青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『湯けむり行脚』池内紀

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二月の声を聞き、寒さがひときわ厳しくなってきた。足もとは厚手の靴下の上からオーヴァーシューズ形のスリッパで固め、膝掛をかけ、キーボードを叩くため、指先だけは切り取った手袋をはいても、そこから出た指さきの凍りつくような冷たさだけはどうにもならない。熱い息を吹きかける、その吐く息が白いのだ。こういう日には温泉が恋しくなる。出不精で、ここのところめったに外に出ないくせに、温泉には入りたい。

そんな無精者にはぴったりの温泉本のご紹介。とはいっても、少しばかりくせがある。副題に「池内紀の温泉全書」と謳ってあるように、著者はあの『ファウスト』を訳した独文学者で、エッセイストでもある池内紀氏。氏によれば1990年代を境に温泉地は様変わりをしたという。

足の便のいいところは急激に観光地化して、旅館が巨大化し、料金もグンと高くなった。大型バスが団体客を送り込み、見る間に中小の宿を蹴ちらしていく。秘湯と呼ばれた山奥にまで道路が通じ、これまで見なかったタイプが車でやってきて、大騒ぎして、湯もそこそこに引き上げていく。

と、いたくご立腹である。読めば分かる通り、氏ごひいきの温泉というのは、あまり人のやって来ない、山の奥にひっそりと、しかし昔から細々と続く、湯治場の雰囲気を残した温泉宿のようだ。万座、草津、箱根を除けば、有名な温泉地は出てこない。1995年を中心に書かれた文章が多いので、今ではずいぶん様子も変わっているだろう。閉館した宿もいくつかある。それでは役に立たないのでは、と思うかもしれない。そんなことはない。

車で乗りつけることのできない山奥にある温泉宿に向かうのだ。足もとは登山靴、背中にはリュックを背負っての列車での旅である。汽車から降りたらバスに乗り、バス停からはひたすら歩き。それも、ただの道ならいいが、峠を越えての山歩きの末、やっと湯煙の見える渓流沿いの古びた宿にたどり着くような温泉行である。「行脚」を辞書で引くと「僧侶が修行または布教のためにいろいろな地方を歴訪すること。また歌人などが行う創作しながらの旅行をもいう」とある。タイトルは伊達ではないのだ。

そう聞くと、なにやら苦行僧のような難しい顔をして、蘊蓄を垂れそうな老人の顔を思い浮かべるかもしれないが、そんな心配はいらない。湯の種類が違うからと、女湯に入り込み、後から来た女性客の顰蹙を買ったりするのは毎度のこと。いたって、気安い旅人であるのは保証する。吉井勇若山牧水島崎藤村あたりは上州や信州の国境にある温泉を巡っていれば、当然出てくる名前だが、古いところでは大町桂月、渋いところでは田中冬二などの名前も見える、文人好みの紀行文とも読める旅のエッセイである。

温泉の種類や、効能などは一応記されているが、温泉そのものよりも、そこに行き着く経路で目にしたものや耳にする言葉、人の仕種や表情、といった寄り道の方にこそ読むべきところがあると思う。酒好きらしく、湯上りのビールや、宿の心づくしの料理をあてに酒杯を傾けるうちに、他の泊り客はさっさと食事を済ませて帰ってしまい、ひとりぽつんと広間に残されるのもご愛敬だ。とにもかくにも温泉とそれに付随するものを堪能してやまない。

特にめでるのが、野天の湯から仰ぐ満天の星空、あるいは折からの雨が湯を叩く音。人里離れた湯宿であるからこそ、川のせせらぎの音や、塵埃に満ちた巷のあれこれが眼に入ってこない風景が何よりの馳走だ。あと、一風変わった思い入れがある。スリッパがどうにもお気に召さない。誰が履いたか分からない代物に、せっかくの湯上りの足を入れる気にならない、というのは分かる気もする。だから、旅館で靴を脱いだ後、どうぞそのままで、とスリッパを並べていない宿は高評価である。

一夜明けたら、というか、まだ明けきらないしらじら明けには起き出して、ひと風呂浴び、その辺りを散歩するのがおすきなようだ。年寄りだから朝が早いのかもしれないが、夜と朝ではあたりの光景がまたひとしお違うこともある。旅館からの散歩には下駄をはく。カランカランと音のするのが好ましい。地面より少し高いところを行くのが快い。素足で履くのも結構だ。どこまでも素足が好きな人である。

四季別に八十余の温泉地を振り分けて、その良さを紹介している。ふだんはついつい、車に頼り、近場の日帰り温泉で、お茶ならぬ、お湯を濁している温泉好きにはちと敷居が高い気もするが、この歳になってから登山靴にリュックという山行もままなるまい。ここは、いっそバーチャルに温泉行を楽しむと決めた。本を読んで頭の中で思いを巡らす愉しさもまた、格別のものがある。そうはいうものの、いつかは本当に出かけてみたいと思わせる魅力的な湯がいくつもある。巻末に温泉一覧が付されているのも親切。やはり、出かけてみるか。

『ミッテランの帽子』アントワーヌ・ローラン

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80年代のパリを舞台にとった、往年のフランス映画を見ているような、小粋で洒落たコントになっている。近頃の小説は、どこの国のものを読んでも大差がなく、深刻で悲劇的、ネガティヴな印象を持つものが多い。時代が時代なので仕方がないこととは思うが、毎度毎度そんな話ばかり読んでいると気がくさくさしてくる。せめて本を読んでいるときくらい、クスッとしたり、元気を得たりしてみたいと思う、そんな人にお勧めの一篇。

ミッテランといえば、ある年代の人ならすぐ思い出すのが、元フランス大統領、フランソワ・ミッテランその人である。一度は選挙に破れるものの無事返り咲いて社会党政権を率いた世界のリーダーの一人だった。ルーブル美術館の前庭にガラスのピラミッドを作ったのも、新凱旋門を建てたのもミッテラン政権のときだった。これは、そのミッテランが大統領であった当時の物語。当然、帽子の持ち主のミッテランは大統領のことである。

昔話によく出てくる「呪宝」と呼ばれるものがある。樹々や鳥の話す声を聞くことができる「頭巾」(ききみみ頭巾)や、それを着ると姿が見えなくなる「蓑」(天狗の隠れ蓑)などがそうだ。力を持たない民衆のあこがれやはかない願望を託された、今ふうにいえば魔法のアイテム。この話の中では何の変哲もない黒いフェルトの帽子がそれにあたる。ただ一つ、それがそんじょそこらにある帽子とは帽子がちがう。裏の折り返しに金字でイニシャルが、F.M.と入れてある。ミッテラン大統領愛用の帽子である。

ブラッスリー、というのは元はザワークラウトなんぞをあてにビールを飲ませる店のことだったが、今では一流レストランやカフェも、ブラッスリーを名のる。予約を確認しているところから見て、この話に出てくるのは、かなり高級レストランだろう。なにしろ、隣の席で大統領が食事をしているというのだから。それにしても、SPもつけず、一般人と一緒に食事を楽しむとはさすがに左派の大統領だ。気さくさを宣伝する散歩に、SP で脇を固めるどこぞの首相とは大違いだ。

その大統領が店に置き忘れた帽子を手に入れたのが、ダニエル・メルシエ。ソジェテック社の社員である。人事問題でストレスを感じていた彼は新しい一歩を踏み出すためにこのブラッスリーを訪れ、この帽子に巡り会う。自分のもののような顔をして帽子を手にしたダニエルは意気揚々と我が家に帰る。その次の日からダニエルは人が変わったように会議で自分の意見を遠慮なく発表し始め、いつの間にかルーアン支社を任されるまでになる。

どうやら、この帽子はそれを手にする者の裡に秘められた潜在的な資質を表に出すため、背中をひと押しする役割を担っているようなのだ。ところが、ダニエルは大事な帽子をル・アーブル行きの列車の網棚に置き忘れてしまう。丁度降ってきた雨を除けるために、それを手にしたのがファニー・アルカン。本を読んだり書いたりするのが好きで作品を書きためている。現在は先行きの見えない既婚男性と不倫関係にある。

もうお分かりだと思うが、ファニーが帽子をかぶると、不倫相手は別の男のプレゼントだと勝手に思い込んで別れ話を始める。ファニーはファニーで、出て行った男に未練を感じることもなく、帽子と出会ってからの経緯を手持ちのノートに書きはじめる。やがてそれは一篇の小説となり、文学賞を受賞することになる。この調子で、帽子は次々とちがう人物の手に渡り、それぞれの人物の運命を変えてしまうことになる。

帽子を手にすることになるのは四人の人物で、あとの二人は香水の調香師と資産家のブルジョワである。天才的な調香師だったピエール・アスランはいくつかの名作を世に出したものの、ここのところは長いスランプに苦しんでいた。ところが、公園のベンチで二つの香水の薫りが混じりあった帽子を見つけてからは生活が一変する。道行く人の香水をあてるゲームもかつてのようにできるようになり、新作まで思いつく。

ブルジョア階級の夜会に退屈しきっていたヴェルナールは、ふだんなら聞き流していた会話にひっかかりを感じ、猛然と反論を始める。反動の人士が集まるその席では、大統領のことをミットランとわざと発音を替えてからかうのがならいだった。ところが、ブラッスリーでクロークが取り違えた帽子を渡されたヴェルナールは俄然ミッテラン擁護の論陣を張る。さらに翌朝、いつもなら右寄りのフィガロを買うのに、なんと左派のリベラシオンを買って帰る。

このヴェルナールの変貌ぶりが80年代フランスのブルジョア階級の暮らしと文化をカリカチュアライズしていて、アンディ・ウォーホルバスキアまで登場するパーティーのドタバタ劇がとことん笑わせてくれる。さらに、アメリカのTVドラマ『ナイトライダー』まで登場するのはご愛敬だ。当時フランスではテレビのチャンネルが限られていて、特別なチャンネルに加入しないと見られない番組があったらしい。

エスプリがきいた軽いタッチで洒落のめしながらも、勢いのあった80年代フランスの人々の日常スケッチを通し、料理やワインの蘊蓄を傾けながらもさらりと流し、最後には水の都ヴェネチアのカフェ・フロリアンで、帽子が大統領のもとに帰るまでをノンシャランに描いていく。軽い気持ちで立ち寄った店で思わぬ拾い物をしたような気にさせてくれる上質のフランス製のコントである。

『償いの雪が降る』アレン・エスケンス

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原題は<The Life We Bury>.。「私たちが葬る人生」とでもいうような意味で、こちらの方が中身に似つかわしい。というのも、主人公で探偵役をつとめるジョーも、彼が伝記を書こうとしている末期癌を患っている死刑囚カールも、ともに人には言えない過去を自分一人の記憶の裡に封じ込めているからだ。表題に込められているのは、もしかしたら救うこともできたかもしれない人の命をみすみす見捨ててしまったことを忘れ去ることができず、おめおめと今日の日を生きていることに対する罪障感だ。

ミネソタ大学で学ぶジョーにはジェレミーという十八歳になる自閉症の弟がいる。弟は母と一緒に暮らしているが、その母というのが躁鬱病で、しかも弟に暴力を奮うDV男と暮らしている。そんな家を嫌って家を出たジョーは酒場の用心棒のバイトをしながら大学に行っている。何かというと家を空ける母親に代わって弟の面倒を見なければならず、バイトも学校も思うように通うことができずにいた。

そんな訳で大学に来れたのは履修登録日ぎりぎりで、定員に空きがあった「伝記執筆」を選ぶことに。その課題が一人の人物にインタビューし、その伝記を書くというものだった。彼は近くにある老人ホームを訪れ、誰かを紹介してもらうことにした。そこで紹介されたのが、カール・アイヴァソンという、少女を強姦し、納屋に放火して焼死させた囚人だった。カールは末期のすい臓がんのため、仮釈放となり、獄舎を出てこの施設で暮らしていた。

未解決事件を扱うミステリは少なくないが、これはすでに裁判も済んで刑に服している囚人の無実を証明しようとする素人探偵の活躍を描く。同じ大学に通う男女の学生コンビが、過去の裁判の結果に疑問を感じ、死期の近い服役囚に無実の判決を得るため、無謀な挑戦を企てるというストーリーだ。いかにも若々しく、計画性のかけらもない、行き当たりばったりの展開を見せる。彼らの唯一の強みは、何十年もの時の経過による科学技術の進歩にある。

当時は、コンピュータといえば、軍事機密に使用されているくらいで、パソコンなどというものは庶民はおろか警察にさえ入っていなかった。さらには鑑定の決め手となるDNA鑑定も知られていなかった。しかし、証拠物件は保存されている。つまり、現存する該当者からDNAを採取することが出来さえすれば、当時は不明だった真犯人をあぶり見つけ出すことができるのだ。おまけに、暗号で書かれた日記の解明も、今ならコンピュータによって解読も可能である。素人の学生コンビでもホームズに勝る謎解きができるというもの。

しかし、謎解きの妙味はあまりない。いろは歌のアルファベット版のようなものがあって、ジェレミーが口にしたそれがヒントとなって、相棒のライラが難なく解読してしまう。どんでん返しというほどの意表を突く展開もなく、せいぜいちょっとしたミスディレクションが待っているだけ、というミステリとしてはあまり期待する部分がない。どちらかといえば、謎解きを扱う前半の「静」に対する、後半の犯人逮捕に至る「動」の部分の方に比重が置かれている気がする。

もう一つの謎は、カールという人物が何故犯してもいない犯罪に対して、無罪を訴えることをせず、さっさと判決を受け入れ、刑務所に入ろうとしたのか、ということだ。それには、PTSDなどと一くくりにすることのできない戦争に行った者にしか知り得ない事情があった。ベトナムで一緒に闘った戦友の語る戦場のカールは、仲間の命を救うために自分の命を投げ出すことのできる英雄だった。

そんな男が少女を強姦し殺すことなどありえないと戦友のヴァージルは言う。しかし、カールには他人には決して語ることのできない過去があった。ベトナム戦争という、アメリカの敗戦で終わる戦争には記録には残せない狂気の沙汰が蔓延していた。カールはその現場に遭遇し、葛藤しつつもどうすることもできずにいた。そして、その事実が彼を、戦場では当然である殺人ではなく、ある意図をもってする、殺害へと追い込んでいく。

人を殺すことについて、ミステリではたった一人の殺人もたいそう大ごとのように扱うが、いざ戦争ともなれば、ごくごく当たり前の若者が、無数ともいえる人々の命を奪う。国にいた人々も、それを命じた上層部も、戦争が終わればまるで何もなかったような顔をして平時に戻ることができるが、その手で人を殺した人間にとってはそうはいかない。カールもまた、長期の刑に服す中でそのことを考え続けてきた。

カールの考える神学論は、実存主義哲学に似ている。彼は死後に天国を待つことのできない身である。カトリック信者として自殺は論外だ。小児性愛者は刑務所のヒエラルキーの中では最下層に位置する。都合よく誰かに殺されるのを待っていたカールだったが、襲撃は未遂に終わり隔離されることに。考えあぐねた彼は、死後ではなく、生かされている「今」を天国だと考えるようになる。冤罪を晴らせるかどうかは、残り少ない時間との競争となる。

外連味のない真っ向から直球勝負のミステリ。解決に向かって爆走する若いジョーの愚直さに共感できるかどうかが鍵になるだろう。正直、この歳になると、もう少し隘路や回り道、寄り道といった逸脱がある方が助かる。後先考えずに一心に駆け続ける若者のパワーについていくのに息が切れる。これがデビュー作というから、余裕が出てくるのはこれからだろう。若い読者なら感情移入もたやすく、一挙に読みきってしまうにちがいない。最後に救いのある、爽やかな作風である。

 

 

『ブルーバード、ブルーバード』アッティカ・ロック

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輸入盤で手に入れたミシシッピジョン・ハートのレコードを擦り切れるまで聴いてフィンガー・ピッキングをコピーしていた頃を思い出した。『ブルーバード、ブルーバード』というタイトルは、ブルースの名曲から採られている。事実、文中にはライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカーの名前がたびたび出てくるし、主要な舞台となる、ラークというテキサスの田舎町にある掘っ立て小屋みたいなカフェ<ジェニーヴァ・スイーツ・スイーツ>では、いつもブルースがかかっている。

面白いのは、ハイウェイ五九号線を挟んだ向かいには、プア・ホワイトが集まってくる<ジェフの酒場>があり、そこでは、カントリー・ミュージックがガンガンかかっているというところだ。つまり、道路をはさんで黒人が安心して足を運べる店とレイシストの巣になっている白人専用の酒場とがにらみ合っている構図だ。奇妙なのは、<ジェフの酒場>のオーナーであるウォリーが、毎日のようにジェニーヴァの店に顔を出すことだ。店を売れというのが名目だが、どうやらそれだけでもなさそうに見える。

テキサス・レンジャーのダレンは、家の管理を任せている老人が絡む殺人事件の裁判に巻き込まれ、レンジャーを停職中。レンジャーの仕事を快く思っていない妻のリサとも別居中である。そんなとき、友人でFBIヒューストン支局の捜査官グレッグから、ラークで起きた事件の捜査を内密に依頼される。道路沿いのカフェの裏に広がるアトヤック・バイユーで立て続けに黒人男と白人女の死体が見つかった。グレッグの話では人種がらみの事件らしい。ダレンは愛用のピック・アップ・トラックをシェルビー郡まで走らせる。

オバマ大統領が誕生した時には、これで人種差別も解消に向かうかと希望を持った人々もいたが、トランプ政権発足により、事態は逆戻り。地方では、白人至上主義者の活動が活発化し、人種間の軋轢は以前より悪化していた。言い忘れたが、ダレンをはじめ主たる登場人物は黒人である。テキサス・レンジャーに黒人はめずらしいが、ダレンの伯父がその道を切り拓いた。ロー・スクール出身のダレンはもともと弁護士を目指していたが、ある事件をきっかけにレンジャー入りを決めた。リサとの不和はそれが原因になっていた。

白人の勢力が強いテキサスだが、自分たちの力で商売をしたり、農園を経営したりして成功した黒人は、その地にとどまり続けた。一方で、才覚のない貧乏白人たちは、地道に働いて資産を得た黒人層を嫉み、執拗な嫌がらせをすることで、鬱憤を晴らしていた。それが、今では白人至上主義者がギャング団を組織するところまで来ており、ダレンは気を揉んでいた。黒人男と白人女の相次ぐ死には、黒人男が白人女とつきあうことを憎む者たちの仕業を匂わすものがあった。ただ、男の死体が先に発見されるのは異例で、それが気になった。

ブルースとカントリー、黒人と白人という図式的な対比の構図をとりながら、妻に拒否される夫と夫に拒否される妻、という相似的な構図が用意されている。黒人の被害者マイケルは、シカゴで弁護士をしていた。その死を知って駆けつけたランディは有名な写真家で、家を空けてばかりいることが原因で夫との関係が壊れていた。ダレンとランディは置かれた立場こそ違え、冷えた夫婦関係を作った元凶という似通った境遇にある。事件を追う中で共に行動することで二人の関係がどうなるのかというロマンスの観点も加味されている。

必ずしもフーダニットが主眼ではなく、謎を追うダレンの前に、もつれにもつれ、からまりあう黒人と白人をともに包む大きな憎悪を孕む人間関係の相関図が広がってくる。現在の事件は単独で解決されるものではなく、その裏に隠されていた過去の未解決の事件が浮かび上がってくる。互いに敵対視し、憎悪しあう間柄であっても、男女間には愛が芽生えることもある。周囲に歓迎されることのない愛ではあっても、愛し合えば子どももできる。

白人と黒人の間にある桎梏と、そんなものに左右されることのない愛の交歓とが亀裂を生み、やがては殺人に至る原因となる。人を殺すことが、単に憎悪からではなく愛ゆえに起きることがあるのは知っている。人の感情というものはそんなに単純なものではない。それが悲劇の連鎖を生むのだ。夫と息子の墓参りをするジェニーヴァの場面からはじまるのには訳があった。若いジェニーヴァと、ひとりのブルース・ギタリストとの恋が、幾人もの人々の人生を狂わせてしまう契機になっている。

ハイウェイ五九号線に沿って延びるバイユー・カントリーを舞台に、黒人と白人との愛と憎悪の相剋を、ブルースの名曲をバックに、鎮魂の曲を奏でる『ブルーバード、ブルーバード』。安っぽい正義感や、男の生き様などというありきたりな解釈を寄せ付けない異人種間の熾烈な愛憎劇を犯罪捜査にからませながら、人間という存在のどうしようもない哀しさと、それでもなお愛するに足る姿を、上滑りすることなく真摯に追い求めたミステリ、というより、アメリカで黒人として生きることの緊張感を鋭く見つめた、読ませる小説である。

『橋の上の天使』ジョン・チーヴァー

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村上春樹が新しく訳したジョン・チーヴァーの『巨大なラジオ/泳ぐ人』がよかったので、「訳者あとがき」の中で紹介されていた川本三郎訳の『橋の上の天使』を探してきた。村上訳と、どこがどうちがうとはいえないのだが、いかにも川本三郎らしい文章で語られるチーヴァーの短篇は、村上訳のそれとはどことなく色あいが異なるのが面白い。それにしても忙しいお二人が自らの手で訳してみたいと思うほど、チーヴァーには魅力があるのだなあ、とあらためて思った。

「作家が好む作家(Writer’s writer)」といわれる、大人好みの小説を書くチーヴァーが、これまで書いてきた短篇六十一篇の中から選りすぐられた、当時本邦未訳の十五篇。村上氏は『巨大なラジオ/泳ぐ人』の「訳者あとがき」で、川本氏の訳と重ならないように考慮した、と述べていたが「さよなら、弟」と「父との再会」の二篇は川本氏の本にも採られている。どうしても外すことができなかったのだろう。訳しぶりの違いを読み比べてみるのも面白いかもしれない。

チーヴァーの短篇の特徴を川本三郎は「サバービアの憂鬱」とまとめている。<suburbia>とは、郊外居住者、もしくは郊外型の生活様式という意味だ。具体的には勤務先のニューヨークに電車で通勤可能なハドソン川沿いの郊外に住む白人のミドルクラス、あるいはその人々の生活様式を指す。さほど大きくはないが清潔な家に住み、芝生のある自宅にプールを持ち、週末はホーム・パーティーを開いて友人を招待しあうそんな人々である。

しかし、傍目には何不自由ない生活を楽しんでいるように見えるそんな人々も、人しれない疎外感や孤独に悩んでいる。自分も同じ境遇に育ったチーヴァーは、恵まれた立場にいる人々の心の奥底に潜む孤独や憂鬱を抑制のきいた文体で静かに語りかける。抑えの利いた筆致で剔抉されるその心の深淵は、アメリカの白人のミドルクラスの生活に縁もゆかりもない我々日本の小市民をも共感させずにはおかない。

八年前に楽しい時を過ごしたスキー場に再びやってきた一家を描く「小さなスキー場で」には、これっぽっちも救いがない。夫一人が空元気を装うが、娘は父から離れるとぐったり疲れているし、妻は妻で休暇を楽しんでいない。一度壊れてしまった家庭を再び取り繕うために、昔の思い出の場所を経巡る巡礼に出ているのだ。言い争う両親をよそにスキーに出かけた娘を惨劇が襲う。これほどまでに容赦のないチーヴァーはめずらしい。

「父との再会」は、良心の離婚以来、久しぶりに父に会う少年の姿を追う。息子を酒場に誘った父は、遜った態度を装いつつ、給仕に高飛車な物言いをする。それが災いして注文を忌避されると悪態をついて店を替える。どこへ行ってもその繰り返し。こういう輩はどこにでもいる。客なのだから、金を払うのだから文句があるか、という横柄な態度は、ふだんの鬱屈の裏返しだ。少年の視点で描かれているため、読んでいていたたまれなくなる。

定番の「クリスマス・ストーリー」も、チーヴァーの手にかかるとこうなる。「クリスマスは悲しい季節」の主人公チャーリーは高級マンションのエレベーター係。「メリー・クリスマス」と話しかける住人に「私には祭日ではないんです」と愚痴る。すると、同情した住人たちは、プレゼントやご馳走をチャーリーにくれる。彼は贈り物や酒や料理を下宿の女主人に持ち帰る。女主人はそれをもっと貧しい人々に持って行く。「最初は愛が、次に慈善の心が、さらに自分には力があるという自信が彼女を行動にかりたてた」とチーヴァーは書く。さらに勤務中の飲酒のせいで、チャーリーはクビにされる落ちまでつく。

「クリスマスは悲しい季節」などは、皮肉が効いてはいるものの、苦いユーモアも加味されている。エッセイや映画の評論では貧しい人々や底辺で生きる者に優しい眼を注ぐ川本氏だが、それ故にというべきか、ほとんどがアメリカに置ける支配階級であるWASP(ホワイト・アングロサクソンプロテスタント)を主人公にしたチーヴァーの作品の中から、かなり辛辣な作品が選ばれている。

家事に追われる妻に安心して頼り切っている夫が、突然妻に好意を寄せる男が現れたことに慌てる様子をシニカルに描いた「離婚の季節」や、たった一度の躓きに生涯責め立てられ、故国を追われることになる女性の悲劇を描いた「故郷をなくした女」。スポーツ万能だった男が寄る年波に勝てず、ハードルに躓くことで、自分のアイデンティティを喪失する「ひとりだけのハードル・レース」。ミステリアスに思えた人妻が自分の考えを口にしたとたん幻滅を覚えてしまう男の身勝手さを嗤う「貞淑なクラリッサ」等々、どれもチーヴァーならではの苦さが口に残る。

そんな中、突然橋を渡ることに恐怖を感じるようになった男の焦りと葛藤を見事に描写してみせる表題作「橋の上の天使」は、世界を喪失してしまったような不安と絶望の中に、まるで天使のように橋上に降り立つ女の子の出現が、一挙に世界を回復させる奇跡のような出会いを描いて、心温まる一篇になっている。女の子がフォーク・ソングを歌うときに奏でるハープは「厚紙のスーツケース」に入っているくらいだから、「五つの赤い風船」が使っていた、あのオート・ハープなんだろうか。弦の響きが耳に蘇るような気がして、とても懐かしかった。これを最後に持ってきた川本三郎の優しさに安堵した。

『何があってもおかしくない』エリザベス・ストラウト

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しっかり二度読み返した。とはいえ難しい話ではない。各篇に一人の話者がいて、ほとんどモノローグで、自分とそのすぐ近くにいる人々について語る、ただそれだけの話だ。特に何があるというわけでもない。貧しい暮らしを送ってきた中西部、イリノイの田舎町の人々の話である。田舎町の常として、人々はほとんどが知り合いで、一族の昔のことまでよく知っている。中には、人に知られたくないこともあるが、田舎人の楽しみというのは、他人に噂話をすることだ。それもひとかけらの遠慮もなく。

全九話。ひとつひとつが互いにどこかでつながっている。ひとつの話の中で話題に上る人物が、次の話の語り手を務めている。そうやって、多くの視点で多層的に語られることで、トウモロコシ畑と大豆畑とがどこまでも続く中西部にある田舎町アムギャッシュの佇まいや、そこに生きる人々のつましい生活が、鮮やかに、というのではない、薄汚く、わびしく、嫌らしく。それでいて、泥水の中にきらりと光る滑石のような、悲哀の底に沈む救いのようなものが最後に顔をのぞかせる。やりきれない話の集積の中、それが唯一の救いとなる。

九つの短篇をつないでいるのは、若い頃に町を出て行き、今はニューヨークに住む作家ルーシー・バートンその人である。立志伝中の人物というのは、こういう人のことをいうのだろう。子ども時代は相当貧しかった。父はベトナム戦争から帰って来ておかしくなった。いわゆるPTSDである。母親は仕立物をして一家を養った。子どもは三人。長男がピート、長女がヴィッキー、末っ子がルーシーである。

学校でもいじめられた。それでもルーシーは学校から帰りたがらなかった。その頃のことを用務員をしていたトミー・ガプティルは今もよく覚えている。巻頭を飾る「標識」は、そのトミーが語り手をつとめる。トミーは自分の酪農場が火事になり、借財を返すため土地を売って学校の用務員になった。トミーは時々一人暮らしのピートの家を訪れるが、ピートはそれを喜ばない。トミーの酪農場の火事は父の仕業で、トミーはそれを思い知らせるためにやってくるのだと思い込んでいる。

実は、トミーはずっと自分が搾乳機の電源を切り忘れたせいだと思っていた。ピートの父は仕事中手淫をしているところを雇い主のトミーに見とがめられたことを疎ましく思っていたのだ。トミーは火事に遭ったことを悔やんでいない。何が大切なのかを教えてくれた神の啓示だとさえ思うほどに。トミーは笑われると思って誰にも言っていなかったそのことをピートに話す。根っから善良なトミーの存在は、この田舎町の救いであり、この小説を静かに照らす灯りでもある。

人物相関図が必要と思えるくらい関係が入り組んでいる。まず、ルーシーの同級生でナイスリー姉妹の末娘パティは、高校の進路指導を担当していて、ヴィッキーの娘ライラに、子どもがいないことを性的な経験がないせいだと揶揄される。実は、夫は継父に性的虐待を受けて不能になり、パティはパティで母親が他の男と寝ているところを目撃して以来、性行為を嫌悪しており、夫婦仲はよかったが子どもはできなかったのだ。勢いでライラに汚い言葉を吐いたパティは翌日謝罪し、ライラもパティに心を開くようになる。

小説の深部で常に響いているのが、戦争後遺症であり、児童虐待であり、性的少数者の問題であることは論を俟たない。それが表面上に浮び上ることはないが、様々な要因が相乗的に積み重なり、とんでもないところで問題を起こす原因になっている。戦争にさえ駆り出されていなければピートの父もチャーリー・マコーリーも、性に溺れたりせずにすんでいただろう。すっかり変わってしまった夫の扱いに疲れた妻は子どもに辛くあたり、ルーシーたち兄妹は虐待に近い扱い受ける。

パティの姉のリンダや、パティの同僚で仲のいいアンジェリーナの家族の話も挿まれ、ルーシーたち兄弟と同じく貧しい暮らしをしていたメイベルとドティー兄妹も立派になった姿を見せている。ゴミ箱の中に入り、まだ食べられる食べ物を漁っていたメイベルは今では空調会社の社長に収まっている。ドティーはB&Bの経営者だ。二人の逸話も味わい深い。ルーシーとの距離の遠近により、語られる内容の深さや軽さに変化があって、深刻になりがちな話の中で程よいバランスを保っている。ただ、その中にもやはり性的抑圧は姿を覗かせている。どこまでいってもそれはついてくるのだ。

アムギャッシュに久しぶりにルーシーが帰ってきて、三人兄妹が再開する話が「妹」。視点人物は兄のピートである。有名人になった妹を出迎えるために、ふだんしたこともない掃除をし、ラグまで買いに走る兄が微笑ましい。しかし、兄や姉の昔話を聞くうちにルーシーはパニック発作を起こしてしまう。会いたくて帰っては来たが、帰郷は蓋をして覆い隠していた過去を一挙に引きずり出してしまう。作家となった今でも、ルーシーは真実に向き合うことができない。ルーシー・バートンの思いもかけない脆さが痛々しいが、ピートやヴィッキーの真情が垣間見え、読んでいてうれしくなる。読者にとって、ルーシーが実在するようにピートもヴィッキーも生きているのだ。

ニューヨーク・タイムズ』紙の書評がうまいことを書いている。「なぜストラウスを読むかと言うと、その理由はレクイエムを聴くのと同じだ。悲しさの中にある美しさを経験する」。そういう小説世界が好きなら絶対にお勧めである。いうまでもなく『私の名前はルーシー・バートン』の続編、いわば姉妹編である。『史記』でいうなら「本紀」に対する「列伝」。短篇集ながら、フォークナーのヨクナパトーファ・サガにならって「アムギャッシュ・サガ」の誕生と呼びたい。『私の名前はルーシー・バートン』を読んでから読むと面白さは倍増する。

 

『ライオンを殺せ』ホルヘ・イバルグエンゴイティア

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この国は今や独裁国家である。ちょっと前まではラテン・アメリカ文学によく登場する独裁者小説を面白がって読んでいたけれど、今では面白がってなどいられない。何もちがわないからだ。日本は民主主義国家で、人権が保障されている先進諸国の仲間入りを果たしていると思っていたのは、つい昨日のような気がするが、報道の自由度を見れば一目瞭然。クーデターを起こした連中がまず最初にやるのは報道機関を押さえることだ。現政権はそれを銃ではなく、寿司や焼き肉で可能にしたのだからたいしたものだ。

マスメディアさえ押さえてしまえば、あとは御用学者や幇間タレント、三文文士を使って、嘘をばらまけば、大衆は為政者の言うことを嘘ではないかと疑いながらも周りを見ながら、皆信じているのだからそれが本当なのだろうと思うようになる。一度そうなったら自分を守るために、そっちの側に加担する。批判者が出れば皆で叩く。そうして、真実でないものが大勢を占め、独裁政権は盤石となる。それが独裁国家というものだ。

一度そうなってしまえば、政府側の人間のやることをいくら批判しようが、独裁なのだから三権分立などないわけで、いくら悪いことをしようがおとがめなし。以前なら新聞やテレビが騒いで、世間を鎮めるために泣いて馬謖を斬る必要もあったが、今では頬冠りして時を待てばいい。ほとぼりが収まったところで、減税で恩を売った企業に天下りさせたり、政府に都合のいい事実を提供する名ばかりの第三者機関の長にするなどやりたい放題だ。

そうなってしまえば、いくら国会で追及しようが数の力で押し切られ、何の解決にもならないのはここ数年で嫌になるほど知らされた。選挙でどうにかなるのは、独裁国家となるまでのこと。選挙も金次第でどうにでもなる。一度箍がはずれた桶からは、水は駄々漏れだ。いろいろなところで信じられない不正や汚職、文書の改竄が起きるのも、漏れだした汚水と考えればよく分かる。さて、こんな国をどうすればいいのか。

表題の「ライオン」は独裁者のことである。我が国のようなソフトな独裁国家では独裁者は必ずしもカリスマ的なマッチョである必要はないが、マチスモが一般的なラテン・アメリカ諸国では、軍事的独裁者は強くなければならない。その点、独立戦争における活躍で「英雄少年」と称された現大統領、陸軍元帥ドン・マヌエル・ベラウンサランは、まちがいなしの「ライオン」であった。なにしろ、沖合の燧石島にある砦に立て籠るスペイン軍を急襲するのに、マチェーテ(山刀)一振りを口にくわえて裸で海を渡り、敵を全滅させたくらいだ。

アレパの現行憲法では再選が禁じられているベラウンサランは大統領選に右腕のカルドナを出馬させた。その対立候補である穏健党のサルダーニャの死体が海から引き揚げられるところから話は始まる。殺ったのはベラウンサランと分かっているが、その本人から捜査を命じられた警察は別の犯人を仕立てて銃殺する。権力者が無理を通せば、周辺にいる者がその無理を通すために、その何倍もの無理を通さなくてはならぬのはこの国に住む者ならよく知っているはずだ。

希望を断たれた穏健党の同志は、海外に移住して一流大学を出たペペ・クシラットを次の候補として選ぶ。三か国語を話し、乗馬もゴルフもすれば、鹿も撃ち、飛行機も持っている。三十五歳という若さも魅力だ。「飛行機で来てくれれば、選挙戦の勝利は間違いない」というのが笑わせる。アレパでは誰も飛行機を見た者がいないのだ。狭い島国である点でアレパは日本に似ている。国民は広く世界を知らず、また知ろうともしない。自分たちにないものを持っているというだけで憧れは賞賛に替わるのだ。だからあんなに外遊ばかりするのか。

お祭り騒ぎで待ち受ける島民の前に姿を現したクラシットだが、大統領と会ってみて、立候補は見送ると決める。国民は大統領を選ぶと踏んだからだ。クラシットに期待していた穏健党のシンパで富裕層のベリオサバル家の妻アンヘラは落胆する。クラシットはアンヘラに真意を打ち明ける。大統領を殺す、と。そう、たとえ、どんな悪党であろうと民意をつかんだ現職を相手に落下傘のように舞い降りた候補者が勝てるはずもない。しかし、法を改悪してまで現職にしがみつく独裁者を放置できない。ならばできることは、殺すことだ。

この小説は、大統領暗殺の計画が、何度も挫折するのをコミカルかつアイロニカルに描いてみせる。肥って来てはいるが、ベラウンサランは今でも燧石島陥落記念日にはかつてのように泳いで海を渡って見せる。民衆はその姿に歓喜する。それに比べ、穏健党の同志たちは、口ばかりの日和見主義で全く頼りにならない。頼みのクラシットもせっかくベラウンサランに弾を撃ち込みながら、防弾チョッキのせいで、傷を負わせることもできない。その挙句、かえって追われる身になる。

地の文の文末が現在形で終わっているので、戯曲のようだと思ったら、もともと映画の脚本として書かれたらしい。それもあるのだろう。三人称客観視点で通されていて、話者は登場人物から等間隔の距離を置き、特定の人物に寄り添うことがない。人物は突き放され、舞台の上で右往左往しているのだ。そんな中、意外な人物が最後に脚光を浴びる。颯爽と登場した貴公子然としたクラシットを助けたのは、貧乏教師のペレイラだった。

金にも教養にも恵まれた一流人士がなしえなかったことを、ヴァイオリンが弾けることだけが頼りの全くマッチョらしからぬ貧乏教師が最後に思いもよらぬ働きをしてみせる。この結末には強烈なアイロニーがある。政治的なイデオロギーも、選ばれた階級であるエリート層の使命感も、そんなものは何の頼りにもならない。事を起こすのは一人の人間に突然降りてきた何かをしなければという思いである、というのが結論なのだから。

ラテン・アメリカ文学というと途方もない奇想や奔放な出来事が次々と襲いかかるマジック・リアリズムを期待するかもしれないが、これはそういう種類の小説ではない。むしろ、端正な戯曲のような小説だ。それでいて、映画の脚本らしく、急ごしらえの飛行場に着陸するブレリオや、ベリオサバル家のパーティーの場面、闘鶏場に向かう大統領の車を襲撃する場面など、映画的な興趣に富む場面もふんだんに用意されている。後に映画化されてもいるようだ。独裁政権とどう立ち向かうか、我が身と引き比べながら読むと一段と味わい深い。