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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『わたしはこうして執事になった』 ロジーナ・ハリソン

書評

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執事というのは奇妙な仕事だ。本人は決して高い身分ではない。ほとんどが労働者階級の出身である。それなのに、上流階級の人々にくっついていることで、時の首相や、時には女王ご本人に拝謁を賜ったりすることもある。直々に声をかけていただいたり、お褒めの言葉を頂戴したり、と傍から見れば羨ましいようなものだが、あくまでも使用人である。周囲からの高い評価は期待できない。パブの店主でも一国一城の主のほうが敬意を抱かれる。

しかし、名のある執事ともなれば、行儀作法は勿論、ワインや料理に対する知識、超豪華客船一等室での船旅を含む世界旅行の経験等々、われわれ庶民には及びもつかない世界を知っている。どこまでいっても主人と使用人という間柄ではあるけれども、大事な悩みを打ち明けられて、その相談に乗ったりすることもあり、他人には決して言うことのできない秘密を共有することもあって、長く仕えているうちに友人のような関係になることもある。

国家の運命を決定する場に立ち会うこともある。「20世紀最大の英政界スキャンダル」と呼ばれたプロヒューモ事件のようなスキャンダルの現場にだって。1962年、当時のハロルド・マクミラン政権の陸相ジョン・プロヒューモがソ連の美人スパイ、クリスティン・キーラーに紹介されたのが、ビル・アスター卿所有のバッキンガムシャーにあるクリヴデンだった。その後二人は肉体関係を持つに至り、国家機密の漏洩が疑われた。その結果マクミランは辞任、次の総選挙で労働党が政権に就くことになる。

1975年に刊行された『おだまり、ローズ』の著者が、当時アスター家で一緒に勤めた執事たち五人から聞いた話を、自伝風にまとめたのがこの本。主人とメイドという関係にありながら、互いに意見を主張して一歩も引きさがらず、丁々発止とやりあう二人の関係を面白おかしく描いた前作は、日本でも話題に上った。本の内容上、夫人に関するエピソードという枠組みからはみ出したものは、いくら面白くとも割愛しなければならず、とっておきのこぼれ話が書かれずにいた。それらを拾い集めて執事の物語にしたところがお手柄。

五人の誰もが一度は勤めることになったのが、アスター卿の館クリヴデン。ここを取り仕切る「クリヴデンのリー卿」と呼ばれる執事エドウィン・リーこそが、他の四人の男たちの教師であり、父であり、尊敬する船長、皆から「サー」と呼ばれるあこがれの対象だ。著者であるハリソン嬢もまた、このリーを「父さん」と呼ぶ。アスター夫人付きのメイドとして長くリーの下で働き、その仕事ぶりや人柄を誰よりもよく知る人である。

実はこの本、とんでもなく面白い。英国上流階級を描いた小説や映画は多いが、終始一貫して使用人の視点で描かれたものはそう多くはない。ジェイムズ・アイヴォリー監督の手で映画化され、アンソニー・ホプキンスが主演した、カズオ・イシグロの『日の名残り』くらいか。主人公スティーブンスの目から見たダーリントン卿と、世間の目から見たそれとの差が際立っていたが、あの視線に近いものは、この本にもある。

はからずもスキャンダルの場を提供することになり、正当な手続きを経ずして指弾されてしまった主人に、使用人たちは誰もが同情的だ。逆に労働党の幹部や社会主義者たちに向ける視線には冷たいものがある。労働者階級に属してはいても、自分たちがその空気を吸っていたアスター家の(女主人の時間を無視する癖と、仕事振りを素直に褒めようとしないことには辟易しながらも)今はなくなってしまった英国上流社会の活気に溢れた優雅な暮らしぶりとそこで働く自分たちの仕事を愛していたからだ。

男たちは一つ仕事を覚えると職場を変える。下働きの使い走りから始め、第二下男、第一下男、そして副執事、執事、とステップを踏んでいく間に何度も勤務先を変える。上司とそりが合わず、どうしようもなくて辞める場合もあるが、いい雰囲気の勤務先であっても、最後までそこに勤めようとはしない。ある程度その世界で生きていこうと思ったら、場数を踏むことが大事だと知っているからだ。また、仕事ぶりが認められた者には、好条件で雇ってくれる家が必ずあるのがこの世界なのだ。

一方的に雇ってもらうというのではない。こちらも相手を選んでいる。その駆け引きの面白さ。新しい勤務先で出会う上司や同僚の奇矯な振舞いや、酒癖、女癖の悪さといった下世話な話も話し手が労働者階級出身だからこそ。年代物のワインの空き瓶やコルク栓が、結構な値で売れる仕組み(食堂の給仕が中身を安物のワインと入れ替えて、相手にヴィンテージと信じさせるための小道具)等の業界の裏話もあれば、信じられない手さばきで燕尾服の裾に隠したワインを二本も取り出して見せる水際だった給仕ぶりの紹介もある。

狐狩りで着用する赤い燕尾服の汚れ落としのテクニックもあれば、主人のお付きでアスコット・ウィークの大晩餐会に招待された時の晴れがましい感想もある。食事中も無言で通す作法、長時間をかけての銀器の手入れ、夜明け前から午前三時まで働き詰めの生活は、自分では経験したいと思わないが、そういう労働で支えられていた、かつての上流階級の暮らしぶりを知るには、とっておきの一冊。読み物として面白いのは保証するが、英国小説を読んだり、映画を見るときの参考資料としての価値も高い。

第一次世界大戦勃発の引き金を引いたオーストリア皇太子暗殺事件の直前、急用ができ、渡英した皇太子を迎えに行けないアスター卿の代りに車に乗った父君。いつもの癖で、開いていると思った窓に痰を吐いてガラスを汚してしまった。これに腹を立てた運転手は興奮のあまり車をぶつけてしまう。幸か不幸かフェンダーをこすっただけで済んだが、大事故でも起こしていたら、第一次世界大戦は起きなかったのでは、と語る執事は歴史の証人でもある。

ドイツ軍の爆撃を逃れて週末だけチャーチルが身を隠すことになった。身近で暮らしぶりを見た者だけが知るその実像とは。酒浸りだと噂されていたが、そうでもなかったらしい。好きな酒はウィスキーで、トレードマークの葉巻も一口吸ったら灰皿に置いていたとのこと。帽子とコートを渡したチャップリンに握手を求められ、礼儀から無視をしたら、かえってご不興を買ってしまったという。この種の有名人の逸話には事欠かない。

第一次世界大戦前から、第二次世界大戦後までを扱う。時間の経過とともにさしもの英国上流階級の暮らしにも変化が生じる。大人数の使用人を抱え、大勢の客を呼んで食事会を開く家も少なくなり、執事たちも変化を認めざるを得なくなる。時代の趨勢から見て、そういうものだとは思いながらも、物心ともにゆとりのあった時代を惜しむ気持ちもよくわかる。今は昔の英国上流階級の暮らしを、執事部屋から覗く貴重な体験のできる一冊である。

『侍女の物語』 マーガレット・アトウッド

書評

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トランプ大統領就任以来、アメリカではジョージ・オーウェルの『1984年』が、突如として爆発的に読まれ出したという話を聞いた。今さら、オーウェルやハクスリーでもないだろうと、『1984年』の姉妹版と言われているマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』を読んでみた。なるほど、世界のあちこちで排他的、独裁的な人格の持ち主が権力を掌握する今のような時代、この手の本を読みたくなる気持ちがよく分かった。

放射能や化学薬品その他の影響による環境汚染の結果、出生率が極端に低下したアメリカでクーデタが起きる。法律は改変され、女性は従属的な性として出産のための奴隷労働を課される。主人公はクーデタ後、資産を凍結され、仕事は解雇される。行く末に不安を感じて偽造旅券を手配し、出国しようとしていたところを一家は逮捕され、家族と引き離され、主人公は、政府高官の家で侍女として働くことになる。

赤い色をした踝までの長さのドレスと顔を隠すための白い翼とヴェールを身に着けた「侍女」とは、生殖能力をなくした妻の代わりに夫と性交し、妊娠することを目的とする代理妻である。快楽のためではなく単なる生殖器扱いだ。ただ、それでも、この時代において、妊娠可能であることは重要な意味を持っており、それができない女たちの嫉妬の視線を浴びねばならない。

長く高い壁に囲まれているところや、極端な食糧品不足、「目」と呼ばれる組織によって常に盗聴・監視されているところなどから、主人公が暮らすギレアデという社会は、位置的にはアメリカだが、かつての東独を思わせる全体主義国家となっている。もっとも、国是とされているのは共産主義ではなく、キリスト教原理主義であり、国内にいた資産家のユダヤ人は国外に脱出し、戦争相手はクエーカー教徒その他のキリスト教徒たちだ。

侍女たちは、本名ではなく、誰々の所有になる、という意味で頭に<オブ>をつけた名で呼ばれる。主人公は位の高い司令官の侍女となり、オブフレッドと呼ばれる。買い物に出る時は、いつも決められた相手と組まされ、互いに監視者となって行動しなければならない仕組みで、挨拶の言葉すら決められている。息の詰まるような毎日だが、反逆者は処刑され、壁にある鈎に吊るされ、見せしめにされる国では、面従腹背で生きるより仕方がない。

一貫して主人公の一人称視点で語られる。顔を隠す羽根は外部を見る範囲を狭め、視界は限られる。また本音を語れば密告される危険性のある環境では、会話から情報を得ることも難しい。したがって、小説世界は極端に限られたものとなる。ただ、かつて図書館員をしていた主人公は知的で、語彙や文章力にも秀でている。主人公の置かれた制度や儀式が客観的に冷静に叙述されることで、非人間的な制度の持つ、個人を押しひしぐ圧迫感がひしひしと伝わってくる。

独りでいると、クーデタ以前の友達や母親との自由で開放的なウーマン・リブフェミニズムの運動が盛んだった時代のアメリカを思い出す。主人公の母は活動家で、親友はそんな母を称賛したが、自分はそんな母に反抗していた。現状に違和を感じながらも、恐怖心から逃げることも反抗することもできない主人公だったが、雇用者である司令官と、妻の目を盗んで密会するようになったことから、話は一挙に滑りだす。

司令官のしたいこととは、覚悟していた変態プレイなどではなく、単語作りを競うボードゲームスクラブル」だった。ファッション雑誌や華麗な下着は人間を堕落させると、すべて焼き尽くされた野蛮な時代にあって、ゲームもまた人目をはばかるプレイだったのだ。侍女の中から知的な女を見繕って秘かな愉楽の相手をさせるのがこの高官の道楽だった。やがて、秘密の共有は次第にその階梯を上り、華美な衣装を着けてのクラブ通いにまで及ぶ。

慎重に見えた女が次第に変貌を遂げ、抑圧していた感情を露わにしだすに連れ、秘密が露見する危険度は高まる。夫以外の男への欲望に自身の堕落を認め、葛藤を抱く主人公だが、抑えれば抑えるほど、反発の度合いは高まる。それまで受動的に生きてきた主人公の変化に、読者は応援したい気持ちに駆られるものの、いつばれるのかという不安もあってディレンマに襲われる。このあたりのサスペンスは、凡百のスリラーなど足元にも及ばない。

ゆでガエルの法則というのがある。ビーカーに水を入れ、中にカエルを放す。ゆっくり水温を上げてゆくと、カエルは気づかないままにゆだってしまうという。人間も同じで、緩慢に変化する政治状況を顧みずにいると、気がついた時には致命的な状態に陥っている。気がついた時には遅いのだ。自由だったころを回想している自分が、気づいた時にはすでにそのころの自分ではなくなっている恐怖を描いて、この小説は際立っている。

寓意的な物語であるのに、まるでエンタテインメントであるかのように面白い。これは、ありきたりのディストピア小説とは次元がちがう。思惟する存在として、感情に支配されながらも、意志を持ち続けている人間。家族を持ちながら、一人の女としても生きざるを得ない。錯綜し混乱した存在が、自分ではどうしようもない社会体制の中に放り込まれ、異常な事態をどう生き抜くのかを当事者目線で描いた極上のスリラー小説なのだ。

他人ごとではない。権力を握る者が法を恣意的に解釈し、国家を誤った方向に導きつつあるのに、報道機関は見て見ぬふりを決め込んでいる。民衆は危険極まりない状態を知らされることなく、ことは進められていく。共謀罪が成立したら、この国もまたギレアデと変わらない。かつて読んだSF小説にあった「Ignorance is fatal(無知は致命的である)」という文句が文字通りの意味を持って迫りつつある。こんなに危機感を持って小説を読んだことはない。今からでも遅くない、と言いたいのだが、そう言い切る自信がない。文学がここまで未来を予見するものだとは思わなかった。

『特捜部Q-檻の中の女ー』 ユッシ・エーズラ・オールスン

書評

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テレビをつけたら流れていた映像がちょっと気になるので、しばらく見ていた。知った顔の俳優もいないのに妙に引き込まれ、最後まで見入ってしまった。タイトルが『特捜部Qー檻の中の女ー』。その後、これがデンマーク発の警察小説シリーズ第一作だと知った。映画化によって原作が改変されていない限り、自分の中ではネタバレしているわけで、どうかな、と思ったけれど杞憂に終わった。純然たる謎解きミステリではないこともあるが、本筋の事件解決以外の部分に味があって、小説ではその部分が読ませどころになっているからだ。

警部補カール・マークは、皮肉屋で横紙破りなところが災いして同僚間で不興を買っている。事件の捜査中に撃たれ、腹心の部下の一人が死に、もう一人が全身麻痺で病院のベッドに寝たきりになったことから立ち直れないでいるのだ。殺人捜査副課長は、一計を案じる。警察改革を利用してカールを昇格させ、厄介払いをしようというのだ。過去の未解決事件専門に操作する「特捜部Q」の設置がそれだ。

何のことはない。態のいい窓際族。やる気をなくしていたカールは、人目のないのをいいことに、ネットサーフィンを続けていたが、課長に進捗状況を訊かれ、一人では手が回らないから助手をつけてくれと言ったばっかりに、アサドが現れた。妙な男で、捜査権限もないのに事件に口をはさみたがる。また、それが結構いい線をいっているのだ。部下の目があっては昼寝もできない。ついに、カールも重い腰を上げ、捜査を開始する。

積み重なったファイルの中からアサドが見つけてきたのが、ミレーデ・ルンゴー事件。五年前、民主党副党首だったミレーデがフェリーから消えてしまった事件だ。事件当時姉と一緒だった弟は重い障害を持っていることもあって事件について証言することができず、死体は上がらなかったが、水死ということで処理され、事件は迷宮入りとなった。

プロローグに、暗い部屋に監禁されている女性の話が出てくるので、読者はすぐにこの女性がミレーデだと分かる。つまり、2007年(現時点)と、事件が起きた2002年が、並行して語られる構成になっている。五年というハンデを負って、カールとアサドは事件を解決しなければならない。一方、その間ミレーデは脱出不可能な檻の中で、生き延びるために闘い続けなければならない。或いは、悲惨な死に方を避け、自死するかのどちらかだ。

サイコパスによる女性の監禁事件を描くミステリは掃いて捨てるほどあるが、これは一味ちがう。何しろ被害者は、三十半ばで有力政党の副党首。しかも美人で論戦にもたけている。そう簡単にはへこたれない。しかし、トイレ用と食事用のポリバケツが一日一回交換されるだけで、外部と完全に接触を断たれた状態で正常な精神状態でいるのは難しい。しかも、彼女が監禁されている場所は与圧室といって、気圧を上げる装置なのだ。時間をかけて高い気圧に慣れた体は、通常の気圧にさらされると爆発してしまう。

カールたちは、アサドの信じられないような機転や記憶力の助けもあって、過去の捜査で見落とされていた事実を明らかにしていく。押しの強いカールのハードボイルド調の捜査もいけるが、シリア人助手アサドの天才的なひらめきと、脅威的な集中力が凄い。捜査の主導権を握っているのは、カールなのだが、役割的には奇矯な振舞いをするアサドがホームズで、カールのほうがワトスン役をつとめている。この組み合わせが新鮮だ。

正体不明のシリア人で、その名も現職大統領と同じ、というからまずは偽名だろう。同じ成分のインクで上から塗り潰された部分を剥がし、下に書かれた文字だけ残すという神業をやってのける知人を持つ、この人物只者ではない。独訳からの重訳のせいか、砂糖をたっぷり入れたハッカ茶と訳されているが、メンテ(ミント・ティー)のことだろう。イスラムの国では何かというと口にする飲み物だ。香をたいたり、お祈り用のマットを敷いたり、デンマークでは滅多にお目にかかれないものを署内に持ち込む天然ぶりが痛快だ。部下のことが気がかりで心の晴れないカールが、この陽気なシリア人助手によって、どれだけ助けられていることか。

日本の警察小説がつまらないのは、主人公の刑事たちが権力に対して服従するのが当然視されているところだ。警察は国家権力の手足に過ぎない。手足は頭に文句は言わない。カールはちがう。平気で政権担当者の批判もするし、冷笑もする。予算を勝手に横取りして特捜部に回さない殺人捜査課長には、強請りまがいなこともして、プジョー607や新品のコピー機を手に入れる。昇任のための研修を迫る課長の度重なる要請にも頑として首を縦にはふらない。権力者には強いのだ。

シリーズ物を面白くさせるには、脇を固める登場人物が多彩であることが必要だ。カールには別れた妻がいるが、いまだに何かと電話をかけてきては金を引き出そうとする。妻の息子が、母親との同居を嫌って何故かカールの家に転がり込んでいる。フィギュアオタクで料理上手な下宿人もいる。カールは、カウンセリングを担当する心理学者に一目ぼれ状態だが、相手はどうやら既婚者らしい。二人のこれからの関係が気になるところだ。

ミレーデが『パピヨン』や『モンテ・クリスト伯』を思い出して自分を励ましたり、『クマのプーさん』を諳んじて、精神状態を正常に保とうとするところなど、「文学など何のためになるのか」と言ってはばからない連中に読んで聞かせてやりたいところだ。人は、理不尽な状況にあるとき、強靭な肉体があるだけでは生き抜くことはできない。生き抜くためには、そことは異なる好ましい世界を自分の中に持っていることが必要になる。文学はそれを可能にする。ミステリを読んで感動することはあまりないが、この小説には人を鼓舞する力がある。サイコパスの登場するミステリには珍しく後味のいい終わり方にも好感が持てた。

『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト

書評

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診療所の上層部とぶつかって無期限の停職処分となったナタリアは、ボランティアとして国境の向こうにある孤児院で予防接種をするため、機材を積んでトラックに乗り込む。かつてオスマン帝国に支配され、その後はオーストリア=ハンガリー二重帝国、さらに第二次世界大戦ではナチス・ドイツに、と戦禍の絶えることのないバルカン半島。最近では、コソボ紛争が記憶に新しい。作家の郷里旧ユーゴスラビアを思わせる架空の国が舞台。

国境の検問でのやり取りから、若い女医が直面しているリアルな状況が伝わってくる。度重なる紛争による国民の疲弊や、異なる宗教・民族間の軋轢、検問によって起きる物流の停滞が、彼女たちの活動を難しいものにしているのだ。さらに、首都から離れた僻遠の山村では、昔ながらの迷信や因習が勢力を保ち、貧困と無知が医療活動への理解を妨げている。

小国でありながら、大国に囲まれた戦略的に重要な位置にあることにより、様々な民族が出入りし、異なる宗教を信じる人々が入り混じる。そんな国に住む人々が常に直面してきた受難の歴史に裏打ちされた大きなストーリーが横たわる。その傍らに、やはり医師として長年働いてきたナタリアの祖父にまつわるサイド・ストーリーの系譜がある。

国境地帯から家に電話したナタリアは、孫の奉仕活動を手伝うと言い残して家を出た祖父が旅先で死んだと聞かされる。遺体は送られてきたものの身の回りの品々が一つもなく、祖母は怒り悲しむばかりだ。とりあえず現地に行ってみる、と言い置いて電話を切った。悪性腫瘍で余命いくばくもない祖父は、何故病を押してまで旅に出たのか。祖父の真意がわからないナタリアは、詳しくは知らなかった祖父の過去を追い始める。

章の変わり目、段落の切れ目で、ナタリアが現地で立ち向かう困難と祖父が話してくれた過去の物語とが、映画のカット・バックのように入れ代わり立ち代わり現れる。しかも、祖父の話に登場する人物や、器物それぞれの来歴が一つの短編小説のように語りだされる。まるで、話の中にわき役として顔を出した人物が次の主役となって冒険譚を語りだす『千夜一夜物語』のように。

「トラの嫁」の話は、祖父が幼い頃過ごしたガリーナ村で体験した実話だ。戦禍にあった動物園から逃げ出したトラが餌を求めて村に現れる。トラを見たこともない村人は悪魔だと騒ぐが、『ジャングル・ブック』を愛読していた祖父は、村人が見たのはトラだと気づく。肉屋のルカは年若い妻を虐待していた。トラの出現と同時にルカは姿を消し、残された少女は妊娠していた。恐れた村人は少女のことを「トラの嫁」と呼んだ。

不死身の男の話はまるで怪奇譚。銃で頭を打たれたガヴラン・ガイレは、棺桶の中から祖父に「水をくれ」と声をかける。蘇生した男は、自分は死ぬことを許されない身なのだ、と身の上話を始める。信じない祖父に男は賭けを申し出る。足に錘をつけて池に沈めよというのだ。息をのんで見守る祖父の目に歩いて向こう岸に出る男の姿が見える。その後も男は、一度といわず祖父の前に現れる。祖父が賭けた『ジャングル・ブック』は、まだ持ち歩いているのか、と確かめるように。

二つの奇譚とナタリアの直面する子どもたちの医療問題とが、いつのまにか結びついてくるところが、この小説のミソだ。この地方では、死後四十日間の間、その霊は天国に行かず地上に止まると思われていて、四十日目に十字路からあの世に旅立つことになっている。ナタリアの宿泊先に泊まっている集団は、昼夜を問わずブドウ畑の下を掘り続けている。リーダー格の男の話では、戦争中一人の男をこの辺に埋めたが、男はそれが原因で成仏できずに集団が暮らす村にたたっている。子どもたちが病気なのもそのせいだ。医者の手は借りずとも、死体を見つけたらそれでみな快癒するのだ、と。

死体を始末した灰を四つ辻に埋める役を引き受ける代わりに、子どもたちの治療を認めさせたナタリアは十字路に行き、地面に穴を掘って瓶を地中に埋め、夜半それを掘り起こしに来るという魔物を待ち受ける。もしかしたら、それが祖父の話してくれた不死身の男ではないか、と想像しながら。待つことしばし、ナタリアの前に現れたのは…。

因習的な村人と科学的な考え方に立つ医者の間に立ちはだかる壁を、ナタリアはどう越えるのか。また「トラの嫁」に心を奪われた祖父が、どうして医療の道に進むことになったのか。それが話を前に進めてゆく推進力なのだが、それにも増して、わき役の来歴の方に読みごたえがある。肉屋のルカはなぜ虐待男になったのか。その理由を知ると、その仕業は許せなくても一抹の悲哀が心に湧く。オルハン・パムクの『僕の違和感』の主人公メヴルトがはまった陥穽に、ルカもまた落ちたのだと。

剥製づくりのために獣を狩るようになったクマ狩りの名手ダリーシャ、或いは何種類もの薬草その他の薬効によって、村人の信頼を取り付けた「薬屋」の遍歴も、ルカに劣らぬ悲しさを湛えている。主筋にあたるナタリアや祖父の話もいいのだが、これらのわき役が醸し出す、名もなき人々が背負うその人固有の物語に心動かされる。もとより、それが今はアメリカに暮らすテア・オブレヒトその人の故郷の人々に寄せる思いでもあるのだろう。これが二十五歳の筆になるものだということが、読み終えた後でもまだ信じられない。史上最年少オレンジ賞受賞作。

『アウトサイダー 陰謀の中の人生』 フレデリック・フォーサイス

書評

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手垢のついた表現になるが、「事実は小説よりも奇なり」というのがぴったりくる。『ジャッカルの日』という映画は、かなり好きで何度も見たが、原作を読んだらそれほど感心しなかったのを覚えている。その原作になった小説を書いたのが、フレデリック・フォーサイスで、これも有名な映画『オデッサ・ファイル』の原作もこの人だ。

作家を映画の原作者のようにいうのは失礼なようだが、実はフレデリック・フォーサイス、『ジャッカルの日』が処女小説で、それまで小説なんか書いたことがなかったというから驚くではないか。執筆理由も金のため、というから冷めている。この本は、これまでの人生を振り返るもので、簡単にいえば「自伝」である。もっとも作家の自伝と思って読むとがっかりする。文学の話は全く出てこない。

じゃあ、何かといえば、俗にいう武勇伝。自慢話に聞こえる話がたっぷり用意されている。帯の惹句を引くと「わずか15歳で大学進学資格試験に合格し、17歳でイギリス空軍に入隊、19歳で幼い頃の夢を叶えパイロット記章を手にしたフォーサイスは、世界を股にかけて活躍するジャーナリストに」。幸運にも恵まれ、次々と願いをかなえてゆくその姿は、まさに向かうところ敵なし。失敗や挫折の経験が全くない。

嘘だろうと思うくらい、彼の前で道が開けてゆくのだ。イギリスの中産階級に生まれ、理解のある父親に恵まれ、休暇を海外で過ごすことができ、単身現地の家族の中で過ごし、フランス語やドイツ語を覚えていく。英語を話せない環境に小さい頃に身を置くことで、発音やスラング、ボディ・ランゲージといったネイティブならではの言語表現を身に着けることに成功する。それが次の扉を開くための鍵になるのだ。

機会を無駄にしないことでも徹底している。パブリック・スクール在学中に飛行訓練を受けるのだが、それまでやったことのない長距離のクロス・カントリーを言い訳に使い、校門を出ると近くに停めておいたベスパに乗り換えて飛行場に向かう、という奇策をとる。卒業後兵役までの期間をスペインへの語学留学に使い、そこでも一般家庭に寝起きして、酒場その他で実地経験を積み、昼間は闘牛士の訓練を受ける。講義は最初と最後だけ出たが、ちゃんと免状はもらっている。

優秀な成績でオックスフォードやケンブリッジの奨学生になる機会を得るが、面接でその意志のないことを明らかにする。パブリック・スクールの教師たちは、たいていがオックスブリッジの卒業生で、それを誇りにしているが、フォーサイスは、いじめの横行するパブリック・スクールも、商店の店主でしかない父を見下す教師たちも嫌っていた。『アウトサイダー』という表題は、彼の支配階級(エスタブリッシュメント)嫌いを表している。

それは、ビアフラにおけるイギリスの政策に対する批判で、最も激しく語られる。当時イギリスはナイジェリア連邦側に肩入れしていた。現地の本当の様子を報告しない高等弁務官のためにイギリスは政策を見誤る。食料禁輸で多くの子どもたちが餓死したことは、当時新聞に出た写真でよく記憶している。ジャーナリストはエスタブリッシュメントの側に立ってはいけない、とフォーサイスは言う。自分の目で確かめた事実にこそ従うべきだと。

せっかく入ったBBCだったが、ナイジェリア連邦側の発表しか流さないことに腹を立ててフリーランスに。文無しになったフォーサイスが金を得る手段にしたのが、無謀にも小説の執筆だった。ネタはあった。ロイター時代、ドゴールに張り付いていて暗殺事件に出くわしたのだ。失敗を繰り返すOASが暗殺を成功させるには、情報機関に知られていない外部の暗殺者に頼るしかないことを、フォーサイスは知っていた。「ジャッカル」の登場である。

これが、映画になることなんか誰も予想できなかった。たまたま別の映画撮影のためにロンドン入りしていたフレッド・ジンネマンが、ままならぬ事情で撮影できなくなった時、目に留まったのが『ジャッカルの日』の原稿だった。中身を読んで気に入ったジンネマンは、「次の映画はこれだ」と即決。この映画が当たったせいで小説も売れたという。

映画『オデッサ・ファイル』には、また別の驚くべき話がある。元ナチ党員に偽の身分証明書を作り、ドイツ国内で働くための手配を行う秘密組織オデッサを描くものだが、マクシミリアン・シェル演じるところの元ナチSS大尉ロシュマンは、映画の中では殺されてしまう。ところが、ブエノスアイレスの映画館でその映画を見た観客がその名に聞き覚えがあった。もう大丈夫と思ったのか、本名を名のっていたのだ。告発を受けロシュマンは逮捕される。事実は小説より奇だということが分かってもらえただろうか。

ところで、秘密情報員だったのでは、という噂のあるフォーサイスの東ベルリンでの実体験は、それこそル・カレの小説を地で行くようなスリルにあふれている。フォーサイスのどの小説よりもリアルなのではなかろうか。どこまでいっても、この人は作家ではなく、本質はジャーナリストなのだ。その意味で、自分についての他の誰も知らない事実でいっぱいのこの本は、ひょっとしたら彼の代表作になるかもしれない。

『楽園の世捨て人』トーマス・リュダール

書評

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クールでハード、女を抱くにせよ抱かぬにせよ、本心は見せないというのがハードボイルド探偵の流儀だったはず。それなのに、いくら独身生活が長いにせよ七十歳近くにもなりながら、女が欲しくて妄想をたくましくしてストーカーまがいの行動に走り、挙句は昏睡状態に陥った女を自室に置いて、体を拭いたり寝返りをさせたり、と川端康成やガルシア=マルケスでもあるまいに「眠れる美女」に執心するとは、とんでもない危なっかしい「探偵」じゃないか。

ずいぶん年寄りを探偵役に据えるものだと思った。ピアノ調律師も兼ねる御年六七歳のタクシー運転手というのだから、ハードボイルドは到底無理だと思うのだが、これが結構やってのけるのだ。殴られたり、首を絞められて殺されそうになったり、警察でも拷問監禁で痛めつけられたり、とフィリップ・マーロウ顔負けの巻き込まれ型というか、好き好んで巻き込まれに行くタイプだからどうにも仕方がない。

カナリア諸島の一つ、フェルテベントゥラ島は、アフリカに近い島でヨーロッパからの避暑地としてにぎわう。主人公のエアハートはデンマーク人だが、故あって故国を離れ、妻子を捨ててこの島まで流れてきた。初めは野宿暮らしだったが、そのうち伝手を頼って今の職にありついた。上との交渉事が苦手で儲けは少ないが、別れた妻に送金した残りでかつかつ食っている。ヤギ番用の小屋に住み、缶詰から直接食べるような暮らしも苦にはしていない。人は彼を「世捨て人」と呼ぶ。

その「世捨て人」が、どうしてまた柄にもなく「探偵」稼業のまねを始めたのかといえば、波打ち際に乗り捨ててあった車の中に段ボール箱に入れられて死んでいた生後三か月の赤ん坊のせいだ。赤ん坊を捨てたのは誰か。こんな酷い事件なのに、何故か警察は事件をうやむやの裡に解決してしまおうとする。若い娼婦が名乗り出て、捨てたのは自分だと証言するというのだ。エアハートは虚偽の証言を食い止めるため、娼婦を自分の小屋に連れ帰り監禁する。

これだけでもう立派な犯罪者だ。無関係な事件にここまで執着する理由が理解できない。その後も、友人ラウールの失踪とベアトリスの暴行事件に巻き込まれ、やむなくではあるが事後従犯、疑いようもない「犯罪」に手を染めてしまう。主人公と共に事件の謎を追いたくても、この男の倫理観のなさには到底ついていけないと読者は思うにちがいない。彼をしてここまで突き進ませるものは何なのか。

事件の裏には、海賊に襲われた貨物船の保険が絡んでおり、その背後にはラウールの父親でいくつもの会社を経営するエマヌエルの影がちらつく。ラウールの失踪後、エマヌエルはエアハートに近づき、自分の経営するタクシー会社の重役の椅子を提供するだけでなく、ラウールのマンションをそのまま使うことを許可する。その懐柔策の裏に何があるのかを探るため、申し出を受けたエアハートだったが、次第にその暮らしの快適さになじんでゆく。

一運転手では手を出せない、企業家同士のつながりや、情報を手にするために肩書や高級車、それに提供された軍資金がものを言って、エアハートは少しずつ事件の核心に迫る。だが、深入りし始めた彼は、誰かに襲われるだけでなく、警察に追われる身に。八方ふさがりのエアハートに救いの手を差し伸べたのは、またしても黒幕と思われるエマヌエルだった。事件の真相には意外にもエアハート自身の存在が影を落としていた。

ミステリ的には、ほとんど事件の真相は予想がつく。それほど複雑な事件ではないからだ。話を難しくしているのは、親と子の間にある予想のつかない人間の心理と行動のほうだ。放っておけばそれで済んだものを殺人事件まで引き起こしてしまうのはエアハートが、赤ん坊の死にこだわって事件を突っつきまわしたせいだ。シリーズ物で、すべてが明かされてないからか、何故そこまで他人の赤ん坊の死にこだわるのか、それが最後まで読んでも理解できなかった。

長丁場を、最後まで読ませる力はある。それは、ひとえに主人公エアハートという人物が、ことごとく内心を流露してくれるからだ。ハードボイルドに限らず、ミステリの主人公は本音を語らない。格好良くて、女に惚れさせても自分は惚れたそぶりを見せてはいけない。読者にとっては自分の夢の実現者だ。それがお約束のはず。それを裏切って、独身男の妄想をこれでもか、とぶちまけたところに、この本の新味がある。

いい年をしながら、女に欲望を抱いても実際に行動には移せない優柔不断な男。コルトレーンを愛し、本を手放せない年寄りのインテリ崩れ。過去に自分が娘を捨てたことに負い目があるからだろうか、生後三か月の赤ん坊を餓死させた母親に対して義憤を感じずにはいられない。左手の小指の欠損にも強い執着を見せるが、三部作の第一作のせいか、その経緯はつまびらかにされることはない。

本国スペインよりアフリカにほど近いカナリア諸島の島々を舞台にしたことで、ソマリア沖の海賊や、その被害の補償に使われる保険といった犯罪小説らしいモチーフが生き、独特の食べ物や、酒、シエスタの風習といった異国情緒も堪能できる。乾ききった空気が探偵小説によく合うことに改めて思い至った。動物好きには小屋と込みで引き継いだローレルとハーディと名付けられた二匹のヤギがエアハートが小屋を出てからどうなるのか気になって最後まで本から手を離せないにちがいない。ずるい手だ。

スマホはおろかパソコンも扱えない年寄りのくせに、老いてますます盛んなエアハートの激しい欲望になかなかついていけず、その手の場面は端折って読んでしまった。同年輩の読者でさえこうなのだから、年若い読者にはどう見えるのか老婆心ながら心配になった。そういえば、フリーセックスなどという言葉がもてはやされた時代、その風潮をもたらしたのはエアハートが生まれた北欧の国々だったことをはしなくも思い出した。裏返しにされたハードボイルドが吉と出るか凶と出るか。判定次第で続編の翻訳も決まることだろう。

『質屋探偵ヘイガー・スタンリーの事件簿』 ファーガス・ヒューム

書評

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シャーロック・ホームズがベイカー街で名をはせていた頃。いかがわしい外国人がたむろする辺りに一軒の質屋があった。老店主の死後、店を預かるのはまだ二十代の一見してジプシーとわかる娘。この娘、美人であるだけでなく、店に持ち込まれる品物の目利きにも長け、その上頼まれもしない難事件に首を突っ込む趣味があった。男性優位の十九世紀ロンドンを舞台に、ジプシー娘が暗号を解読し、隠された秘密を暴いて回る異色探偵小説。

ロンドン南部、ランベスのカービーズ・クレッセントにある質屋は、ジェイコブ・ディックスというけちで有名な老人が経営していた。そこへやって来たのが二十代のジプシー娘ヘイガー・スタンリー。黒髪の美しいヘイガーは、ジェイコブの死んだ妻の姪で、大嫌いな男と結婚させられそうになり、ニューフォレストのキャンプから逃げ出してきたのだ。乾いたパンと水さえくれれば、わらの上で寝るから、とジェイコブを説得し、住み込みの家政婦兼質屋の手伝いとして働きはじめる。

質草にまつわる謎解きを扱う連作短篇集が書かれたのはヴィクトリア朝。副題にある通り、「シャーロック・ホームズ」の影響下にある。ミステリとか推理小説とか言い出す前の古き良き「探偵小説」の香りを残す一品。主人公の探偵が、うら若いジプシー女というのは、当時でも珍しかっただろう。ランベス地区というのは、テムズ川をはさんでシティの対岸にあたる地区だが、多国籍の人々が集まる地区で、当時に限らず現在でもあまり治安がよくない界隈である。

全十二章構成で、主人公の進退を紹介する初めと終わりの二章を除く十章が本編にあたる。第二章「一人目の客とフィレンツェダンテ」から、第十一章「十人目の客とペルシャの指輪」まで、異国情緒たっぷりの品々が、曰く因縁を引っ提げて登場する。暗号や質草に隠された秘密の仕掛けが話の中心だが、どれもたわいないもので、なあんだという感想をもらすのは、まずまちがいない。謎解き興味はともかく、美人で気のいいジプシー娘の快気炎と全篇に揺蕩うエキゾティシズムはたっぷり用意されている。

発見者が遺産を相続するという遺言に基づいて、『神曲』の第二版という稀覯書に隠された財宝の在りかを求めて、故人の甥と見返りを求めるかつての支援者が争うのが、「一人目の客とフィレンツェダンテ」。書き込みの見当たらない文書に隠された暗号を見つける決め手になるのがあぶり出しというのが何とも懐かしい。一話完結ではあるが、異なる短篇同士につながりがあり、第二章に登場する、ちょっと頼りないイケメンのユースタスの他にも、まさかあの男がと思わせる人物も章の枠を越えて登場するなど、通して読む面白さも用意されている。

殺人事件が登場しない話から始まるので、全編この調子か、と落胆するには及ばない。話が進むにつれて、殺人も起きるし、謎解き以外の部分にも親子の愛憎や階級差にからむ葛藤といった主題が提示され、なかなか含みのある筋書きが次々に現れる。女性の権利が制限されていた時代、女が一人で生きていくのは難しかった。職業選択や遺産相続もその一つで、そのために起きる殺人事件を描いたのが、「二人目の客と琥珀のネックレス」。大英帝国の都下、ジプシー女が被疑者の黒人女を救うところが小気味よい。

以下、広東の関帝廟から盗まれた翡翠の関帝像をめぐる英国人と中国人の争いを描く「三人目の客と翡翠の偶像」。チェリーニ様式の十字架に仕込まれた短剣が殺人事件を引き起こす、ルネサンス時代の悲劇を下敷きにした「四人目の客と謎の十字架」。主人にあたる令嬢と家令の息子の恋をめぐって父の思いが空回りする「五人目の客と銅の鍵」。アンドレア・デル・カスターニョ描く『キリストの降誕』が、子故の闇を照らす。

「六人目の客と銀のティーポット」は、盲目の女性マーガレット・スノウの悲恋の物語。茶農園主となるためインドに渡った恋人は、婚約の破棄を告げる最後の手紙に添えて、それまでマーガレットが書いた手紙を返してきた。マーガレットはそれを銀のティーポットに入れハンダで封じ込めた。今や老いて明日をも知れない体となったマーガレットは形見のティーポットを質に入れることで、突然の婚約破棄の理由を知ることになる。「質屋って本当に変わったところだ!(略)人生のありとあらゆるがらくたが流れ着く。傷ついた心、台なしになった経歴、破れた恋――そんなものの吹き溜まり」と、ヘイガーでなくとも嘆きたくなる。

本物の悪党が登場するのが「七人目の客と首振り人形」。「陽気なビル」が預けた人形をめぐって、脇役として何度も登場するベイカーの雑用係ボルカーと悪徳弁護士でジェイコブの遺産を狙っているヴァークが暗躍する。「八人目の客と一足のブーツ」は、一人の女を愛した二人の男が関わることになる殺人事件の謎解き。「九人目の客と秘密の小箱」は、不倫の証拠になる手紙を見つけたヘイガーが、恐喝者の手から手紙を奪い、未然に犯罪を防ぐことになる。ひねりの効いたオチが秀逸。

ペルシャの公爵アリーの美しい妻アイーシャは王の目に留まり、ハーレムに召される。その代わりとしてアリーが王から貰ったのが件の指輪。その後アリーは叛乱の罪に問われ全財産没収の上英国に流れ着く。天国から地獄への急降下。「十人目の客とペルシャの指輪」は、まさにアラビアン・ナイト風の趣の濃い一篇。アリー酷似の人物登場で、アラビア夜話風奇譚がミステリに変貌する。

ヘイガーの探偵術は、ジプシーらしく人相が決め手。人は見かけによる、という訳だ。英国生まれながら、外国暮らしの長いヒュームが繰り出す、当時の外国事情や美術品についての衒学的な蘊蓄も愉しく、ヴィクトリア朝ロンドンの雰囲気も相まって、昔懐かしい探偵小説的世界を満喫した。あまり知られていない作家だが、なかなかの小説巧者だ。これを機会に見直されてもいい。