読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『特捜部Q-カルテ番号64ー』 ユッシ・エーズラ・オールスン

書評

f:id:abraxasm:20170325125330j:plain

複数視点の名手という呼び名が献じられるほど、その構成が繰り返し使われる特捜部Qシリーズ。第四作にあたる本作も2010年11月(現在)と1987年8月(二十三年前)で、二つの視点を交互に使い分けている。現在時の方は、カールとアサド、それに今回は現場にも同行するローセたち特捜部Qの面々が、同時期に行方が分からなくなった複数人物の未解決事件の捜査を行う。過去の時点で描かれるのは、一人の女性の人生を崩壊させることに係わった五人の人物への復讐劇だ。

冒頭に置かれた屈辱的な情景が痛ましい。今は上流階級の一員に収まっているニーデが、パーティーの席上で偶然再会したクアト・ヴァズという産婦人科医に、淫売と罵倒された挙句、夫の目の前で知られたくない過去を洗いざらいぶちまけられる。ニーデは過去に複数の中絶経験があり、クアトに不妊手術を受けていた。帰りの車内、夫から別れ話を持ち出されたニーデは横から手を伸ばし、ハンドルを思いっきり切り、車は海に落ちる。

今回主題となるのは優生学思想。ナチスユダヤ人を大量死させたのと同じ思想だ。ある特別な種に価値があり、他の劣等な種と交雑することによって、優等な種の価値が劣化すると考え、劣等と考えられる人種や知的その他の障碍を持つ人々の増加を阻止する目的で、中絶や不妊手術を行うことで知られる。本作において、その思想を体現する男がクアト・ヴァズ。ニーデの人生を狂わせたこの男は、今や<明確なる一線>という政党のリーダーとして議会に議席を獲得する勢いを持つ。

過去と現在に二つの視点を置き、一方では非情な経験によって人生を狂わせられた人物が、相手に対して行う復讐劇を犯人側の視点で語り、もう一方で、過去に行われた未解決事件の謎を解き、犯人逮捕を目指すカールたち特捜部Qの活躍を描く、というのがこの作家の常套手法。陰鬱で悲惨な過去に対し、カールを取り巻く仲間たちのドタバタ劇は笑劇タッチで描かれるのもお定まりの約束になっている。シリーズ物らしく、カールにつき纏う未解決事件の謎は少しずつ解き明かされるが、逆にその闇は深まるばかりだ。

警察小説としての特捜部Qは、家庭内にトラブルを抱えながらも、カウンセラーのモーナと良好な関係を築きかけているカール。いまだその正体は不明ながら、格闘にも捜査にも抜群の実力を持つシリア人のアサド。父親の死のトラウマのせいで、時に解離性同一性障害を引き起こし、妹ユアサの人格と入れ替わるローセが主要メンバー。それに、全身麻痺の身をカールの家で介護を受けるハーディや署内の食堂を経営する腕利きの元鑑識官ラウアスンらが力を貸す、といったチーム物の要素が強い。最後に命を脅かす危険な目に合うのもいつものことながら、シリーズ物の宿命として結果的に命は助かる。

それに対して、犯人側に視点を置いた犯罪小説としての要素は、これが北欧ミステリの特徴なのかどうか、他の作家の作品をあまり読んでいないのではっきり分からないのだが、正直いつも陰惨極まりない。今回の場合、ニーデはまともな教育を与えられず、性に対してあけすけな環境で育てられたことから、少女のうちに妊娠し、流産する。世間体を苦にして他家に預けられ、そこでもいじめられ続ける、という悲惨な経験を持つ。

理解のある夫婦によって識字教育を受け、立派に社会に出ることになるが、幸せな結婚生活は過去を知るヴァズによって壊される。夫の遺した遺産でひっそりと暮らしていたニーデを復讐にまで追い込むのはやはり過去の因果だ。正気を疑う復讐の方法は相変わらず猟奇的で正視し難いが、正直なところ、今回の犯人をあまり憎むことができない。殺害に至る計画はずさんだし、その方法もあまりにも素人臭く、到底うまくいくとは思えない。しかも、一人の相手に対しては殺害に及んだことを後悔すらしている。まあ、だからこそ赦してやりたくもなるのだが。

蛇足ながら、ニーデが送られたことになっているスプロー島の矯正施設はほんの五十年前まで実在していたという。福祉が充実し、女性の権利にも敏感な北欧の国デンマークでそんなことが行われていたとは。シリア人のアサドや心に傷を負うローセがいつになく真剣に怒っているのが作家の意識の有り様を物語っている。宗教や民族による差別に加え、人種や障碍の有無によって人の優劣を比べ、それを政治に持ち込むなど、あってはならないことだが、日本でもヘイト・デモを繰り返した集団が政党を立ち上げるなど、他人事ではない。

毎回ほぼ同じ構成を使いまわしながら、よく次々と書けるものだと感心する。同工異曲といわれることを知ってか、今回は最後にどんでん返しが用意されている。他の人気作家ではよく見かける、この手法、この作家にしては珍しい。伏線もあるので、注意深い読者なら見破れるのではないか。ミステリ読みとしては二流を自負する読み手としては、先を読みたくて急ぐあまり、つい読み飛ばしては後で臍を噛んでばかり。でも、考えようによっては、作家の仕掛けたトリックにうまくひっかかって悔しがるのは、この種の読み物の正統的な読み方ではないだろうか。そんな負け惜しみをつぶやきながら、次回作に手を伸ばすのである。

『殺す・集める・読む』 高山宏

書評

f:id:abraxasm:20170323113353j:plain

著者自身が「博覧強記の学魔の異名をとる」という自身の紹介記事をことのほか気に入っているようなので仕方がないが、とにかく出てくるは出てくるは。見たことも聞いたこともない本の名前が次から次へと繰り出される。俗にいう「高山ワールド」の信奉者ならともかく。初心者には敷居の高いこと、天狗様御用達の高下駄を履いても、跨ぎ越すことは覚束ない。そうは言っても、上から目線で語りだされる「講義」そのものは、独特の講釈口調でなかなかに魅力的。

まずは冒頭に掲げられた表題作「殺す・集める・読む」を読めばいい。お題はシャーロック・ホームズなので、ずぶの素人にもとっつきやすい。後の章も大体が同工異曲。はじめて聞く名前の学者やら物書きやらの名前が目白押しだが、講義そのものは特に難解ではない。副題に「推理小説特殊講義」とあるが、推理小説についての講義と思って読むと足をとられる。推理小説を素材に、物の見方を説く本だからだ。読めば目から鱗が落ちる。

たとえば、「ヴィクトリア朝世紀末の感性と切り離してはドイルの推理小説は絶対に成り立たなかった」という断言はいかなる根拠があるのか、そのあたりから読み始めることにしよう。著者は言う。「仮にホームズのいないホームズ作品というものを考えてみると、残るものは確かに世紀末としか言いようのないビザルリー(異常)とグロテスク(醜怪)の趣味だけである」と。そして、本文からの引用が続く。

ホームズ作品からホームズを取り去るというところが、いかにも現象学的還元だが、そこにあるのは確かに醜悪な死体の「描写のフェティシズム」。現在の推理小説まで延々と繰り返される、この「酸鼻なバロック趣味」が、なぜこの時期に発生し得たのかという理由を語るまでに、羅列されるのが、サルヴァトール・ローザ、ムリリョ、カラヴァッジオなどのバロック画家の名前であり、『放浪者メルモス』を書いたゴシック作家のチャールズ・ロバート・マチューリン、『さかしま』の作者でデカダンスの作家ユイスマンスなどの名前だ。

大体が、高山宏といえば、マニエリスムバロックの権威。要は我田引水なのだが、マニエリスムバロック美学と推理小説を今まで誰も真っ向からぶつけて考えようとしなかったところが盲点であった。つまりは、両者を並べてその関係性を明らかにしたのがこの本だ。博引傍証が多いのも、衒学趣味ばかりではなく、この本自体がマニエリスム美学で成り立っているからで、それを愉しむ者にしか、この本は開かれていないのだ。

当時のロンドンが富裕なウェスト・エンドと、貧苦のイースト・エンドという明暗対比(キアロスクーロ)の都市だったこと。繁栄を誇る大都市はまた、衛生状態の悪さからコレラ、チフス、天然痘、猩紅熱に加えてインフルエンザの猛威に苦しめられる死の都市ネクロポリスであった。この大量死に対し、殺人という個別の死を対峙させ、神の死んだ世界にあって、神の代わりとなって、死の謎を解明するのがホームズだ。シャーロック・ホームズこそはビクトリア朝世紀末の悪魔祓い、というのが高山宏の見立てである。

勿論、こんな粗雑な括りを、褒めるか腐すか、人によって「奇才、異才、奇人、変人、ばさら、かぶき、けれん、香具師、ぺてん師」などと呼ばれる著者が簡単にするはずがない。ここに至るまでに世紀末のパノラマ文化に江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を持ち出し、世紀末の老化衰退文化(ビザンチニズム)の行き着く先は集めることだと喝破したマーリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』を引っ張り出し、ホームズの収集癖、標本作り、テクスト作成等々を構造主義的な視点で語り明かす。

さらには、あのブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』が、立派な推理小説だという論点から語りつくす「テクストの勝利」、ケインズ理論を援用して論じる「『二銭銅貨』の経済学――デフレと推理小説」など、読めば成程と膝を打つ、腑に落ちる名講義が引きも切らない。そして、掉尾を飾るのがあの絢爛たるペダントリーで知られる『黒死館殺人事件』を論じた「法水が殺す――小栗虫太郎黒死館殺人事件』」というのだから、これはもう読むしかないではないか。

ただ、書かれたのが2002年ということもあり、当時話題であったドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」や柄谷の「形式化」問題などの用語が今となっては隔世の感がある。その点は割り引いて読んでもらうしかない。著者自身による解説「この本は、きみが解く事件」を読んでから本文を読めば、著者がなぜこの本を書いたのがよくわかって納得がいくかもしれない。「美書で高価、おまけに難解」というイメージのつき纏う高山宏が文庫で読める。これはお勧めである。

『ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む』 フリードリヒ・デュレンマット

書評

f:id:abraxasm:20170322055651j:plain

雨が降り続き道路は川のようになった。そのうち霧が出た。やりきれない一月だった。アルノルフ・アルヒロコスは独身のベジタリアン。身なりは貧しいものの、いつもきちんとした服を着て煙草も酒もやらず、四十五にもなるのに女を知らなかった。プティ・ペイザン機械工場の経理課に勤め薄給を得ていたが、稼ぎはやくざな弟にせびられてばかりで、便所の臭いと騒音の絶えない屋根裏部屋に住んでいた。

行きつけの店<シェ・オーギュスト>のマダム・ビーラーはアルヒロコスのような善人が、いつまでもこんな不健康な暮らしをしていてはいけないと考え、結婚を勧めていた。本人の同意を得て『ル・ソワール』紙に出した広告がタイトルでもある「ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む」。すると、クロエという女性から返事があった。二人は店で待ち合わせ、一度で惹かれあった。二人は結婚を決める。

クロエは美人で、毛皮のコートを着、香水をつけていた。仕事はメイドということだった。結婚を決めた二人が街を歩くと、大統領や司教、今売り出し中の画家、市の名士たちが、アルヒロコスに挨拶をするではないか。果ては、雇用主のプティ・ペイザン氏までも。いったい何が起こったのか。その日からアルヒロコスには考えられない好運が舞い降りてくることになる。

翌朝、出勤したアルヒロコスは、次々と上司に呼ばれ、最後は社長室に行くことに。そこで常務に昇進したことを告げられる。一流の店でしつらえた洋服で旅行会社に行き、新婚旅行としてギリシア行きの船旅の予約をする。結婚式を挙げるため司教の元を訪れたアルヒロコスは、自分の不安を司教に打ち明ける。

突然好運に見舞われることになった男が、どうして自分ばかりがこんなに幸運に恵まれるのか、その理由がわからず不安に襲われる。それはそうだろう。普通ならありえない話だ。ところで、いつからそうなったかといえば、クロエと結婚することを決めてからで、この幸運がクロエから発していることはまちがいないのだ。でも、何故?

そこには、なるほどと納得できる理由がある。よく読めば、読者にも分かるように伏線が張られている。しかし、当人には事態がのみこめていない。この話は、周りは分かっているが当人にはわからないことから起きる、主人公の困惑を周りから眺めるときの面白さを描いている。話を聞いた司教は、この事態を「恩寵」だと説く。

重要なのはこれらすべてが何を意味しているのか、ということなのです。あなたが恩寵を受けた人間であり、あなたにその恩寵のしるしがこの上なくはっきりと積み重なっているということなのです。(略)これから問題になるのは、あなたがその恩寵にふさわしい人間であるかどうかを証明することなのです。このことを謙虚に我が身に引き受けなさい。もしもそれが不幸な出来事であったならきっとあなたが引き受けたように。私があなたに申し上げることができるのは、これがすべてです。ひょっとしたらあなたはこれから幸運の道という、非常に困難な道を歩むことになるのかもしれない。幸運の道を歩むという課題はたいていの人には課されていません。というのも、私たちが普通この世で歩むのは不幸な道なので、人は不幸の道の歩き方は知っていても幸運の道の歩き方は知らないからです。

この言葉にすべては尽きる。まさしく、アルヒロコスこそは、不幸な道ばかりを歩いてきた男なのであって、クロエと出会ってからはじめて幸運の道を歩き始めたわけなのだから。アルヒロコスは、結婚式の最中に、それまで気づかなかったある事実に思い至る。式場を飛び出したアルヒロコスは自暴自棄となり、革命家にスカウトされ、尊敬する大統領暗殺の計画に加わることになる。

この小説には、二つの終わり方が記されている。終わりⅠは、本来作者が書きたかった結末であり、終わりⅡは、「貸本屋のための」と書かれた娯楽小説としてのお約束の結末である。普通に読んでいけば、読者はいわゆるハッピーエンドに導かれるわけで、無事安堵して読み終えることになるが、心の中に一抹の疑問が残る。主人公の突然の変容が、あまりに不可解であるため、事態をのみこむことができないからだ。

そのために訳者あとがきが付されている。作家はプロテスタントの牧師の子として生まれ、それまでに書かれた戯曲にも本作の主題とされている、新約聖書の思想に基づく「一番取るに足りない人間が恩寵を授かる」という設定をすでに何度も披露している。カフカキルケゴール由来の、ちっぽけな人間が大きすぎる幸運を受け止めることの困難を描いた本作も自家薬籠中の主題だったということだ。

しかし、読者はそんなことに関係なく、単なる喜劇として読めばいい。それも、何故この男に突然信じられない幸運が舞い降りたのか、という謎を抱えたミステリとして。初めは何かの寓話か、と思いながら半信半疑で読んでいくにちがいない。しかし、最後まで読んでから再読すれば、実に事細かに作者はウィンクを送っていたことに気づくにちがいない。手練れの劇作家ならではの巧みな目配せに、いつあなたは気づくだろう。評者などはいつまでたっても人間観察に疎い甘ちゃんであることに改めて気づかされ、苦笑させられた。

『冬の日誌』 ポール・オースター

f:id:abraxasm:20170320203448j:plain

冬のニュー・ヨーク。ワシントン・スクエアは雪におおわれ、ベンチにも人の姿はない。コート姿の人の影が寂しく道を急ぐ様子。モノクロームで撮られた静謐な写真を使った書影が、いかにもポール・オースターらしい情感を湛えている。これは小説ではない。同じ作者による既刊の『孤独の発明』や『空腹の技法』に連なる、自分を素材にした一種の自伝的エッセイである。

この後すぐに出ることになる『内面からの報告書』を、訳者は「ある精神の物語」と呼んでいる。対になっているこちらは「ある身体の物語」。たしかに、顔面を引き裂いた釘による怪我から、淋病や毛じらみといったセックスに係わる疾病まで、六十何年かの間、作家に降りかかってきた身体的な災難を片端から書き並べて見せるところなど、まさに「ある身体の物語」だろう。

ただ、人間の身体と精神は別々のものではない。時には、ひとつながりのものであって、精神が難局に耐えられなくなった時に、それは身体を襲うことになる。オースターは、母親の突然の死に直面した時、一滴の涙を流すこともなく火葬から遺物の処理をこなし、一息ついた後、突然のパニック発作に襲われ、死を意識する。


これこそ君の人生の物語である。道が二叉に分かれたところへ来るたびに、体が故障する。君の体は心が知らないことを知っているのであり、故障の仕方をどう選ぶにせよ(単核症、胃炎、パニック発作)、君の恐怖と内的葛藤の痛みをつねに体が引き受けてきたのであり、心が立ち向かえない――立ち向かおうとしない――殴打を体が受けてきたのだ。

オースターの小説は、ミステリの体裁をとりながら、カフカベケットの不条理劇を思い浮かばせるニューヨーク三部作から、最近の『闇の中の男』まで、内省的でありつつも底にユーモアを湛え、読んで面白いだけではない、考えさせられる何かを隠し持っている。初期から読んできた読者なら、ユダヤ人差別に対する激しい怒りの表出も、最愛の妻に対する臆面のない称賛もすでにおなじみのものばかり。

それまでに住んできた所番地をすべてさらして、当時の暮らしの有様や思いを語る口調は、「君」という人称を使っていることもあって、どことなく懐古的。もうすぐ六十四歳になろうとする作家は、自分の生涯を総浚いする気になっているのだろう。年寄りの昔話ほど、聞いていてつまらないものはないわけだが、さすがにポール・オースター。事実を語っても小説以上に面白い話を選び抜いている。

ほんの少ししか離れていない位置に座っていた友人が雷に打たれて死ぬ話は、すでに他の作品で読んで知っていたが、近所の悪がきに庭に繋いでいた愛犬のリードを解かれ、車に轢かれて死んだ話は初めてだ。子どもと犬が飛び出てきて、どちらかを選ぶしかなかったと語った相手の言葉に「違う、あの人は間違ってる、犬じゃなくて子供にぶつかるべきだったんだ、あいつをぶっ殺すべきだったんだ」と思ったところなど、いかにもオースターらしい。弱い者、虐げられている者に対する姿勢は少年時から変わらない。

家族を乗せて運転していたカローラで事故を起こした時の話も短編小説のようだ。友人の父親の飄逸な遺言「いいか、チャーリー」「小便のチャンスは絶対逃がすな」から始まり、運転の上手さを誇っていた作家に対し、珍しく妻が異変を予感するところからサスペンスを高めていき、ついには交差点で左折時に対向車の速度を見誤って激突に至る事故の顛末を当人でなくてはかけないリアルさで綴っている。

偶然交差点に居合わせたインド人医師の冷静な対処もあって、幸いなことに同乗していた愛犬も含め、家族は全員助かるが、新車のカローラは無残な有様に。後日、廃車置場を訪れ、どうしてこれで自分たちは助かったのか、と首をかしげる作家にドレッドヘアーの管理者が語る「天使があなたたちを見ていてくれたんだよ。あんたたちは昨日死ぬことになっていたんだけど、天使がひょいと手を伸ばしてこの世に引き戻してくれたんだよ」という言葉がいい。

逆に、何もかもうまくいかなかった時の話。当時住んでいた家のせいにするのもどうかと思うが、何とその家の前の住人が残した持ち物の中に、ナチス関連の書物やら何やらに混じって、エーコの『プラハの墓地』にも出てくる『シオンの議定書』を発見する。ユダヤ人のオースターにとってこれ以上ない最悪の書物と一つ屋根の下に暮らしていたわけだ。本当の話なのか、と思わせるような『トゥルー・ストーリーズ』の作者ならではの面白さ。

一方的に読んできただけだが、古くから知っている友人の過去の打ち明け話に付き合っているような心持ちになってくる、どことなく心温まる本である。それにしても、オースターがここまで女好きであったとは。若い頃の話など、女狂いの域に達している。それにしては、前妻であるリディア・デイヴィスのことはあまり詳しく書いていない。現在の妻に対する遠慮もあるのだろう。とにかく、この美しい首を持つシリに対するべた惚れぶりには、読んでいて「ああそうですか」と何度も言いたくなった。

これが作家の性(さが)というものなのだろうか。今まで暮らした家や、少年時に食べた食べ物に至るまでの羅列ときたら、露悪的と言いたくなるほど。年齢のせいなのか抑制が効かなくなったようだ。これで身体の物語なら、精神の物語である『内面からの報告書』は、どうなるのだろうか。愉しみなようでもあるし、怖いようでもある。刊行を心待ちにしながら、この稿を終わることにしよう。

『特捜部Q Pからのメッセージ』ユッシ・エーズラ・オールスン

書評

f:id:abraxasm:20170316163649j:plain

シリーズ第三作にして最高傑作、という評は嘘ではない。過去に起きた未可決事件を再捜査することに特化された部署である特捜部Q。部員は警部補カール・マークとその助手でシリア人のアサド。それに、今回から仲間に加わるローセという女性警官の三人。リーマンショックのせいでデンマーク警察にも改革の波が押し寄せ、恒常的に人手不足でただでさえ忙しい市警だが、地下室にアスベスト疑惑まで発生し、休暇明けのカールを襲う。

今回扱うことになる過去の事件は誘拐殺人事件。事の発端は、デンマーク北部にある海辺の町で漁師の網にひっかっかったガラス瓶の中に入っていた手紙だ。気になった地元の刑事が机の上に置いたまま長年放置され、結露のせいで判読不能なまでに劣化しているが、「助けて」という文字と、Pで始まる署名は、まさしく血で書かれていた。カールはどうせいたずらだと相手にしないが、アサドとローセは真剣だ。

カット・バックの手法により、カールはもちろんのこと、犯人と被害者、双方の関係者という複数の視点が交互に切り替えられ、追う者と追われる者の両方の立場からテンポよく話は進んでいく。今は警察の食堂で働く腕利きの元鑑識官が有力な手掛かりを発見してくれたり、新人のローセがすごい集中力の持ち主で、何時間もかけて手紙の文面を判読したり、と相変わらず好運に恵まれすぎな気がするが、そんな些末なことにこだわっていては、このシリーズは楽しめない。

本編では現在進行中の誘拐事件が犯人側の視点でつづられる。少年時に厳格な宗教家の父によって虐待されて育った犯人は、それをなぞるように新興宗教を熱心に信仰し、身代金を支払うことのできる程度に裕福な家族を狙っては犯行を繰り返す。ポイントは、兄弟の多い家族をターゲットにすることだ。兄弟二人を誘拐し、警察には内緒で身代金を用意し、言われた列車に乗り、合図のあった地点で窓からバッグを投げるように命じる。

エド・マクベインの『キングの身代金』を原作にした黒澤明の『天国と地獄』にも出てくるお馴染みの手法だ。特異なのは、子どもを二人誘拐する点と目標を新興宗教集団に属するメンバーに限ることだ。金を手に入れた犯人は、兄弟のうち一人を解放し、一人は殺す。警察に訴えたらいつでも残りの子を殺すぞ、という脅しだ。閉鎖的で排他的な集団の中では、子どもの姿が消えても、信仰心が足りないので他所へ預けたなどという言い訳が通用する。

犯人は、自分の経験から彼らの習性を熟知している。徹底的に相手をリサーチし、集団の中に入り込み、好機を狙って犯行に及ぶ。人心掌握に熟達し、変装もうまい。いくつもの変名を駆使し、人に知られない私生活も送っている。犯人の過去を知ると、若干の同情の余地はあるものの徹底的なサイコパスであることはまちがいない。しかも、軍隊その他であらゆる訓練を受けており、容易に素顔を他人にさらすことはない。

この難敵を追うカールだが、相手の完璧な防備に対し、あまりにもガードが甘い。身辺整理が全然できていないのだ。まずは、男にふられるとカールの家に帰りたがる別居中の妻がいる。同居中の義理の息子の学業の心配もある。おまけに全身麻痺の元の相棒ハーディを自宅で介護中だ。特捜部では新人のローセの奇矯な振舞いに悩まされ、カウンセラーのモーナのことが頭から離れない。つまり、探偵役としてはあまりにもお荷物を抱えすぎている。

それなのに、何が幸いしてか、アサドの慧眼によって別の事件は解決に向かうし、誘拐事件の方も、少しずつ網は絞られ、犯人に近づいていく。カールは、アサドやローセに、捜査するべきことを告げるだけ。二人の超人的な働きで、出会うべき人物の名前がわかり、出かけるべき場所が明らかになる。このシリーズが他の警察小説やクライム・ノヴェルと異なるのは、他の作品の探偵役に比べて主人公のカールが、突出して有能ではないことだ。

助手やアシスタントの活躍もあって事件は解決するが、ハーディが全身麻痺になった事件は未解決のままだ。シリーズが進む中で、謎はかえって深まり、アサドの正体はいよいよ怪しくなる。カールが本領を発揮するのは、まだまだ先のことになりそうだ。特捜部Qシリーズは、カールを中心とする人物群の騒がしいスラップスティック劇と、救いようのない陰惨な過去を持つ犯罪者の特異な心理をあざといくらいに対比的に描くことで読者の心を鷲づかみにする。フィヨルドや湖沼といった北欧ならではの景観も物語に興を添える。多分次回作も読むことになるだろう。

『夢遊病者たち』1・2 クリストファー・クラーク

書評

f:id:abraxasm:20170310172439j:plain

一・二巻を通してノンブルを打つやり方があることを初めて知った。全八百ページ強。読み応えのある本だ。第一次世界大戦がどのようにして起きたかを詳細に語るハウダニットの歴史書。一口に何が原因で起きたとか。どこの国の誰のせいで起きたなどと言い切れないのが戦争というものだろう。とはいえ、それまでの戦争という概念を大きく塗り替えた第一次世界大戦が如何にして起きたのか、それはぜひ知りたい。

各国に残る関係書類、政府要人の手記、君主間でやり取りされた手紙といった厖大な資料を収集選別し、同時期に関係する国と国で、どのような話し合いがもたれ、それがどのように相手国に伝えられたかを、読み解き、刻銘に書き記したのがこの本だ。まるで映画を見ているように、戦争に至る道筋で重要な役割を果たした外交官や政府首脳が、或いは自国の威信を賭けて恫喝し、或いは敗北の予感に泣き崩れる。

1914年6月28日。サライェヴォ訪問中のオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナントがセルビア人の若者の手によって狙撃される。文字通り戦争への引鉄を引いたわけだが、バルカンをめぐる情勢はそれ以前から火種がくすぶっていた。強大な力を誇るオーストリア=ハンガリー二重帝国に隣接するセルビアは、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの領有をめぐって、オーストリア=ハンガリー二重帝国に苦い思いを抱いていた。

時あらば、ボスニア=ヘルツェゴヴィナを取り戻そうという失地回復主義者が、黒手組などという時代劇にでも出てきそうな名前の秘密組織を作ってテロ活動を画策していた。政府を率いる首相ニコラ・パシッチは、それを知りながら汎セルビア国家建設という目的のため、あえて見て見ぬふりをしていた。秘密組織を牛耳るアビスは、ひそかに銃や爆弾を手配し、暗殺集団をボスニア=ヘルツェゴヴィナに送り込み、機会をねらっていた。

帝国の世継ぎを殺されたオーストリア側が、事件の背後にある組織の摘発をはじめとする厳しい条件を最後通牒としてセルビアに突きつけるのは理解できる。しかし、自分の国の君主でさえ殺してしまうセルビアという国が甘んじてそれを飲むとも思えない。問題は、この事件で漁夫の利を得ようとしていたのが、利害関係の深いバルカン諸国だけではないことだ。ドイツはオーストリア=ハンガリー二重帝国を後押しし、セルビアにはボスポラス、ダーダネルス両海峡の航行権を狙うロシアがついていた。

帝国主義の時代、各国は版図を広げるのに必死であった。少し前には、ドイツのリビア侵攻という事件があったばかり。ロシアはロシアで、大量の兵士や兵器を輸送する手段として鉄道建設を進めていた。オスマン帝国はイギリスに弩級戦艦を発注というように、互いの国が自国の防衛と領土獲得を目指して競い合っていた時代だ。敵の敵は味方、という図式そのままに、国境を共にする隣国を牽制するため、遠く離れたロシアとフランスが同盟を結ぶなど、複雑な地政学的問題が存在していた。

簡単に図式化すれば、ドイツをバックにしたオーストリア対ロシアを味方につけたセルビアの角逐に、三国協商でロシアと協商・同盟関係にある英仏がからむ関係となっていた。ただ、ドイツと直接関わりのあるフランスとは違い、海をはさんだイギリスは、直接的に利害のないヨーロッパ大陸の争いに、当初はどちらかといえば冷淡であった。英国の介入を迫るフランス駐英大使の切羽詰まった態度に対し、外相のエドワード・グレイの言質を取らせない優柔不断な姿勢は、いかにもイギリス人らしく煮え切らない。

栄華を誇ったオーストリア=ハンガリー二重帝国にも翳りが来ており、かつてのような威信が保てない。それは、オスマン帝国とて同じ。沈みゆく帝国に対し、新しく勢力を広げてきたドイツ、フランス、イギリス、イタリアなどの国との綱引きが繰り広げられる。一つの国といっても一枚岩ではない。急進的なグループもあれば、穏健な集団もいる。どちらが力を持つかによって、ヨーロッパの勢力分布の均衡を揺るがすことになる。外相や大使といった外交にあたる人物を中心に、戦争に至るまでの駆け引きを描く。クラークは、著名な人士の人物像を巧みに描くことで、ともすれば単調になりがちな歴史的記述を、読み物を読むように楽しませてくれる。しかも、その筆はバランス感覚にあふれ、どこかの国にだけ責任を押し付けようとするようなところがない。

ディストピア小説が流行しているという。独裁者的な政治家が実権を握った国家においては、ある意味当然のことかもしれない。いつ小説が実体化しても不思議ではないからだ。自国ファーストを謳い、移民や難民を排除しようとする勢力の台頭も目立つ。第一次世界大戦前の時代を描いた史書ながら、今読むにふさわしい本である。ヨーロッパ中を巻きこむことになる戦争に対し、どちらかといえば躊躇していた君主や政府首脳を、何も知らない国民が一時の愛国的な熱狂で、一歩も引けぬところまで追い詰めていった過程が手に取るようにわかる。

歴史に「もし」はないというが、関係者の手になる自分勝手な解釈や、専横、逸脱、怠惰などのうち、たった一つが「もし」なかったら、あの悲惨な大量の犠牲者を生んだ第一次世界大戦はなかったかもしれない。あの時、あの人物を国家の舵取りに選んでいなければ、災いは避けられたかもしれない。読んでいて、何度もその考えが頭をよぎった。過去の話ではない。事態を戯画化し、想像の世界に遊ぶのもいい。鍛え上げた想像力で現実を読み解くのもいいだろう。しかし、地道に過去を振り返り、過去に学ぶこともそれに劣らない、今を生きる生き方ではないのだろうか。読みやすい本ではないが、読むに値する本である。

『襲撃』 レイナルド・アレナス

書評

なぜか突然流行のきざしを見せはじめている、これもディストピア小説の一つ。それも生なかのディストピアではない。人間(だろうと思われる)の手は鉤爪に変化しているし、一部の者は足さえ蹄に変わっているようだ。何かの寓話だろうか。とてもリアリズム小説のように読むわけにはいかない。かといって、『モロー博士の島』のような、SFめいた設定を楽しむことを目的にして書かれたとはとうてい思えない、他者蔑視の果ての罵詈雑言、呪詛の嵐のごとき小説である。汚い言葉や残酷な描写の苦手な方にはお勧めできない。

舞台は、<超厳帥>と呼ばれる絶対権力を持つ独裁者が統べる国家。人民は囁くことさえ許されず、へたに声を出そうものなら、囁き取り締まり軍によって処刑されてしまう。逮捕後も裁判、監禁などという煩わしいことはしない。鉤爪で頭をひっかけ、逮捕した者の番号を記入したら、まずは死刑だ。ひどい話だと思うかもしれないが、とんでもない。もっと悪いのは、家族、親族、友人知人は言うに及ばず、関係した者すべてが極刑に処せられる刑もあるのだ。本人だけが死んで終わるなら、軽い量刑と言える。

<俺>という一人称で語られる人物が主人公。というより、<俺>以外に人物扱いされているのは、冒頭に姿を見せてすぐ引っ込んでしまう母親と、終わりの方で登場する<超厳帥>を陰で操る黒幕ではないかと思われる<大秘書官>くらいのもの。後はすべて、有象無象。母親でない他者はすべて何らかの罪を犯した犯罪者で、<俺>には、殺してやりたい母親しか目に入らない。殺す理由は、自分が母親に似ており、このままだとその母親になってしまいそうだから、というものだ。

ディストピア小説というのは、絶対的な権力を掌握する独裁者あるいは組織が生み出した管理社会の非人間的な側面を事細かに描き出すことで、今は気づかれていないが確実に到来するであろう近未来の危機的状況に目を向けさせようとするところがある。『1984年』も『すばらしい新世界』もそうだが、そこに描かれている社会は、カリカチュアライズされた現実社会であり、少し歪んではいるけれど、乱視矯正レンズを透して見れば、そこに見えるのは現実に自分が暮らす世界の少し先に行きついた姿である。

ところが、本作が描くのは、戯画化などというものではない。たとえば、<複合家庭>に暮らす人々は、狭い部屋をあてがわれるのだが、その狭さといったら、一人が寝ている上にもう一人が寝る、という信じられない狭さである。男女を問わず毛髪を伸ばすことを許されず、その禿頭をワックスで磨いて光らせることを義務づけれるなど、悪い冗談を飛び越して、嗜虐的。何が憎くてこうまで執拗に民衆を虐げ苛まなければならなかったのか。

ストーリーというほどのものはただ一つ。母親がいそうな社会の吹き溜まり、犯罪者が集められているようなところに行き、母親を探すこと。ただ、その繰り返し。例えば砂漠地帯では、灌漑と称して棒でつながれた者たちが一列になって地面に唾を吐きかけ続けるというのだから、想像力の極北といいたいくらいのもの。これほど人を虚仮にした扱いをしゃあしゃあと書く小説は、サドの『ソドム百二十日』くらいしか他に知らない。

母を訪ねて三千里ではないが、次から次へと訪ね歩く地で<俺>が見つけるのはいつでも母ではない。それら男とも女とも見分けのつかない者どもは、鉤爪の餌食となって屠られ、肢体は裂かれ、腐肉は膿み、惨憺たる有様はわざわざ言挙げするまでもない。おそらく、次第に過剰になる死体損壊をはじめ、人を人とも思わない獣以下の扱いの惨状を描き、読者が目をそむけたくなるところまで、表現を突き詰めてゆくために、この憎悪をエネルギーにひたすら突き進んでゆく主人公が選ばれたにちがいない。

全体主義国家のパロディとして、官職にやたらと<超>やら<大>がつき、都市の名前にも<超厳帥>が頭についた<超厳帥郷>などという個人崇拝的な名称や誇大な名づけがされている。他にも、ただ「寒い」といえば、軽い罪ですんだものが、「私は寒い」と、自分の感覚をわざわざ強調した点が個人主義的だ、と最大級の罪に処せられるなど、個人主義と言葉や文字を嫌うディストピア社会の有り様は、文化系の学問を軽視したがるどこかの国のようだ。なぜディストピア小説が流行るのかといえば、今それが一番リアルだから。物言えば唇寒し、を誰もが実感していればこそ読まれているにちがいない。明日は我が身、なのだ。

この小説を、よくある共産主義国家をモデルに、独裁者による恐怖政治を描いたディストピア小説として読むことは可能だ。ただ、最後の章、その名もタイトルと同じ「襲撃」が付加されることによって、一気に様相が変化してしまう。いわば、問題が矮小化されるというか、社会や国家を論じていたものが、家族や親子という個人的な次元の物語に収斂されてしまう側面を持つからだ。

結末はある種のどんでん返し的な効果を持つ。単線的で、広がりというものを持たない小説で、それなりの意外性によって読者を惹きつけようと思うなら、この結末しかありえない。途中まで読めば、ある程度小説を読んできた読者なら容易に想像できる、その点が惜しい。最終章に至るまで、終始一貫して主人公のモノローグで通す必要が果たしてあったのだろうか。複数の人物を登場させ、サブ・プロットを設けることもできたはずなのに、あえて<俺>の独り語りに執着した理由とは何か。

何故か、母を頭に着けて「母国」と呼ばれる。母も生国も自分では選ぶことができない。もし、そのために自分では望みもしない生がそこで営まれるとしたら、人は母や国を憎むしかないだろう。自分が肯んじ得ないものの中に吸収されそうに思えたら、人はきっと我が身を守るため、自分を同一化させようとするものから身を剥がそうとする。仮令そのために相手を殺すことになっても。一見するとディストピア小説に見えるこの小説は、もっと個人的、実存的な意味を持つのかもしれない。キューバという他に代えがたい国家に生まれ、フィデル・カストロと同時代を生きた作家ならではの異色のディストピア小説といえよう。