青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『飛族』村田喜代子

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タイトルを目にしたときは中国の少数民族の話かと思った。まさか、イカロスでもあるまいに、人が空を飛ぶ話になるとは思わなかった。イカロスは羽根をつけて飛ぶのだから、それとはちがう。この小説では人が鳥に変身する。空を自由に飛びたいなどという、ロマンチックなものではなく、もっと切羽詰まったやむにやまれぬ事情で、人は衷心から鳥になりたいと希求するときがあるのだ。

周りの海が東シナ海というのだから、五島列島近辺の小島が舞台。語り手のウミ子は六十過ぎの女性だが、その母親で九十二歳のイオからは子ども扱いされている。ウミ子は大分に住んでいるが、故郷の島に暮らす三人の老婆の一人が死んだので、葬儀を兼ねて母を自分の家に引き取ることを考えてやってきたのだ。しかし、母がいなくなれば身寄りのない八十八歳のソメ子さん一人が島に残ることになる。ウミ子はそれが気がかりで話を出し渋っていた。

今では女年寄りばかりが住む島々では、単独で行事を催すのは難しく、互いに参加しあうようになっている。祝島の祭に参加するためウミ子たちは船で島に渡る。女年寄りはそこで鳥踊りを舞う。鳥の頭巾に紙の翼の羽織を着て、ほどけた輪のようにいつまでも舞うのである。男たちは傍らで焼酎を飲みながら世間話に余念がない。老婆たちは知る由もないが、わずかな年寄りが暮らす島のために、電気やガスの供給に莫大な金がかかる。連絡船の油代は年二千万円もかかるというから何と気前のいいこと、と初めは思った。

ウミ子は島に見回りに来た鴫という名の青年と知り合う。鴫は市役所に勤めているが、このあたりは無人島も多く、外国人が棲みつくと面倒なので見回っているのだという。無人島に外国人が住みつくと、そこはその国の領土と認められるらしい。そこで、時々上陸して「君が代」を流し、わが国固有の領土であることを示しているという。島暮らしの年寄りの風変わりな習俗の話かと思ったらきな臭い話になってきた。

このあたりの島は古来より歌にも歌われ、遣唐使も水や食料を求めて立ち寄った。広報課に勤める鴫は、ウミ子にそんな話をして、島の売り込みにかかる。インフラの整備にいくら金がかかっても無人島になるよりはいいらしい。島を離れようとしないイオとの間で話は物別れになったままだ。釣り糸を垂れれば魚はいくらでも釣れるし、今でも海に潜るソメ子さんに教えてもらったシマで、鮑もとり放題だ。ウミ子は少しずつ島の暮らしになじんでいく。

透明度の高い海の水の色や、アジサシやカツオドリが舞う空、また海に潜りはじめたウミ子の視点から描かれる神秘的な海中の景色、とまるでリゾートライフを綴るエッセイのように思えた小説に、ふと翳りが落ちるのは話が海難事故に及ぶ時だ。ソメ子の弟の遺体も見つからなかった。そんなとき酒を飲んで寝ていた亭主がガバッと起きて「姉ちゃ、姉ちゃ」と弟の声で話しだしたのだ。弟は言う。自分は今はイソシギになったので家には帰れないと。

クエ漁に出た船は、漁場で大量のクエを獲るが、台湾坊主と呼ばれる台風につかまって船が壊されそうになる。その時、老漁師が「鳥になって空ば飛べ」といって船縁から飛び立った。それに続いて、皆が飛び立ち、今は鳥になったという。同じ船で遭難したイオの夫も鳥になっている。イオとソメ子は、祭りが終わっても崖の上で、しょっちゅう羽ばたく練習をしている。あれは飛び立つ準備なのだろうか。ウミ子はいぶかしく眺めるばかりだ。

ウミ子はポスターの写真撮影で沖根島を訪れる鴫に同行する。宿泊センターの鯨塚という老人は、全員離島した島を観光地にするという鴫の話が気に入らない。しかし、領土を守ることが真意と気づき、二人に倉庫で見つけたカセット・テープを聞かせる。卒業式で歌う「蛍の光」だ。最終便が出るときに流すのだという。その四番の歌詞を知る人は少ない。

台湾のはても 樺太
八州(やしま)のうちの 守りなり
いたらん国に いさをしく
つとめよ わがせ つつがなく

実は四番の歌詞も当初は「千島の奥も 沖縄も」だった。その次も「やしまのそと」であったものが、千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて後「やしまのうち」と変わり、日清戦争による台湾割譲後、「千島の奥も 台湾も」と変わり、日露戦争後、上記の歌詞に変えられたという。なんとも世知辛い話ではある。

目に沁みるようなブルーの海、どこまでも青い空に翩翻とひるがえる、ミサゴやカツオドリを描いた幟。海で死んだ魂は空に上って鳥になるのだろうか。今日も鳥をまねて羽ばたく老婆たちの上に、アジサシが鳥柱を立てている。老婆たちはいつ鳥にまじって飛び立っても不思議ではないような気がしてくる。ファンタジー色の濃い物語に見えながら、その裏には、美しい島に脈々と受け継がれているナショナリズムが衣の下の鎧のように透けて見える。村田喜代子、なかなか食えない作家である。

妻の父は九十六歳でサ高住に入居中。常々、体は何ともないが頭の方がとボヤいている。認知症が進んでからの入居では友だちもできない。住み慣れた島で気心の知れた友と暮らすイオたちが眩しく映る。食べ物は自給自足。必要な物は連絡船で届く。気ままな暮らしのようでいて、その実国防に寄与しているのだから、二千万円くらい安いものだ。ウミ子でなくても島で一生を終えることを考えたくなってくる。

 

『ニックス』ネイサン・ヒル

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私小説というわけでもないのに、作家が主人公の小説というのがけっこう多い気がする。やはり、自分のことを書くのが作家の基本なんだろうか。読者の方は、別に作家志望とかでもないだろうに、やっぱり作家が主人公の小説が好きなんだろうか。よくわからないが、小説が書けなくて、ゲームばっかりやっている大学助教授の話である。ネット環境がいいからと研究室のコンピュータで参戦するというのはどんなものだろうか。

サミュエル・アンダーソンは大学助教授。一時期、作家を目指したが、短篇を一作完成して以来何も書いていない。今では講義の合間にネットゲームにのめり込んでいる。担当は英文学で、ハムレットを教えている。クレーマーらしき女学生にレポートの盗用を注意したところ、逆切れされて上司から叱責される破目に陥る。さらに、次作を書く契約で出版社から大金を受け取っていながら、原稿を送っていない件で訴えられかけている。

進退窮まったところに電話がかかる。何年も前に父と自分を置いて家を出て行ったきりの母が、大統領候補者に暴行し、大騒動になっていた。電話は弁護士からで裁判所に意見書を書いてくれという。捨てられた憾みこそあれ、母を助ける義理など毛頭ないサミュエルは、今や候補者の名にちなんで「パッカー・アタッカー」という異名を持つ母の暴露本を書くことで、件の出版社との契約を果たそうと思いつく。

取材のために再会を果たした母は過去について話そうとしない。弱ったサミュエルは、シカゴに住むゲーム仲間のポウンジを頼る。ポウンジは写真を手がかりに、当時の母の友人を探り当てる。アリスというその女性は、母の裁判を担当する判事の名前を聞くと、母を連れて即刻国を出るように警告する。どうやら相手は相当ヤバいやつらしい。アリスは、当時警官だったブラウン判事との経緯について話し始めるのだった。

すべてが謎につつまれている。まず、たとえ短篇にせよ、次代を担う作家の一人と目される小説の書けたサミュエルが、何故それ以来ただの一本も小説を書くことができないのか。また、母はなぜ突然,夫と子を捨てて家を出て行ったのか。或いは、母はなぜ、その日偶々公園にやってきた大統領候補に砂利をぶつけることができたのか。 

サミュエルは取材を通し、母親であるフェイ、そしてフェイの父でノルウェーからアメリカに来たフランクの過去をたどる。表題の「ニックス」とは、祖父の話に出てくるノルウェーの水の霊で、一人遊びをする子どものところに馬の姿をして現れる。子どもが馬に夢中になり、やがてその背に乗って遊ぶようになると、馬は子どもを乗せて走り出し、崖から宙空に飛び出して落ちる。子どもは岩に打ちつけられるか水底に沈む。

祖父によればその教訓は「うますぎる話は信じるな」というものだが、フェイは「君がいちばん好きな者が、いつか君をいちばん傷つけるのよ」と、息子に話して聞かせる。これが、この小説において繰り返し現れては変奏される主題である。愛するものが自分を窮地に追い込むことになる。それは、祖父から母を通じて孫に至る、ノルウェーからついて来た幽霊の呪いなのか。ノルウェーで祖父にいったい何が起きたのか。

探索の第一歩は、サミュエルの少年時代。ビショップとベサニーという双子の兄妹と知り合ったサミュエルは、裕福な階級に属する二人に惹かれる。兄のビショップは反抗的な少年で、教師やいじめっこには容赦をしないが、いじめられっ子には優しい少年だった。妹のベサニーはヴァイオリンの練習に余念のない美しい少女だった。サミュエルは一目で恋に落ちる。サミュエルの処女作は二人との交友を描いたものだった。

だが、ある出来事をきっかけにビショップは町を去り、後に軍に入って戦死する。後年、成長したサミュエルは、当時反抗的な少年たちに体罰をふるっていた校長が、なぜビショップの尻を打たなかったのか、という理由に思い至る。同時にビショップが見せた奇妙な行動の意味も。友の許しを得ずに、それを書いたことをサミュエルは苦にしていた。

一九六八年。母には別の物語があった。奨学金を得たフェイはシカゴの大学に進学しようとするも、父はそれを許さなかった。フェイは家を出て寮に入る。反戦運動真っ盛りのシカゴは勉強どころの騒ぎではなかった。隣部屋のアリスと出会い、運動の渦中に飛び込む。そこでカリスマ的な扇動者であるセバスチャンに一目惚れする。それがすべての過ちのはじまりだった。逮捕されたフェイは二度とシカゴにもどらないという約束で釈放されたのだった。

幼い性の目覚めとプラトニックな近親相姦関係。美しい兄妹との間で疑似的な三角関係に巻き込まれるサミュエル。フェイが巻き込まれる六十年代特有の反戦運動の高まりも見過ごせない。何しろアレン・ギンズバーグ本人がフェイとセバスチャンをめあわせるのだ。ビートニクやヒッピーといったムーヴメントがヴェトナム戦争に揺れるアメリカでピークに達し、やがて崩れてゆくその波頭の軌跡を、映画的なカット・バックの手法を多用し、シカゴの長い一夜を熱く描き出す。

児童性的虐待反戦運動、同性愛、ナチスの侵攻、といった多様な話題を多くのエピソードにからめ、最後に一族の問題に収斂させていく。これが長編デビュー作とも思えぬ手捌きである。ただ、多くの人物の視点で語られる物語に一貫性を求めるのは難しく、一族のストーリー以外は語られっぱなしで収集しきれていない。そのためか、どこか離れた位置から人々の騒ぎを眺めているような冷めた印象を持った。サミュエルのヰタ・セクスアリスを描いた部分が清冽だっただけに、惜しい気がする。短篇をもとに長編を書く難しさが出たようだ。自分を素材にしなくなったとき、どんなものを書くのか期待したい。

『みかんとひよどり』近藤史恵

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陽のあたる縁側に、何度綿を打ち直してもすぐにぺたんとなってしまう縞木綿の座布団を敷いて、その上に座る一人の老女。庭の奥には亡夫が丹精した蜜柑の木に木守めいて残る黄金色の果実に一羽の鵯がきて止まり、さかんに実をついばんでいる。手にした湯飲み茶碗に、斜めになった茶柱がそこだけ陽を浴びて揺らめいている。そんな光景が目に浮かぶ表題で、字面だけで想像するなら随筆か何かと取り違えそうだ。

かな書きの題名だけを読んだとき、ふとそんなことを想像した。近頃では書店も減って、新刊の表紙を目にすることもなくなった。まして、ベストセラーででもなければ平積み、面陳という形で、表紙が目に留まることもない。本を手にして初めて、表紙に描かれたマウンテン・パーカを着込んだ男二人が、ワイングラス片手に季節外れのキャンプを楽しんでいる姿が目に留まる。手前にいるのはポインターか。枯れ木に吊るしたランタンはおしゃれだが、焚火でもバーベキューコンロでもなく七輪というのが微妙だ。

『タルト・タタンの夢』や『ときどき旅に出るカフェ』で料理とミステリをうまく融合させた独特の路線を行く近藤史恵の新作である。例に挙げた二作が連作短編集で、いわばアラカルトだとすると、今回はやや短いものの長篇のフル・コース。野性的な男とどちらかといえば線の細い男性、それに生きのいい女性という三人の組み合わせは『タルト・タタン』を思わせる。今回のテーマは近頃何かと話題になっている「ジビエ」である。

腕はいいのだが、経営手腕に欠けているのか、店をつぶしてばかりいるシェフの潮田は三十五歳。今は女性オーナーにジビエ料理を食べさせるという契約で、店を一軒任されている。野鳥を撃ちに山に入った潮田は道に迷い、遭難しかけたところを猟師の大高に救われる。その日の獲物を解体する大高の手際に魅せられた潮田は、それ以降大高が仕留めた野鳥を引き取ることになる。

フランスなどでは季節になると供されるジビエだが、日本では害獣駆除という目的が先になって名前が知られるようになったようだ。野生の鹿や猪を、こちらの都合で勝手に害獣扱いするのはいささか気になるところだが、山間で農業をしている友人がいて、近くのカフェでお茶しているとき、林から鹿が出てきたことがある。ふだんは優しい男なのに、鹿の害を口にする口吻の激しさに驚いたことがある。町の人間には見えていない部分があるのだ。

店を軌道に乗せるため、潮田がどんな料理を作るのか、という愉しみが一つ。そこに、潮田が泊めてもらった大高の山の家が放火に遭うという事件が起こる。人づきあいを避け、猟犬と山に籠る大高にはどんな経緯があるのか、という興味が話を引っ張る。二人の男はほぼ同年輩で、まだ不惑には遠い。自分の生き方に対する悩みもあるし、他者との軋轢もある。対照的な男二人の出会いは二人の成長にどう影響を与えるのだろうか。

閑話休題、少し前に中島敦の『山月記』がネットで話題を呼んだことがある。長年にわたり教科書教材たり続ける理由は、全文転載可能な短篇であり、代表作であることの他に、人を虎に変えるほどの執心を戒める奇譚を「臆病な自尊心、尊大な羞恥心」という作家のアイデンティティの核となる主題を絡めることで普遍的な主題に再構成した工夫にあるだろう。

超エリートの主人公が己の才を恃み、職を辞して詩作に励むが、困窮し下級官吏と成り果て、遂に発狂し山野を馳せるうちに虎に変身を遂げる。偶々出会った旧友にその苦衷を打ち明けるという話だ。自分の才能を恃んで次第に生活が苦しくなっているという点で潮田に、人と交わらず独り山に籠る点で大高に似ている。とかく、若いうちは自分の生き方にこだわるあまり、周りが見えず独りよがりに執して身動きが取れなくなるものだ。

潮田は調理学校では自分の方がずっと成績がよかったはずなのに、あまりぱっとしなかった同期のシェフが大きな店を成功させていることに嫉妬する。このあたりの落ち着かない気持ちには覚えがある。優等生の陥りやすいところで、師匠のお覚えめでたく何でもそつなくこなすのは得手だが、さて、自分独りになった時、何ができるかというとそれはまた別の問題である。むしろ、しくじって頭を打った者の方が周りをよく見て失敗からの脱出法も知っているものだ。

大高の車が当て逃げされたり、友人の猟師が銃を盗まれたり、と不穏な空気が漂い出すあたりで話は一挙にサスペンスが高まる。動物の命を奪うという点で、猟師は環境保護を訴える運動家には目の敵にされる。ジビエ料理を看板に揚げるレストランのシェフも同様だ。しかし、一方では作物を荒らす鹿や猪、鳥を駆除してほしいという近隣の農家の願いもある。また、せっかく仕留めた獲物も、衛生管理の点で許可を得ていない施設で解体したものは店で提供できないなどという縛りもある。

ミステリではないが、サスペンス風味を利かせて読者を引っ張ることで、他の生き物の命をいただくジビエ料理を切り口に、料理、環境保護、農業、狩猟といった各種の間に横たわる確執をどう考えればいいのか、というヒントを与えてくれる。ひとくちに解決できる問題などはありはしない。その中で、他者との間に生じる軋轢を逃げることなく受け止め、誠実に対処してゆくよりほかにやれることはないだろう。二人の青年の交流がその糸口となる予感がする。

フランス語をあしらったメニューに見立てた目次は今回も健在。第一章「夏の猪」に始まり、第十一章「ヒヨドリのロースト みかんのソース」に至るまで、全十一品。どれも実際に口にしてみたい料理ばかり。それにもう一つ、愛犬家の近藤らしく、潮田の飼うイングリッシュポインターの雌犬ピリカと大高の北海道犬のマタベーが人間たちに負けずに活躍する。頼りない潮田ではあるが、ピリカを案じる気持ちに嘘はない。犬に限らず動物と暮らす者として、うんうん、そうだよね、と何度もうなずかされた。シリーズ化できそうな気もするが、ジビエに限ると難しいか。とまれ続編を期待したい。

『ハバナ零年』カルラ・スアレス

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電話を発明したのは誰か、ときかれたら、たとえあなたが図書館で『発明発見物語』を読んでいてもいなくてもグラハム・ベル、と答えられる。「電話のベル」と覚えやすいからだ。ところが実際はそうではないらしい。イタリア人のアントニオ・メウッチなる人物がベルより先に特許を申請しているからだ。でも、金に困っていたメウッチは特許保護願を申請するための料金を支払うことができず、特許は失効してしまう。翌年ベルの特許が発効する。それが史実らしい。

それがどうした、と言われるかもしれないので付け足しておくと、実はメウッチがその実験内容について記したメモが実際に残っている。それは彼がキューバの劇場で働いていた時に書かれた。つまり、電話が発明されたのは、なんと電力事情が悪く、よく電話が通じないキューバだったという皮肉な事情があるからだ。これは、それがまだ世に知られていない時代に、いろいろな事情からそれについて調べていた数人の男女の物語である。

1991年、米ソ冷戦が終わり、それまでソヴィエト連邦を頼りにしていたキューバ経済は危機に陥る。表題は、何もかもすべてがなくなってしまった、つまり「零」年を意味している。いうまでもなくハバナキューバを代表する都市で、これはハバナという都市を舞台にした、一風変わったミステリ・タッチの「小説」とひとまずは言っておこう。

主人公で物語の語り手でもある女の名はジュリア。有名な数学者の名を借りた仮名である。「小説」と先に書いたが、形式からいえば、この話はインタビューを通して録音された内容を書き起こした形になっている。文中、ときどき語り手のジュリアが「きみ」と呼びかける部分が挿入されるのがはじめは不思議だったが、最後まで読むと「録音のスイッチを切って」という言葉が入っていて、なあるほど、そういうことだったのね、と納得した。

じゃあ、どうしてミステリなんてことを言ったのかというと、最後に謎が解決されるオチがついているからだ。それに、ジュリアが語る話の内容はといえば、ある文書の行方についての探索行そのもの、というかそればかりだからだ。もちろん、まだ若い男女が登場するので、恋愛らしきものやセックスそのものも描かれはするが、それが中心に来ることはない。理由はいろいろ途中でくるくる変わるが、ジュリアはその文書を見つけたい。そのために、男とつきあっていると言っても言い過ぎではない。

物のないキューバでは、まず金がモノを言う。次に配給では手に入らない物品や自動車を使っての旅行なども、外国人観光客という枠を使えばかなりの自由がきく。というわけで、そのメウッチ自筆のメモが見つかれば、それを外国人(バルバラというイタリア人)に売ることで金が手に入る。それだけではない。世に知られていない新事実なわけだから、それをもとにした論文なり小説なりをを書くことで、名を売ることもできる。

ということで、パーティーでその話を聞いたジュリアは大学時代の師であり、今は愛人関係にあるユークリッド(もちろん仮名)にその話をする。すると、ユークリッドは先刻承知で、すでに多くの資料を収集しているが、肝心のメモが手に入らないのだ、と打ち明ける。そのメモは知人の所有物だったが、金繰りのために売り払われて、今は所在が不明だという。ジュリアはユークリッドと協力して文書を探し始める。

そこに現れたのがエンジェル(仮名)という二十歳代の金髪のイケメンと同年輩のレオナルド(仮名)というムラート(混血)の作家で、二人は仲は良くないが友人関係にある。なぜ仲が悪いのかというと二人にはエンジェルの元妻であるマルガリータを取り合った過去があるからだ。実はその文書というのがもともとマルガリータの家に伝わるものだった。しかし、マルガリータが荷物をエンジェルの家に置いたままブラジルに去り、その文書の行方がよくわからなくなっていたのだ。

三人の男が、それぞれ別の男が隠し持っている、とジュリアに話すたび、その話を信じたジュリアは別の男のもとに走り、結果的にではあるが肉体関係を持つ破目に至る。この辺りの事情は実にあっけらかんとしたもので、誰が誰と寝ようとあまり問題にしないのがラテン気質というものなのだろう。よくは知らないので想像で言ってます。そんなわけで、最後の最後まで文書の行方は分からないものの、男女関係のもつれはそれなりに解決してメデタシ、メデタシ、となる。

最後に、その文書はどこにあったのか、という謎解きが明かされる。古典的なミステリの愛好家なら、だいたい見当がつくと思うのだが、ポオやチェスタートンの短篇でも使われた、あの盲点をつくトリックが使われている。まあ、ミステリ・タッチとはいえ、純然たるミステリではない。どちらかといえば、物のないハバナで大豆ばかり食べながらも、実に陽気で、明るく生き抜くキューバの人の暮らしぶりを味わうのが主眼の小説である。これくらいバラしても叱られはしないだろう。

ところで、グラハム・ベルが電話を発明し、その受話器を使って最初に発した文句というのが本の中で紹介されている。それが「ワトソンくん、用があるからちょっと来たまえ」というのだ。ちょっと話ができ過ぎていると思わないだろうか。これで、ミステリを連想しなかったら、おかしいだろう。



 

『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ』フランチェスコ・コロンナ

 

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ハビエル・アスペイティア作『ヴェネツィアの出版人』で小説の鍵を握る出版物として出てくる『ポリフィロの狂恋夢』。澁澤龍彦訳では『ポリフィルス狂恋夢』の初の日本語全訳となるのが、この『ヒュプネロートマキア・ポリフィリ』である。本についての詳しいことは澁澤龍彦著『胡桃の中の世界』所収の「ポリフィルス狂恋夢」に書かれていることにほぼ尽きる。日本ではほとんど知られていなかったルネサンスの奇書に注目し、詳細な紹介をしている点で澁澤のチチェローネ(案内人)としての力量が窺い知れるというものだ。

澁澤はその中で、ポリフィルスの見るエロティックな夢の記述に着目し、ユングその他の夢解釈を引いて、著者と伝えられるドミニコ会修士フランチェスコ・コロンナの女性に対する執着をシンボリックな図像を通して解釈してみせるが、勿論それは澁澤自身の興味がそこにあるからで、出版物の歴史を通してみるとき、インキュナブラ(揺籃本)を代表する革新的なタイポグラフィの傑作として必ず取り上げられる書物であることはいうまでもない。

ギリシャ風の建築物や、エジプトの象形文字を配したオベリスク、女性が樹木に変化してゆく子細を描いた木版画等多くの挿絵入りで、ラブレーの『パンタグリュエル物語』その他の文学をはじめ、シュルレアリスムの画家、サルバドール・ダリの絵画にも影響を与えたとされるその大冊が、詳細な脚注と挿絵に、関連する資料を訳した付録までついているのだから、何はともあれ手にとらずにはいられないではないか。

表題にあるとおり、夢にまつわる本である。二部構成で、第一部がポリフィルスと呼ばれる男が見た不思議な夢を克明に記述したもの。第二部が、そのポリフィルスが愛する、ポリアという女性が語る自分とポリフィルスの恋愛譚になっている。ひとくちに言えば、身分違いの深窓の令嬢に一目惚れした挙句、娘が祈りをささげるディアーナ神殿に忍び入り、自分の恋情をかき口説くものの、相手にされず懊悩し、ついには悶死しかけた男が見た夢の顛末とでも言えばいいのかもしれない。

ところが、物語はそのようには書かれていない。まず、第一部では、狂死せんまでに恋焦がれる相手のポリアその人の容姿さえ定かではないのだ。無論、夢のことであるからもとより定かであろうはずもないのだが、夢の中で主人公は、地獄めぐりとも、胎内巡りともいうべき巡礼の旅を果たすのだが、途中で出会うニンフその他の美しい女を見るたびに、これがポリアなのだろうか、と疑いながら接している。ポリフィルス自身、ポリアをはっきり認知できないのだ。

第二部のポリアの説明がすべてを明らかにする。ポリフィルスは自宅二階の窓辺に身を寄せるポリアを通りすがりに透き見しただけで恋に落ちたのだ。そんなこととは知らないポリアはポリフィルスの度重なる求愛に終始冷たい態度をとり続ける。しかし、ポリフィルスが神殿で死んでしまい、良心の呵責に耐えられず夢を見る。その酷い夢を聞かされた乳母の解釈で、ポリアはディアーナ女神への貞潔誓願を破り、ヴェヌス女神のもとへと逃れ、愛の成就を果たす。

すべては、ポリア(本名はルクレツィア)の先祖が、自分の美しさに増長し、神を侮ったせいで起きた悲劇に始まっている。ポリアの受難も、その身に備わった美徳と美貌によって起こる。自分の美しさが他人を不幸にしているのに、相手に対し慈悲心を持たず忌避する態度は先祖の罪をなぞることになる。乳母の話で目が覚めたポリアは涙を流して後悔し、その涙が死んだはずのポリフィルスを生き返らせる。そして、回復したポリフィルスにすべてを打ち明けたポリアは(夢の中で)別れを告げる。一人残されたポリフィルスは、執着を解かれるという話である。

不思議なのは第一部と第二部を記す文体の間にある温度差である。上に述べた内容は二人の奇縁を物語る恋愛譚としてそれだけで成立している。恋愛奇譚を書くならそれで済んでいる。ポリフィルスが龍や狼に襲われたり、女神やニンフ、牧羊神が登場する凱旋行列を見たり、ポリアとともにシテール島へ船出し、島での儀式に立ち会う第一部にはいったいどんな意味があるのだろう。

第一部でポリフィルスは、自分の見た建築物、オベリスク、彫像等について実に子細に解説をしている。建築術の知識や数学を駆使してなされる説明は、単なる恋に焦がれた男の口吻ではない。ひとつの解釈として、フリーメーソンの秘儀についての象徴的な解説になっているのではないか、というものがある。錨に巻きつく海豚の図像など、両者を結びつけるシンボルに事欠かないのは事実であるが、今は解釈例のひとつとして挙げておく。

文学的には、滅多に書いたりするものではないが、擬古的な美文の例として重宝するかもしれない。ギリシアローマ神話その他に出てくる数多の恋愛、嫉妬、復讐その他に纏わる人物を引いた豊富な引用が頻出するばかりでなく、建築用語、植物名、没薬、香料等、参考にしたくなる万物の名辞が詳細な註付きで、これでもかというほど繰り返し記載されるのだ。比喩、それも直喩を多用した絢爛たる美文は一読に値する。

イタリア旅行に携えるには少々重いかもしれないが、書斎の机の上に常備し、ルネサンスの画集を見たり、ラブレーや、ネルヴァルを読む際に繙くなど、閑雅なひと時を過ごすにはいいだろう。或は到底成就するはずもない恋の相手にやむにやまれぬ恋情を抱いて悶々としたりするとき、同病相憐れむ先人の苦難に共感しつつ、己の来し方行く末を案じたりするときなど、この書がそれなりの力になるやもしれぬ。とはいえ、書物というのは何かの役に立つから意味があるというものではない。存在そのものにすでに意味があるのだ。造本、装幀、訳業の完成度の高さに拍手を送りたい。



『JR』ウィリアム・ギャディス

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机の上に両足を上げ、椅子の背をいっぱいに倒し、太腿のあたりで本を開いて読んだ。手許にある書見台では厚すぎてページ押さえがきかないのだ。画像では実際の量感がつかみにくかろうが、菊版二段組940ページ、厚さは表紙部分を別にしても約5センチある。比喩でも誇張でもなく、読み終えた後、背表紙を支えていた右手が凝りで痛くなっていた。言葉を換えて言えば、持つ手が痛くなるまで、読んでいられるだけの面白さを持っているということだ。

70年代のニュー・ヨークが主な舞台。見開き二枚の舞台地図、八ページに及ぶ登場人物一覧が付されているが、時間的にはたかだか数カ月程度、入れ代わり立ち代わり顔を出す人間の数は多いが、主な人物は限られている。大河小説めいた時代や舞台の広がりを心配するには及ばない。初読時に面食らうのは鍵括弧なしに延々と繰り広げられる会話の多さだろう。これだけ大部の小説なのに、章分けもなければ、行開けもなく、始まったが最後、終わりまで怒涛のごとく走りぬける。

それも、話し手が誰で聞き手が誰なのかの説明は一切なされない、という徹底ぶり。読者は会話の内容からそれを推し量るよりほかに手はない。そういう意味では、この小説はパーティションで仕切られたレストランの隣の席で交わされる会話をたまたま耳にしている客が、隣席のグループの人間関係やら社会階層を想像して楽しむような、いわば「立ち聞き小説」とでも名づけるに相応しい体裁を持っている。

実験小説などという前評判に気圧され、読みきれるだろうかと恐れる必要はない。途轍もなく面白い。その面白さは保証する。それも、訳者があとがきで挙げている『ユリシーズ』や『百年の孤独』と比べれば、実にハードルが低い。登場人物は現代アメリカに生きる普通の人々だし、主な話題は銭金の話なのだ。たしかに、株式の話や証券取引の蘊蓄がやたらとひけらかされるので、素人には珍紛漢紛だし、主な人物が芸術家なので、詩や先人の言葉の引用も多い。しかし、それは詳細な訳注で懇切丁寧に説明されている。知りたければその都度参照するもよし、その気がなければ無視して進めばいい。

前置きが長くなった。まず、ひとつ目の話題は「遺産相続」である。会社経営者が遺書を残さず死んだため、遺族が法外な相続税を払うには、保有する株を売却するしか手がない。ところが、ここに一つ問題がある。被相続者の長子には正式な婚姻を経ずして設けた子どもがいて、そのエドワードが嫡出子と認められれば、相続権が発生し、その子の持ち株次第で、会社の経営権が両陣営のどちらかに決まる。弁護士はエドワードに権利放棄の書類に署名させようとするが、なかなか会うことができない。

二つ目が夫婦の離婚、別居に伴う子どもの養育権の問題。エドワードが勤務する学校には、マドンナ役のジュベールという女教師と、ギブズという作家志望の男性教師が働いていて、両人ともその問題を抱えている。しかも、ギブズにはアイゲンという友人がおり、彼も同じ問題を抱えている。この長大な小説を支える主題のひとつは意外なことに極めてドメスティックなものである。悩める男たちは、本を書きあげるという自己実現の成就を脇に置いて、妻の要求に応じつつ、滅多に会えない我が子との逢瀬を待つ辛い時を過ごしている。

三つ目の主題が、表題にもなっている、三人が勤める中学校の学生で十一歳のJ R・ヴァンサントという少年がはじめる「金儲け」という話題。この少年、今の言葉で言うなら天才的なハッカーで、当時のこととして、郵便と電話を使って、学校の授業の一環として所有した一株をもとに会社組織を作り、あらゆる手段を駆使して会社を大きくしてゆく。無論、未成年に社長はできないので、J Rはエドワードをアソシエイトとして、彼の名前を使ってあらゆる契約をまとめてゆく。そんなわけでエドワードが仕事部屋にしているアップタウンの一部屋には世界中からあらゆる商品が送られてくる。中には、大量の香港フラワーが特大のトラックで運び込まれるなど、事態は超現実的な様相を帯びる。

『間違いの喜劇』というのはシェイクスピアだが、これもネタは同じで、電話のやり取りを通して起きる、とりちがえ、思い違い、勘違いによる、ちぐはぐな出来事の出来が次々と事態を混乱させてゆく面白さを極大までに誇張したスラップスティック劇である。会社社長や知事といった権力者が、自分を基準にしてものを見がちであることからくる欲望の空回り、空騒ぎがことを大きくしてゆく様子が皮肉な目で描かれている。

面白いといったのは、この小説が書かれたのは、かなり過去になるのに、書かれていることが極めて今日的であることだ。教科書の中に宣伝を入れるというJ Rのアイデアや、ラジオでクラシックのような長い音楽を流すのはCMの回数が減るから、短いポピュラー・ソングの方がいい、という発想の何と進んでいることか。中には最近カナダで実施されたばかりのマリファナの解禁まで先取りされている。

下品で放埓な性的哄笑、となだれ落ちてくる商品に埋もれながら、作家が後生大事に大切にする創作メモの捜索の間に幕間劇のように挿まれるジュベールとギブズの官能的なラブ・ロマンスもある。村上春樹ではないが、肝心なところでセックスの場面が挿入されるなど、読者を飽きさせない工夫にも余念がない。ひとたび、波に乗ればさすがの大長編も一気に読めてしまう。マニアックな読者には訳注相手に再読、三読を楽しんでもらうとして、普通の読者にもそれなりの余禄がなければならない。

一昔前にはマンの『魔の山』のように、時代を象徴する価値観と価値観が互いにぶつかりあう小説があったもので、読者はそれを読むことで主人公の成長に共感しつつ、自己を形成する支えとしたものだが、ポスト・モダン以降、その手の傾向は影を潜めたままだ。それが、ここではエドワードとJ Rとの対話という形で、実に大真面目に描かれている。年配の読者はエドワードの論理に肩入れしたくなると思うが、対するJ Rの反論にも大いにうなずかされるものがある。

鉛筆と紙で創作メモをとったり、楽譜を書くギブズやエドワードの、ある種ロマンティックな時代性というものがある。それに対して、一昔前ならドライ、今風に言えばクールなのがJ Rの考え方。彼には基本的なリテラシー能力が欠如している。「アラスカ」も彼にかかれば「アスラカ」である。それでいて、パンフレットやチラシを収集し、必要な情報を得たり、読めない字ばかりで書かれた法令の中から重要な規約違反を発見したりする能力は肥大ともいえるほど発達している。

金儲けなどは卑しいこと、という考え方がジュベールエドワードにはあって、彼らにとっては芸術の方が価値がある。しかし、J Rは、今自分のいる「アメリカの本質」をしっかりつかみ、それに根差して資本を運用する自分の活動のどこに問題があるのか、とエドワードを問いつめる。この対話には『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を思い起こさせる迫力がある。

面白さは人によっていろいろだ。要は、人それぞれの読み方で楽しめばいい。臆することなく、この大冊を手にとることだ。期待が裏切られることはないだろう。英文で書かれた言い間違いや聞き違いをネタにする作品を日本語に訳すのは大変な仕事だが、訳者は楽しんで仕事をされたにちがいない。こんなに楽しく読めるのは、そうに決まっている。活き活きした会話の横溢する文章がそれを物語っている。

『カッコーの歌』フランシス・ハーディング

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『嘘の木』の作者フランシス・ハーディングの二冊目の翻訳になる。翻訳の世界ではよくあることだが、本国ではこちらが先に出版されている。それで、評判になった作品を読んで、期待して次回作を読むとそれほどでもなかった、ということもある。さて、今回はどうなるだろうか。『カッコーの歌』は、信頼できない語り手が物語る、アイデンティティ(自己同一性)の不安をテーマにしたファンタジー、とひとまずは括ることができる。

ひとまずは、というには訳がある、興味深いテーマがいくつも用意されていて、どれか一つだけも、充分物語を作れるだけの重さを備えているのに、徹底して突き詰めることなく、物語の中に惜しげもなくぶちまけられているからだ。湧き出してくるアイデアを整理できないまま、勢いで書かれたのだろう。その分、次のページを繰らせる力は強い。あれこれ考えずに物語の中に浸りきりたいというタイプの読者にはうってつけの読み物である。

話が進むにつれて主人公の名前がくるくる変わっていく。初めはトリス、次に偽トリス、そして、トリスタ(哀しみ)と。どうして、そんなことが起きるかといえば、物語は主人公が水から這い上がってくるところを助け出されたところから始まっていて、ショックのため、一時的に記憶をなくしているのか、自分のことを相手が呼ぶ呼称によって理解しているからだ。母親(らしき人)は、トリスと呼ぶが、妹(らしき人)は、そいつは偽者だと言ってきかない。

記憶は失くしておらず、今がジョージ五世の御代であることも、自分の住所も言うことができる。それなのに、両親や妹を判別するのになぜ自信が持てないのか、このあたり、作者はなかなか巧みな語り口で語っている。「わたし」という、一人称限定視点で語られていながら、この語り手は、自己同一性を周囲の認識に頼っている点で、いわゆる「信頼できない語り手」なのだ。

おいおい明らかになってくるが、どうやら、「わたし」は本当の人間ではなく、葉っぱとねじれた枝とイバラでできた「人形」らしい。事件を目撃した妹の証言によれば、二人の男が姉のトリスを誘拐し、その代わりに姉の書いた日記やブラシその他の姉に関する何やかやを水の中に人形と一緒にぶちこんだ後で、水から出てきたのが「わたし」らしい。つまり、今いるトリスは、いうところの「取り替え子」なのだ。

「取り替え子(changeling)」というのは、ヨーロッパの伝承で、人間の子が連れ去られ、その代わりに妖精やトロールの子が置き去りにされること、あるいは、そうして取り換えられた子のことを指す。また、妖精などの子ではなく魔法をかけられた木のかけらなどが残されていることもあり、それはたちまち弱って死んでしまうこともある、ともいう。「わたし」が生きていられるのが七日間と日限が切られている本書の場合、後者のほうだろう。

初めは、いくつもの謎の提出があり、主人公の出自や、父親に対する脅迫めいた行為も仄めかされるので、ミステリめいた展開を予想するが、主人公が命を吹き込まれた人形であることが明らかになるにつれ、一挙にファンタジー色が強くなる。瓦斯灯がともり、馬車が行き交う町の上を三つのアーチ橋が架かり、橋上を鉄道が、橋の下を人や車が通る英国の地方都市を舞台にした、小さな姉妹の冒険ファンタジーである。

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本がある。それによれば「合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱」といったさまざまなことが、キツネにだまされたという物語を生みだしながら暮らしていた社会が高度経済成長期を境に徐々に崩れていったのだろう、ということになる。

時代こそ違えこの物語も、鉄道も通り、自動車も走りだして、少しずつ開けていく産業革命後のイギリスの町が舞台である。以前は人間と共存していたある種族が、かつては誰の場所でもなく、自然に存在した場所が消え、すべて地図上に明記されてしまった村に住めなくなり、互いに見知らぬ人々が生きる都市に住処を求めることになる。一人の仲間の思いつきで、皆が住める場所を見出したのも束の間、土木技師である主人公の父が契約を反故にしたため、復讐としてその娘をさらい、代わりに「取り替え子」を置くという行為に出たのが、ことの顛末である。

その種族の一人で「わたし」を作った人形師の話。

ナイフは(略)突く。切る。むく。削る。だがハサミは、たった一つの仕事しかしない。物をふたつに切りわけることだ。力で分ける。すべてをこちら側とあちら側にして、あいだには何も残さない。確実に。われわれはあいだの民だ。だからハサミがきらう。ハサミはわれわれを切り裂いて理解したがっているが、理解するということはわれらを殺すも同じなんだ。

二元論は、物事をきれいに分かつ。不分明なものは残さない。前に聞いたことがあるが科学の「科」には「分かつ」という意味があるそうだ。科学万能な世の中は、それ以前は見過ごされていた、きれいに分類することのできないものの存在を認めない。性や人種、イデオロギーを例にとるまでもなく、世界は二者択一には適さないもので溢れている。それを性急に分けることは息苦しいことであり、立場によっては生きる場を奪われることにもなるだろう。この物語にはかなり重いテーマが隠されている。

その他、戦争という経験が、宗教、階級差やジェンダーに与えた影響への示唆など、モズという名の人形師の語る世界観は傾聴に値する。こういう話をもっと聞いていたいという読者もいようが、そんな辛気臭い話ばかりでは息がつまる。サイドカーを駆って、今でいうバイク便で生計を立てている長身の氷の女、ヴァイオレットをはじめ、生きのいい女性が活躍する後半は息もつかせぬ一大冒険ロマンになっている。小難しい講釈はひとまず置いて、異形のものが自分の生きる場所を見つけようと必死に生きる姿に喝采を送りたい読者も多いだろう。若い人たちを本好きにさせる力のある本である。