連アメリカ、主にパステルナークの住むモスクワ近郊の村と当時CIAの本部があったワシントンが舞台となっている。CIAのスパイ活動を描きながら、世に知られている、いかにも血腥いCIAの作戦とは毛色のちがう、いわば文学的な香り漂う作戦を扱っているからだ。

中心になっているのは女性「タイピストたち」。有名大学で優れた成績を修め、意気揚々とCIAに就職した彼女たちは、その心意気を早々と挫かれることになる。CIAの前身であるOSSにいた女性たちは、前線で華々しい活躍をしたことが噂話で聞こえてくるのに、戦後のCIAで工作員になれるのはアイビー・リーグ出身の男性部員に限られていた。OSSの頃から勤めている有名な女スパイも今では年若い男たちの下で事務職をしている始末。タイピストたちは昼食時のカフェで、噂話に憂さを晴らす毎日だった。

彼女たちの職場「ソ連部」に新入りが入ってくる。ロシアの血を引くイリーナは美人だが、特にタイプ技術がすぐれてもいない。なぜ彼女なのか? イリーナの父は一家での渡米間近に港で逮捕され、その後死亡した。彼女にはソ連を恨む動機があった。もう一つ、彼女はどこにいても不思議と目立たなかった。それは情報を受け渡しする「運び屋」の必須条件だった。「運び屋」の技術を教えるうちに秘密工作員のテディは彼女を愛するようになる。

イリーナと対称的にどこでも人の目を引きつけてしまうのが、戦時中OSSで働いていたサリー。国務省の勤務に向いていないことを悟ったサリーは当時の伝手を頼って古巣に戻ってきた。彼女は魅力を武器に高官たちから情報を仕入れてくる「ツバメ」だった。サリーは一目見たときから、イリーナの才能に気づく。そして、テディに代わり、イリーナの教師役につく。全く正反対の二人だが、二人は初めて会った時から相手のことが好きになっていた。それは友だち以上の関係になることを暗示していた。

スプートニクの打ち上げ成功で、宇宙開発でソ連に一歩も二歩も先行されていたアメリカは、ハンガリー動乱の失敗もあり、すっかり意気阻喪していた。そんな時、サリーが手に入れてきたのがロシア語版『ドクトル・ジバゴ』を撮影したマイクロ・フィルムだ。CIAはこれを何百部も印刷し、ソ連内に持ち込み、国民を内部から揺さぶろうと考えたのだ。当然その任務はイリーナに与えられる。

一方、オリガは当局に逮捕され、尋問を受ける。彼の書いている作品について話せというのだ。彼女だけが書きあげたばかりの原稿が作家自身の口から朗読されるのを聞いていたからだ。しかし、彼女はどんなに責められても屈しなかった。彼女は矯正収容所送りとなった。スターリンの死により、解放されるまでの長い年月を劣悪な環境下で暮らしたことで、彼女は痩せこけ、別人のような姿で作家のもとへ帰ってきた。

小説は完成したものの、ソ連国内では出版は認められなかった。皮肉なことに、スターリンパステルナークの詩を愛していて、作家としての待遇は悪くなかった。ある日、二人の青年がパステルナークの家を訪れ、原稿を預かりイタリアで翻訳出版したいと持ち出した。自国での出版をあきらめていた作家は原稿を二人に託す。原稿はドイツを経由し、飛行機でイタリアに運ばれた。後日それを知ったオリガは作家を責めた。他国で出版されたりしたら、私はまた矯正収容所送りになる、と。

全体主義国家の過剰な情報統制の陰湿さは、今の我が国のそれによく似ている。さすがに矯正収容所までは行っていないが、SNSでの監視、批判は喧しい。まるで紅衛兵時代の中国を見ているようだ。閑話休題。一方、第二次世界大戦が終わり、戦後の平和を謳歌している当時のアメリカの佇まいがノスタルジックに描かれていて、音楽やダンス、食事や酒、サックドレスなどのファッション、と読んでいて懐かしい映画を見ているよう。

その少々軽薄で享楽的な雰囲気はスパイとしての情報受け渡しや、街角で出会う人々の背後にある物語を解読する技術の教育を描く部分にも揺曳している。イリーナとテディ、イリーナとサリーの、友情と愛が育まれて行き、それがイリーナとテディの婚約という頂点を迎えるところで三人の関係に陰が差し、やがて悲しい破局に至る。今となっては隔世の感があるが、同性愛を忌避する空気はCIA内部にも蔓延しており、讒言によってサリーは局を去る。

一冊の本が世界を変える、という主題は文学好きには堪らない。『ドクトル・ジバゴ』は、十月革命からスターリンによる大粛清に至る時代を奇跡的に生き抜いたインテリゲンチャの半生とその恋人とのロマンスを広大なロシアの大地を舞台に描いた長篇小説である。果たしてそれは「東」の世界の変革に影響力があったのだろうか。その後ソ連は崩壊し、ベルリンの壁は壊された。そう考えてみれば何らかの力はあったのかもしれないが、世界のその後は予想されたようには動かなかった。世界を変えるかどうかは知らないが、食べたものが体をつくるように読んだ本は人を作る。本は心して選びたいものだ。