青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『スティール・キス』ジェフリー・ディーヴァー

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四肢麻痺の車椅子探偵が活躍する、リンカーン・ライム・シリーズの最新作。ライムの弟子で同じく車椅子生活を送る若い女性ジュリエットも新しく仲間に加わる。視点人物がころころと目まぐるしく交替するが、その中には「僕」と名のる殺人者も登場する。犯人が自分のしていることを自分で語ってしまっているので、映画ならともかく、謎解き興味で引っ張ってゆくミステリ小説にはどうかと思ったが、やっぱり最後にはお得意のどんでん返しをくらってしまった。しかも、ライムと助手の二人の車椅子に乗る人物しかいないところを犯人が急襲するという、絶体絶命の危機まで用意されている。

犯人は冒頭から姿を見せる。身長は高いが痩せていて、特徴的な体つきが目撃者の印象に強く残るからだ。スターバックスでサンドイッチを食べているところを挟み撃ちにしようとしたところで、思いがけない邪魔が入る。エスカレーターの最上階にある乗降板がなぜか開き、男性がそのピットに落ちてしまったのだ。モーターの回転が止まらず歯車が男の腹を巻き込んでいくのが止められない。犯人を見張っていたアメリア・サックスは、救出のためにピットに入るが、出血多量で男は死亡、そのすきに犯人は逃亡する。

アメリアは被害者家族のために裁判に持ち込んで保証を勝ち取ろうとライムに協力を依頼する。早速エスカレーターの実物大模型をタウンハウスに持ち込み、誰に責任を追及すべきか機械を詳しく分析するライムとそのために休暇を取らされた市警の鑑識官メル。しかし、その間にも連続殺人犯、未詳40号は、次々と犯行を重ねる。いつもなら、ライムのタウンハウスでディスカッションしながら犯人を追えるのだが、ライムは無実の男を結果的に死なせた件で市警を辞職した身だ。アメリアは、ライムの協力なしに犯人を追わねばならない。

はじめは別々の事件を追っていたライムとアメリアだが、二つの事件に接点ができる。未詳40号が捕まりそうになった時、突然エスカレーターの事故が起きたのではなく、犯人は事故の仔細を見るためにその場にいる必要があったのだ。ライムたちの調査でエスカレーターに使われていたコンピュータ製品がハッキングされていたことが分かる。最初に頭がい骨を丸頭ハンマーで砕かれていた被害者が、それをハッキングしていた男で、未詳40号は、その技術を盗むために近づき、まんまと手に入れると殺してしまったのだ。

「僕」は、学校時代からその外見のせいで仲間にいじめられ、反社会的な考えを持っている。すぐにかっとなる性格でバックパックにはいつもハンマーを持ち歩いている。しかし、手先は器用で、ミニチュアの家具を作りネットで販売もしている。「僕」は、執拗に自分に迫るアメリアを憎悪し、手をひかせるためにアメリアの母を襲う計画まで立てる。それはジュリエットの機転で何とか回避されるが、事件にはまだまだ隠された真実があった。

コンピュータの汎用部品がどの電気機器に使われているかをネットに侵入して調べ、それをハッキングする。例えば自動車が勝手に暴走を起こして止められなくなる。今の時代ならいつ起きても不思議でないような犯罪である。電子機器を使った一つや二つの家電は誰でも持っている。それが悪意を持つ者の手に渡ったら、という恐怖は、残虐な犯罪を行うシリアル・キラーよりも、もっと身近なところにある恐怖だ。

本筋の事件が次第に暴かれていくその合間に、アメリアのかつての恋人で服役していた元刑事のニックとの再会がある。強盗の真犯人は弟で、弟を護るために罪をかぶったと言われるとアメリアの心は揺れる。今はライムとつきあっているアメリアとしてはニックのことをライムには相談できない。二人の間にわだかまりが広がっていく。それだけではない。ライムがルーキーと呼ぶ巡査のロナルドは許可も得ず勝手な潜入捜査を始める。理由はライムが市警を辞めることになった事件の再捜査だ。死者が罪を犯していたことを知れば、ライムが考えを変えるのではと考えたのだ。

こうして同時多発的にいろいろな場でアメリアやライムを巻き込む事件が発生し、それらが絡み合いながら最終局面に向かって進んでゆく。この辺の展開はさすがに堂に入ったもので、あれよあれよと思って見ているうちにとんでもない事実が判明する。一見無関係と思われた連続殺人事件の被害者を結ぶ線があった。なるほど、この方向へ持って行くための伏線だったか、とうならされた。あっと驚くどんでん返しは、それまでサイコパスにしか見えなかった未詳40号の印象さえすっかり変えてしまう。

シリーズ物は毎回登場する顔なじみに出会う愉しみがある。今回はそれに、また有力なメンバーが新加入した。「動」のアメリアに対する「静」のジュリエット。ライム相手に一歩も引かず、堂々と自分の意見を述べるジュリエットはこれからますます力を発揮するにちがいない。アメリアとライムはどうやら結婚も間近のようだし、このシリーズ、何かと目が離せない。

『嘘の木』フランシス・ハーディング

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種の起源』の発表から数年後のヴィクトリア朝英国が舞台。人のつく嘘を養分にして育つ「嘘の木」という植物が実際に登場するので、やはりファンタジーということになるのだろうが、なぜかミステリ業界で評判になっている。今年の第一位という評さえあるくらいだ。そうまで言われると読んでみたくなる。お約束のどんでん返しもあるし、謎解きの妙味もある。主人公の娘フェイスが持ち前の好奇心を武器に、父の死の真相を探るという立派なミステリになっている。

フェイスの父エラスムスは、牧師というよりも高名な博物学者として知られていた。ところが、あろうことか、エラスムスが発見した化石が実はねつ造されたものだという事実が新聞報道され、一家はケントの牧師館を追われるようにして去り、ヴェイン島に向かう。島の洞穴の発掘作業に招待を受けたのだ。スキャンダルから一時身を隠すには絶好の機会だと義弟が勧めるので、とるものもとりあえず船に乗ったのだった。

はじめは歓待されたサンダリー家だったが、ねつ造の件を伝える新聞は島にも届き、島民は手のひらを返したような態度をとりはじめる。そんなとき、父が不審な死を遂げる。父が大切に世話をしていた鉢植えの木を隠すため、フェイスが偶然見つけた洞窟に父を案内した後のことだ。父の死体は崖に生えた木にひっかかっていた。後頭部には傷があり、近くには死体を運ぶのに使われた手押し車が放置されていた。

問題は一家に対する島民の反感の強さだった。死因が自殺ではないかと疑われ、審問が終わるまでは遺体を墓地に埋葬する許可が出ない。フェイスは父の死は自殺ではなく、誰かに殺されたものと考え、捜査を開始する。手がかりは父の残した手記の中にあった。それには「偽りの木」を手に入れた顛末が書かれていた。それを育てるには嘘を聞かせねばならず、大きな実を成らせるためには大きな嘘が必要になる。そして、その実を食べることで真実を告げるヴィジョンを見ることができる。

ダーウィンによる『種の起源』の発表は、神は自分に似せて人類を創造したという説を真っ向から否定するものだった。肩に翼をもつ人間の化石のねつ造は、エラスムスが、人間誕生の真実を幻視するための大きな嘘だったのだ。秘密を知ったフェイスは、自分も嘘の木の実を食べてみる。それによって父の死の真相を幻視しようというのだ。ヴィジョンによる探偵というのは本格探偵小説の世界ではタブーである。しかし、ヴィジョンは暗示するだけで、いわば夢のお告げのようなものだ。事実を暴くには探偵が体を張るしかない。

嵐の晩には洞窟を通る風が吠えるような声を響かせる絶海の孤島。ランタンの灯りだけを頼りに小舟で渡るしかない岬の洞窟。自殺者は杭を打って分かれ道の辻に埋めるという因習に凝り固まった島民の敵意。そこへもってきて、ヴィクトリア朝の女性蔑視や子どもと大人の女性との間の年頃でどっちつかずのフェイスの年齢が持つ曖昧さが厄介になる。博物学者になりたいというフェイスだが、弟は寄宿学校に入れてもらえるのに、フェイスにはその選択肢がない。

フェイスの母マートルや郵便局長のミス・ハンター、その他の女性を描くことを通して、ヴィクトリア朝という時代設定を単なる飾りではなく、女が自立して生きるにはいかに困難な時代であったかをしっかり描いているところが特徴である。夫を立てるふりをしながら、実際は男がうまく動けるようにその環境を整え、手配するのが妻の仕事。そのためには、媚を売るくらいのことは、平気でやるのがマートルだ。はじめは母のことが嫌でたまらなかったフェイスが次第に母を見直すように変わっていく。

真犯人を探すための手がかりは、はっきり書かれている。視点人物はフェイスに限られ、彼女の知り得た事実は読者も共有できる。ファンタジー風味は極力抑えられ、伏線の張り方やフェアな叙述はミステリのそれである。周りを海に囲まれた島で、エラスムスを犯行現場に呼び出す手紙を書けたのは発掘作業に関わっていた者でしかありえない。フェイスは幽霊騒ぎや、偽のノートといった奇手を使って、犯人に揺さぶりをかけるのだが、やっと分かった真犯人は意外な人物だった。このどんでん返しがよく効いている。

犯人を見えなくさせているのが、物理的なトリックでなく、心理的なトリックであることがミステリ評論家に受けをよくしているのかもしれない。19世紀という時代そのものがトリックになっていると言っていい。「嘘の木」という仕掛けが、さして嘘くさく見えてこないのも、まだまだ人類が他の動植物と同じく、神の創造物であるという、いまとなっては戯言とも思われる考えが大手を振って歩いていた時代の話になっているからだ。あれこれと悩みながら、自分のアイデンティティを確立してゆく主人公に共感できる世代に勧めたい。

『スパイたちの遺産』ジョン・ル・カレ

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『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の二作を読んでから読むことを勧める書評があった。訳者あとがきにも、同様のことが書かれているが、それはネタバレを恐れての注意。二作品を読んでいなくてもこれ一作で、十分楽しめるので、わざわざ旧作を掘り返して読む必要はない。ただ、これを読むと、前の二作を未読の読者は、おそらく読みたくなると思うので、読めるなら先に読んでおくといいだろう。

数あるル・カレのスパイ小説の主人公として最も有名なのが、ジョージ・スマイリー。眼鏡をかけた小太りの風采の上がらない中年男だ。ただし、現場から寄せられる真贋の程の分からぬ数多の情報を重ね合わせ、比較し、齟齬や遺漏を想像力を駆使して精査し、仮説を立て、読み解いていく能力はずば抜けている。スパイにも色々いるが、スマイリーは何よりも知性派で、冷静にして沈着。仲間や部下からの信頼も厚い。敵にすると厄介な相手だ。

そのスマイリーが息子のように接する若者がピーター・ギラム。もちろん、先に挙げた二作にも登場する。ただし、それほど重要な仕事はしていない。サーカスと呼ばれる情報部の中に保存されている資料を、そこを追われ、自由に見ることのできないスマイリーのために盗み出してきたり、スマイリーのための運転手をつとめたりする、要は手足となって働く、最も信頼のおける助手という立場。

『寒い国から帰ってきたスパイ』の主人公アレック・リーマスの友人で、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の中では、ジョージの片腕として、サーカスに潜入中の二重スパイの割り出しを手伝ったピーター。他の重要なメンバーと比べると歳が若く、今までそれほど重視されてこなかった。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を原作とする映画『裏切りのサーカス』でピーターを演じたベネディクト・カンバーバッチの人気にあやかった訳でもないだろうが、ここにきて一気に主役に躍り出た。

今は退職し、ブルターニュ年金生活を送っているピーターにサーカスから呼び出しがかかる。本来ならジョージに声がかかるはずのところ、行方がわからないためピーターの出番となった。かつて彼らが関わった作戦の犠牲者となったスパイの遺児が、情報部相手に訴訟を起こした。当時を知る関係者としての協力要請だが、平たく言えば尋問である。作戦というのは、ベルリンが壁で分断されていた時代、東独の情報部(シュタージ)に属する大物スパイを二重スパイとして使う案件で『寒い国から帰ってきたスパイ』はそれを扱っている。

当時、それを担当していたのがアレック・リーマス。原告はリーマスの息子。サーカスの判断の誤りが父親を殺したというのが、その理由だ。保管されているはずの大量の資料がサーカスから持ち出されており、裁判に勝つためには、まずその資料探しから始めねばならなかった。ピーターには資料の無断持ち出し容疑がかかっていた。はじめは渋ったピーターも徐々に重い口を開いてゆく。それは忘れようにも忘れられない苦い思い出だった。かつて愛した女性の死がからんでいたからだ。

こうして、回想される過去の出来事と、自身のスパイとしての在り方を振り返る現在が交互に語られる。複数の時間にまたがる回想視点と現在時の語りが絶妙に絡み合い、スパイという特殊な任務に就いた男女の通常でない心理や情愛の葛藤が描き出される。リーマスやその恋人が操り人形だとしたら、それを動かしていたのはジョージだ。そしてピーターは人形に結びつけられた糸だった。これは『寒い国から帰ってきたスパイ』の世界を、当時、事態を裏で動かしていた立場の者の視点で書き表した小説だ。
目的のためには手段を選ばず、時と場合によっては相手が友人であっても素知らぬ顔で足元をすくい、持てる魅力を最大限に駆使して純情な女性をスパイの愛人に仕立て上げる。いったい何のために、という問いは使命の前に押し殺してきた。それでも、胸の中には悔いや憾みがいつまでも残っている。尋問に用意された机の上に山のように積み上げられた資料が老いたスパイの心をえぐり、回想視点で語られる若いピーターの葛藤が生々しく甦る。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』で、「もぐら」と呼ばれる二重スパイによって散々な目にあわされたサーカスのその後が描かれているのも興味深い。かつてのサーカスの記憶を手繰り寄せるピーターの視線が、現場を離れた者にありがちな懐旧的視点によって語られるのも共感できるところ。旧世代の目には今の情報部が形式主義に走り過ぎているように見える。隠された書類を見つけようと部屋中を引っ掻き回しながら、廊下に置かれた自転車を見逃すのがそれだ。情報化社会に慣れた今のスパイには紙の資料をどこに隠すかといったアナログな視点がそもそも欠けているのだ。

過去の作品を素材にとり、再度別のアングルから描き直すとともに、歳をとった当人に若い頃の自分を振り返らせる試みが功を奏している。過去のしがらみから解き放たれることのない老スパイの追想には英国情報部に籍を置いていた作者の心境が反映されているのかも、と考えたくなる。細々とした報告書やメモを通して、隠された事実を前面に引き出してくるのがル・カレの真骨頂。報告書の客観的な叙述と裏腹に、書き手のみが知る、語られることのなかった真実が赤裸々に告白される、その対比が鮮やかだ。余韻の残る終わり方にも好感が持てる。

『ふたつの人生』ウィリアム・トレヴァー

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アイルランドを舞台にした「ツルゲーネフを読む声」と、イタリアを舞台にした「ウンブリアのわたしの家」という中篇小説が二篇収められている。どちらも主人公が女性。『ふたつの人生』という書名は、この二人の人生を意味している。作者のウィリアム・トレヴァーは短篇小説の名手として知られている。短篇では、いろいろな人々の人生のある局面を鮮やかな手際ですくい取るその切り口と人間観察の鋭さにいつも感心させられるが、中篇には、また別の魅力がある。

かなり長い時間をかけて一人の人間の人生を追うことになるので、単調にならないように構成が工夫されている。「ツルゲーネフを読む声」では、小説内に二つの時間軸が設定されている。一つは、主人公に結婚話が舞い込むところから。もう一つは、それから四十年たって、施設で暮らしていた老嬢が、もと居た家に帰ることになり、夫が迎えに来るところから始まる。

読めば分かることなので明かしてしまうが、老嬢は主人公メアリー・ルイーズと同一人物。つまり二つの時間は過去と現在を表している。同時進行する二つの話を読み比べながら、読者はメアリー・ルイーズが何故、精神病院に入ることになったのか、その理由をまだ若かったころのメアリー・ルイーズの物語から探ろうとするにちがいない。それが、作家が読者という、長い小説に気乗り薄な馬に、先を急がせるために鼻先にぶら下げた人参である。

メアリー・ルイーズの夫エルマーは悪い人ではない。妻を愛しているし、勤勉でその暮らしぶりも質素である。ただ、かつての名家も今は落ち目。同居する二人の姉は未婚で跡継ぎが生まれなければ家は遠縁の手に渡ることになる。家柄にプライドを持つ姉たちは農家の娘との結婚を認めたがらず、事あるごとに嫁に辛くあたる。エルマーは二人の姉に頭が上がらず、充分に妻を守ってやれない。メアリー・ルイーズにとって店の休みの日曜日、自転車に乗って実家に帰ることだけが心の慰めだった。

結婚することは別の家族の一員になること。町で商売をする家と農場を営む家とは世界がちがう。新しい世界に受け入れられず、自らも溶け込むことができないメアリー・ルイーズが見つけた自分だけの世界というのが、いとこのロバートが朗読してくれたツルゲーネフの小説の世界だった。ようやく心が通じる相手を見つけたメアリー・ルイーズを更なる不幸が見舞う。もともと病弱だったロバートの早過ぎる死だ。

どんどん自分の世界に入り込んでゆくメアリー・ルイーズと、その隠された秘密を知ることのない周りの人々との間に目に見えない高い塀のような物が積み上げられていく。塀の内側にはメアリー・ルイーズの愛する物が集まり、聞こえて来るのはツルゲーネフの小説世界。人物の名はみなロシア風だ。塀の外では現実のアイルランドの生活が営まれる。小説の世界の中では主人公の奇矯な振舞いの理由を知る者はいない。ただ、読者は知っている。この登場人物は知らないが、読者は知っているというところがミソだ。

メアリー・ルイーズが創り上げた世界は完全な虚構の世界である。傷つきやすい柔らかな内部に入り込んだ異物を、分泌物で包むことで、自分が傷つかないような球状に作り上げてゆく真珠貝のように、メアリー・ルイーズは精神病院に入ることで自分一人の世界を守り続けた。そして、病院を出た後は、現実の世界の中にそれを位置づけようと策略を巡らし、それを成功させるはず。虚構の中に人間の真実を描き出すことにかけて、作家ほど長けた人はいない。メアリー・ルイーズという人格は小説家の隠喩かもしれない。

「ウンブリアのわたしの家」は、ロマンス小説の作家が主人公。ひと口には言えない人生を送ってきたエミリー・デラハンティは五十六歳でイタリアのウンブリアに家を買う。ホテルに泊まれない旅行者に宿を提供するペンションのようなものだ。そして、夜はロマンス小説を書いている。そのエミリーがミラノに出かけた帰り、列車内で爆弾テロに遭う。多くの死傷者が出た。彼女も怪我をしたが、幸いなことに助かった。ただ、書きかけていた小説は頓挫した。あれほどあふれ出ていた言葉が出なくなってしまったのだ。

彼女は同じ事件で傷ついた三人の客を自分の家に招待する。退役した将軍は妻と娘とその婚約者をなくした。オトマーというドイツ人の青年は片腕と恋人を失った。エイミーは両親と兄と言葉を失っていた。悲劇に見舞われた者同士が寄り添い、時間をかけて回復していこうと思ったのだ。そうした中、孤児となったエイミーの叔父というアメリカ人学者リバースミスがエミリーの家にやってくる。

ロマンス小説の作家である主人公は他人の感情や思考を読み取ることができると思い込んでいる。その過剰な思い入れは、他人の事情を勝手に作り上げてしまう。そんなエミリーとリバースミスの実務的な気性とが真っ向からぶつかって起こすちぐはぐさが尋常でない。視点はエミリーに寄り添っているので、ややもすれば、エミリーの語ることを信じたくなるのだが、どこまでが彼女の想像で、どこからが真実なのか読者には知ることができない。もしかするとすべてが妄想かもしれないのだ。

なにしろ、彼女の頭の中ではテロ事件を起こした、まだ見つからない犯人はオトマーで、時限爆弾は恋人がイスラエルに持ち込む荷物の中にあったことになっている。この「信頼できない語り手」という方法を最大限に生かすことで、この小説は成り立っている。主人公の作家の口を通じて、小説がどのように書かれるかが詳しく語られるのだから、これはもしかしたらウィリアム・トレヴァーの創作方法と重なるのかも、と思いかけて、いやいや、その手に乗るものか、と思い直した。なにしろ、語り手は妄想を膨らませる名人なのだ。

トレヴァーが亡くなったと聞いた時、ああ、これでもう作品が書かれることはないのだなとがっかりしたものだが、未訳の作品がまだあるらしく、同じ訳者によって準備されているという。新作が読めないのが残念だが、また読めるのはありがたい。これからも楽しみに待ちたい。

『光の犬』松家仁之

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北海道の東部、サロマ湖や網走で知られる道東の小さな町、枝留(えだる)が舞台。そこに暮らす添島家三代の年代記である。その中には共に暮らす北海道犬も含まれる。ただ、犬の方は血筋は一つではない。一族が北海道に渡ったのは関東大震災に見舞われた夫婦に、よねの師匠の産科医が枝留行きを勧めたからだった。枝留は薄荷の輸出が盛んだった。夫の眞蔵は枝留薄荷という会社の役員、よねは家の一部を使って産院を開く。 

よねは一枝、眞二郎、美恵子、智世の四人の子を生んだ。眞二郎は枝留薄荷に勤めていた登代子と結婚し、家を継いだ。二女の恵美子は離婚して家に戻ったが、二人の姉妹は結婚しなかった。三人姉妹は棟割長屋のように改築した実家で暮らす。所帯は別だが、小姑が三人もいることになる。おまけに夫は始終姉妹の家を訪ねてしゃべってくるくせに家では仏頂面をしている。妻の登代子は次第に夫と口を利かなくなる。 

添島家には歩と始の姉弟が生まれる。活発で聡明な姉と内向的な弟は外見はよく似ていても全くちがっていた。姉には枝留教会の牧師の子で同級生の一惟という友達ができる。絵と音楽という共通する才能もあって、同じ大学に通う話もあったが、歩が札幌にある大学を選んだことで、京都の神学部のある大学に通う一惟とは距離ができた。枝留に帰ったとき以外は手紙のやり取りが続く程度の関係だった。 

目まぐるしく入れ替わる視点は、添島家の人間だけでなく一惟や始の妻と思える人物にも及び、語られる場面はいくつもの時点を行き来するので、いつ誰が語っているのかをいちいち確認するのに骨が折れる。こうまで煩雑な語りにする必要があるのだろうか。それだけではない。そこから先に広がることも、誰かの挿話とからまることもないエピソードが尻切れトンボのように撒き散らされ、まるで収拾がつかない。 

たしかに現実はそうしたまとまりのない事実の総和で成り立っているのだが、一篇の小説としてはその中で完結していると思いたい。そのような作家的な配慮はあらかじめ想定されていないようだ。むしろ、参考文献が付されているので分かるが、物理学を研究する歩が講義で出会うニュートンハッブルについてのエピソードや、よねの師匠である産科医の経験から生み出された練達の産婆術など、作家には書きたいことが多すぎるほどあったようだ。 

しかし、小説としては、それまでのものより厚みを増していることもまちがいない。どちらかといえばスタイリッシュで、出てくる音楽や料理などへのこだわりが主人公の身辺に垣間見るのが松家仁之の持ち味だったが、それらを幾分か抑え、どこにでもある家族間の感情的なすれちがいや軋轢に重点を置いている。ファンにとっては目新しくもあるが、それが受け入れられるかどうかは賭けのようなものだ。 

添島家の三人姉妹と登代子との顕わにされることのない闘争などは、日本の家族を書く上で、映画でも小説でもなじみの深い主題であり、さほど目新しいものではない。わざわざそれを持ち込んだのは、歩や始の人間形成にそれがどういう影響を与えたかの説明であろう。それにしては、多すぎるほどスペースが割かれている。その中でよねの逸話には添島という家族の根源が露呈されているようにも見え、ここだけは必要だったと思える。すべてはそこから始まっているのだ。 

医学を志すほどの力を持ちながら、家庭の事情で産婆となった祖母は、自分のすべてをそれに賭けていた。家庭の主婦であるよりも他人の子を無事にとりあげることが自己実現の手段だった。夫はそれが不満で他所に女をつくり、家をないがしろにした。よねは自分の子にも時間を割くことがなかった、今でいえばキャリア・ウーマンの先駆けだったのだ。それが子どもたちに何らかの影響を与えたのかもしれない。 

小説の主要なパートを受け持つのは歩である。将来を嘱望される職に就きながら、癌に見舞われ、三十歳で死んでしまう。誰にも愛される魅力的な女性で、小説の中で唯一主人公としての魅力を発する人物が、弟に看取られ早々と死んでしまう。どうにかならなかったのかと思うが、すべてはここに終焉するように書かれていたのだ。血縁とは何か。家族とは何か。人間が持つ家族という関係性を、いつも傍にいて知らぬ裡に批評しているのが犬に他ならない。北海道犬に血筋はあるが、それぞれの犬は独立した個であり、飼い主との関係を自ら作り出す。 

歩にとっては始をはじめとする家族の誰よりも心を許せるのが犬のジロだった。何故、一人の男と結婚をしなければいけないのか。その必然性を信じることのできない歩は生涯結婚をしないことを決め、その思いを誰に語ることもなく、独り山に登って泣く。その時傍にいたのがジロだ。歩は自分の気持ちはジロにしか分からないと思ったから。愛してはいても、自分の本当の気持ちを家族や友人は理解できない。むしろ言葉を持たない犬の方が分かりあえる。この気持ちは、動物と暮らす者にはよく分かる。 

連綿と続く家系というものを持ちながら、身近に暮らす人と人が分かりあえることは果たしてあるのかどうか、という根源的な問いが主題になっている。キリスト教の教義や、物理学、天文学と大きなものが持ち出されるが、それらはどれも役に立っているようには思えない。冬山で雛を育てるライチョウや、歩の生まれる時を知り、歩のピアノの音に耳を澄ます北海道犬の持つ能力に、人はとてもかなわないように思うのだ。このどうしようもない孤独を受け止め、日々を生き抜くためにこそ、人は犬や猫を必要とするのかもしれない。

『密告者』ファン・ガブリエル・バスケス

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三年前から音信のなかった父から突然電話がかかってきた。心臓の具合が悪く、手術をするという。急いで病院に駆けつけた息子に父は詫びた。事の起こりは、三年前に父のしたことだ。ガブリエルと同じ名前の父は最高裁で雄弁術を講義するコロンビアの名士である。ふだんは、デモステネスやキケロといったギリシアの古典にしか興味を示さないはずの父が、こともあろうに当時世評に上っていた一人息子が出したばかりの本を酷評したのだ。

主人公のガブリエルは三十代のジャーナリスト。父の友人で家族がらみのつきあいをしているザラという女性の話を本にした。『亡命に生きたある人生』は第二次世界大戦中にドイツから逃れ、コロンビアに移住したユダヤ人の人生を書いたものだ。ナチスのせいでドイツにいられなくなった一家はコロンビアで始めたホテル業が成功し、ホテル・ヌエバ・エウロペは、コロンビアの名士に限らず、ヨーロッパを離れた人々の社交場となっていた。

1930年代までは、コロンビアではナチスの信奉者も一般のドイツ人と変わることなく交際があった。ところが、1941年にアメリカがコロンビア政府に、枢軸国に協力関係にある人物の名簿を提出するようにと通告を下す。ブラック・リストと呼ばれるその名簿に載ることは、財産没収の上、収容所入りを意味する。ザラの父は免れたが、親しかった人の中にはひどい目にあった人もいた。

ガブリエルの本は、その当時の苦い記憶を呼び覚ますもので、思い出したくない人々にそれを思い出させる必要などない、というのが父の論点であった。売名のために、人の語りたくないことまで聞き出すことの是非を問うというのが建前だったが、息子はそれを鵜呑みにはできなかった。父は何かに怒っている。いったいあの本の何が父をあそこまで苛立たせたのか。

『密告者』という、この本は、息子が父の隠された秘密を暴き、その真実にたどり着く過程を書き記したドキュメント、という体裁を持つ小説である。現在と父の手術があった三年前、それに第二次世界大戦の時代、この三つの時代を行き来しながら話は進められる。話者のガブリエルは人の語りを聞き取って記事にするジャーナリスト。特徴的なのは、ザラの語る1940年代の話、手術後第二の人生を始めた父のお相手のアンへリーナという女性の話、父の親友エンリケの語る話、これらが長いモノローグになっていることだ。

人に思い出したくない過去があるように、国家にもできれば忘れてしまいたい過去がある。日本でいえば、朝鮮人慰安婦問題や、南京大虐殺、などがそれにあたる。歴史修正主義者は都合の悪い事実は無かったことにしてしまえば、後世の国民には知られないと考える。ところが、教育やマス・メディアを駆使して自国民は騙せても、相手の口には封ができない。その苛立ちがヘイト・スピーチやデモを生む。よく考えてみれば、かえって問題が顕在化するだけだというのに。

父親のやっているのがまさにそれだ。実は、父には隠しておきたい事実があった。当時父が漏らした言葉が原因となって親友のエンリケ一家が離散することになってしまったのだ。だから、ザラに当時の話をさせることにあれほどむきになったのだ。ところが、話はそれで終わらない。

手術が成功したことで、父は第二の人生を得た。生まれ変わるためには過去と向き合う必要があった。父はエンリケの住む町に向かい、そこから一人で車を運転して帰る途中、対向車線を走ってきたバスと衝突して死ぬ。何故、指に障碍のある父が危険な夜のドライブを思い立ったのか。そもそも、エンリケには会えたのかどうか。息子は、父親の真意を探り、その死が本当に事故なのか、それともバスの乗客をも巻き込んでの自殺だったのかを調べ始める。果たして、その結果は?

人には誰にも言えない過去が一つや二つはある。できればなかったことにしてしまいたい、そんな事実が。しかし、過去は変えることはできない。人間一人で生きているわけではない。過去は自分にだけあるわけではないからだ。自分の過去を変えようとしても相手が同意しない限り無理なのだ。相手が一人であると仮定しても難しい。ましてや相手が複数だったら、考えれば考えるほど過去の改変がいかに難しいかが分かるだろう。

それは個人の場合も国家の場合も変わりはない。謝ったら許してもらえるというのはこちらの思い込みでしかない。おそらく、胸のうちにどうしようもないわだかまりを呑みこんだままその後の人生を送るしかないのだろう。お前なんか消えてしまえばいいと思う相手の思いを知りつつ生きながらえることを望むならば。戦争で酷い目に遭って、生まれ変わったような気がしても、またぞろ同じ血が騒ぎだしているどこかの国のように、第二の人生などというのは、第一の人生でまちがいをしなかった人にだけ、用意されているものと思った方がよさそうだ。

『アーダ』上・下 ウラジーミル・ナボコフ

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<上・下巻併せて>

舐めるようにしゃぶりつくすように読んだ。それでも、作者がこれでもか、というくらい用意したお楽しみや仕掛けの万分の一も見つけてはいないだろう。それでは楽しめないではないか、と思うかもしれない。ちがうのだ。一度読めばそれで二度と手に取ることのない本がある。いや、そういう本の方が圧倒的に多い。筋を追うことが本を読むということなら、これはちがう。書かれた文字や言葉を、お気に入りの音楽や大好きな料理のように何度でも繰り返し味わいたくなる、そんな本だ。

九十歳を過ぎた男が、人生を通してたった一人愛した女との初めての出会いから、死を間近にした今に至るまでを回想した物語である。男の名はヴァン・ヴィーン。幾代かさかのぼれば先祖には公爵家を頂く名門の出で、愛するアーダは名目上は三つちがいの従妹にあたる。しかし、冒頭に付された家系図を信じるわけにはいかない。ヴァンの父ディーモンと、アーダの母マリーナは不倫関係にあり、ヴァンの本当の母は、マリーナの姉アクワではなく、マリーナその人であった。

兄と妹にあたる二人が、初めて会ったその時から精神的にも肉体的にも惹かれあい、睦み合うようになるのは、ある意味必然であった。アーディスと呼ばれる避暑地に立つ豪壮な邸宅を舞台に、十五歳と十二歳の男女が、他愛無い接触から性的な欲望へ、次第に高まりあう官能の焔に炙られ、両親や使用人の眼を避けながら、禁断の愛を貪りあう様が、楽園を思わす牧歌的な風景を背景に延々と繰り広げられるのが上巻、第一部である。

放蕩者の血を継ぐヴァンではあったが、肉体的には何人もの女と関係を持っても、愛するのはアーダ一人。ところが、アーダが他の男と関係を持つことは許せない。そのたびに相手と決闘騒ぎを起こしたり、アーダとの関係を断ったりする。二部以降は二人の紆余曲折する恋愛事情を追う。そこに、アーダの妹であるリュセットが絡む。少し歳の離れた妹は、姉と同じようにヴァンを愛するようになる。

と、こう書けばまるでロマンス。それもかなりどろどろしたロマンスのように思えるだろうが、作者はあのナボコフである。『アーダ』は『ロリータ』で成功し、大学を離れてスイスのホテル暮らしを始めてから書かれたナボコフ最大の長編小説である。経済的に安定し、自分の書きたいことを書きたいように書けるようになったわけだ。書き出しからトルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭を裏返しに引用するなど、これがメタ文学であることをばらしている。

プルーストの『失われた時を求めて』について何度でも言及しているように、好きな作家や小説をパスティーシュするのは勿論のこと、ドストエフスキーやフォークナーといった嫌いな作家や作品を揶揄ったり、誤訳の揚げ足取りをしたり、名前を勝手に変更したりとやりたい放題。挙句は自作の『ロリータ』をモデルにした『ジプシー娘』という小説の作者をこともあろうにヘルボス(ボルヘスアナグラム)とするなど、悪ふざけの度が過ぎる。

それだけではない。舞台となる世界はアンチテラという星でテラ(地球)という星とは兄弟惑星の関係にある。そこではテラとは異なる歴史が展開し、ロシアはいまだにタタールの軛の下にあり、一部のロシア人はアメリカに渡りアメロシアという国をつくり、イヴァンたちはそこに暮らしている。SFでいう歴史改変小説、あるいはパラレル・ワールドの設定である。とはいえ、ナボコフが真面目にSFなど書くわけもなく、電気ではなく水流の力で音を伝える伝話という変なガジェットが目に付くくらいで、SFらしさはあまりない。ジッカーという名の空飛ぶ絨毯はミルハウザーのようでちょっと面白いが。

テラとアンチテラとでは時間差があるという設定を駆使し、少年時を回想する場面では馬車が走るなど、時代がかった書割が興を添える。蝶の研究家でもあるナボコフらしく珍しい蝶が舞い、夏の夜に蛍が群れを成して光を明滅する川辺をはじめ、『賜物』で描かれた自然描写に似た、作者の記憶に残るロシアの美しい自然が細密に描写される。もとより、語り手であるイヴァンの記憶に基づくのだから、すべては夢のように美しく描き出される。その文章の密度たるや、比類のない完成度だ。

その一方で、言葉遊びを駆使した文章は、英語の中にフランス語やロシア語がまじるだけでなく、語呂合わせや駄洒落が頻発する。訳者である若島正氏は、ルビの多用や漢字変換の妙技によって、何とか日本語化させているのだが、訳者の苦労がしのばれる新訳になっている。これがどれだけ分かるかは読者の側にどれだけそれを読むことのできる力があるかによってちがってくる。正直なところ、読んで面白がることはできなかった。

自身も現役の放蕩者であるヴァンの父さえも、近親相姦の事実を知ったときにはさすがに息子をなじっているというのに、当事者である二人とも何の苦悩も持つことがない。二人の快楽追求の強度は信じられないほどで、倫理や道徳の出る幕がない。このあたりはさすがにナボコフと感心するばかりだが、余りに周囲の人間に対する配慮というものがない。一途にヴァンを慕うリュセットが歳を重ねるごとに可愛く美しくなってゆくのを見ているだけに、快楽追求のモンスターの輪から外されてしまい、自滅してしまうのが何とも切ない。

難物と言われる『アーダ』だが、これは何度も読む本だと思えばいい。初読時には、家族の年代記として書かれる初めの部分は後回しにしてもいい。ヴァンの母親の狂気について触れた部分も初めから分かる必要はない。ヴァンの時間論についても同じで、分かる読者にとっては楽しめる部分だが、大半の読者にとっては難解だ。しかし、ヴァンとアーダの禁じられた恋愛模様やリュセットの悲劇は勿論のこと、家族や隣人とのピクニックの場面その他には堂々たる古典の趣きがある。

マルクス、レーニンによるロシア革命もなければ、ヒトラーによるユダヤ人の虐殺もないアンチテラでは、貴族の末裔が持てる資産の上に胡坐をかいて、美術品を収集したり、豪華客船で世界中を旅したり、女の尻を追っかけたり、と遊び惚けている。別にうらやましくもないが、アンチテラでの暮らしは、放射能や核ミサイルの恐怖もなさそうだし、政治は誰か有能な人間が担当していそうで、なかなか悪くない。ロシア革命で苦汁を舐めたナボコフにしてみれば、小説の中だけでも、自分の好きなものに囲まれていたかったのかもしれない。