青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』ロバート・ジャクソン・ベネット 桐谷知未 訳

家から出ない安楽椅子探偵が、助手を現場に派遣して事件の全容をつかみ、最後に関係者全員を集めて謎解きをする、殺人ミステリの王道を行くスタイルなのだが、表紙カバーのイラストが無気味で、ホラーか何かと勘違いされて敬遠されてしまいそうだ。ミステリ好きの読者はどうか安心して読まれるがいい。とんでもなく面白いことは保証する。

しかし、ただのミステリではない。まず、移動は馬、通信手段は鳩ならぬ「伝書鷹」、武器は腰に下げた剣という、西欧中世あたりを思わせる、神聖カナム大帝国辺境地帯が舞台。そう聞くと歴史小説みたいだが、雨季になるとリヴァイアサンという巨獣が深海から浮上し、帝国東部に幾重にも巡らした堡塁を襲うというのだから、これは架空の帝国。つまり、ミステリでありながら、ハイ・ファンタジーなのだ。

帝国は軍を派遣し、大砲、巨砲で応戦することで臨海防壁を防御してきた。ところが、今回は東海岸の一部で防壁の一部が崩れ落ち、巨獣はそこをめがけて「突破」をかけてきた。そんな非常事態下で、事件が起きる。地主貴族の屋敷で客が死ぬ。ただの死ではない。からだのなかで植物が芽を出し、一気に枝を伸ばして根を張り、人を引き裂いて成長し、根は床下に枝は天井を突き抜けているというから恐ろしい。

政府は凄腕ではあるが変人の司法省捜査官アナを送り込む。アナは感覚が鋭敏過ぎて外に出られない。今回は捜査官助手見習い中のディン・コル中尉が現場に向かう。帝国には、各種技能を持つ人材に、巨獣の死骸から生えた植物から抽出した薬液その他を使って人体を改変した卓越者という存在を各部門に有している。コルもその一人。見たもの聴いたこと、匂い、触感と五感をフル稼働し、それを記憶に留め、捜査官に報告するのが記銘師の務めだ。アナはそれをもとに事件を解決してゆく。

この人体改変や蔓性植物や羊歯紙でできた建築、その他諸々の次々と繰り出されるSF的なギミックが、単なるミステリを読むのとは異質の読書体験をもたらす。それでいて、およそ国家というものができ、階層が生じると、そこに腐敗堕落が起きるのは、いつどこの世界でも同じで、人間の欲が善や正義を脅かし、世界は悪や汚濁に飲み込まれることになる。ハイ・ファンタジーの世界であるのに、今と通じるリアルな世界観が作品に幅と深みをもたらし、情味あるキャラクター造形と相まって、得も言われぬ読書体験を約束してくれる。世界幻想文学大賞、ヒューゴ賞受賞の傑作ハイ・ブリッド・ミステリの誕生である。

『グロリアソサエテ』 朝井まかて

関東大震災で父と家を失った十七歳のサチは、住込みの女中として京都の学者の家に奉公することになった。奥様は日本でも指折りの声楽家として知られるが、家の切り盛りも怠りなく、料理ができるサチは「ねえや」と呼ばれ重宝されることになる。やはり震災を機に東京から転居したばかりの柳家は、奥様付きの女中で稲という口煩いばあやはいるものの、ふたりの子どもも行儀がよく、サチには居心地のいい住処となった。

一家の主人というのが柳宗悦。言わずと知れた「民藝」の創始者で、朝鮮の植民地問題で政府を真っ向から批判してのけた硬骨漢でもある。小説の開始早々から濱田庄司が柳とは初対面の河井寛次郎を連れて現れ、三人の交友関係が始まる。下手物(げてもの)と呼ばれる普段使いの焼き物のなかにある、無名の作物の美しさを愛でる三人の交友が周りの人を巻き込んで大きな運動となってゆくのを傍で見つめるサチは女学校出で、兄から『白樺』を借りて読んでいる。床の間に置かれた木喰仏の良さに気づける感性の持ち主でもある。

三人は連れ立って東寺や北野天神で開かれる市に通っては古布や皿、鉢を買いあさるのだが、問題は柳にはほとんど資産がなく、妻の兼子がいくらリサイタルを開いたり、弟子を取ったりしても家計のやりくりがたたないことにある。表題の『グロリアソサエテ』はサチの頭の中で「輝ける仲間たち」と変換されるほどで、柳、河井、濱田の美を巡るやりとりはいかにも楽しそうだが、どこの家でもそれを陰で支えているのは妻の力だ。他の二人はそれなりに妻を気遣っているようだが、柳は金の話をすると機嫌が悪くなり、癇癪玉を破裂させる。妻の兼子も、黙ってはいずに言い返すので、サチとしては気が気でない。

柳は「民藝」運動を進めるにあたり、国内外を旅行して文物を買いあさるが、いくら立派なことを言ったり書いたりしていても金がなくては生活できない。いくら夫を愛していても、兼子には声楽家として留学し、海外で歌う夢がある。どうして、男は自分の夢をかなえられるのに、女はそれを支える役回りを押しつけられるのか、という思いがサチにはおさえられない。関東大震災から大戦前夜にかけての京都の町を舞台に、女中の眼を通してある一家の暮らしぶりを描いた小説である。奥様と女中という立場の違いを超え、思いを遣るシスターフッドの物語でもある。

台所が小説のかなめであるから、下町育ちの兼子がちゃっちゃと作る独活のサラドやスチウ、河井の妻がつくる鱧鮨や京のおばんざいの椀飯振舞が愉しい。若い娘らしく、淡い恋心も描かれる。ミステリではないが、サチという娘には隠された身上がある。結び部分でそれが明らかにされ、それまでに仄めかされていた伏線が回収されることになる。読みとばしていた部分が気になって早速再読を強いられるのが心憎い。文章にリズムがあって、読んでいて気持ちがいい。五条坂にある河井寛次郎の登り窯やその住居は今も記念館として訪れることができる。柳夫妻が勤めていた同志社大学は田辺に移転したが、今出川には赤煉瓦の校舎やチャペルが現役で残っている。久しぶりに京都を見たくなった。

『死はすぐそばに』アンソニー・ホロヴィッツ 山田 蘭 訳

ホーソーン・シリーズ第五作。第一作はTVのロケ現場にいるアンソニーのところにホーソーンが現れ、自分のことを本に書かないかと持ちかけるところから始まっている。作家自身が狂言回し役を務め、現場での体験をリアルタイムで書くことで、作家の日常とミステリの非日常が混ざりあう。その混ざり具合が絶妙なのだ。ところが、今回はのっけから多数の登場人物がそれぞれの視点でてんでに語りだし、いつまでたってもアンソニーが出てこない。それもそのはず。本作は、めぼしい事件が起きず、新作が書けなくて弱った作家がホーソーンに過去の事件を聞いて書いたもの。当時ホーソーンが組んでいたのは、ジョン・ダドリーという男だった。

 

舞台はテムズ河近くのリヴァービュー・クロースという昔の王族の屋敷跡。再開発を担当した建築家の目論見は、昔の英国の村のような光景の再現。伝統的な煉瓦を多用し、オランダ切妻の屋根に上げ下げ窓、花壇や低木を組み合わせ、大都市近郊であることを忘れさせようというのだ。電動門扉が閉まったら関係者以外立ち入ることのできない文字通りの囲い地(クロース)。今はそこに、リヴァービュー館、庭師の小屋、厩舎、井戸の家、切妻の家、森の家、と呼ばれる六軒が建つ。他の街区と隔絶されていることもあり、住民の結束は固かった。ジャイルズ・ケンワージーがリヴァービュー館に越してくるまでは。

 

長年にわたる顔なじみの共同体に新顔が混じることで生じる軋轢。よくある話だ。医者の夫婦が二組、妻に先立たれた元弁護士、年老いた女性二人組、盛りの過ぎたチェスプレイヤーとその妻といった顔ぶれの中に、場違いな金融業者が金にものを言わせて乗り込めば、近隣住民の反感を買うのは必定。客を招いてのパーティーに忙しい両親は、子どもたちが静かな環境を壊しても知らぬふり。これでは早晩何かが起きても不思議はない。が、まさか、ジャイルズ・ケンワージーがクロスボウで射殺されるとは、誰も思わなかった。

 

担当の警視は、難事件の解決で定評のある元警部の探偵、ホーソーンの助けを借りることにした。しかし、関係者の聞き込みも終わらぬうちに第二の死者が出る。歯医者のブラウン、クロスボウの持ち主だ。鍵がかかった車庫の中の鍵がかかった車中でのガス中毒死。おまけに遺書まであった。ブラウンの妻は病気で窓からの眺めを唯一の慰めとしていた。その美しい庭を壊してプールを作ろうとするケンワージーを彼は憎んでいた。覚悟の自殺か。警視は事件は解決したと判断。しかし、ホーソーンは納得できなかった。住人たちが何かを隠して口を閉ざしていることは明らかだ。彼は調査を続けることにする。

 

昔の英国の田舎にあるような地内で起きる殺人。クローズド・サークル、密室、死者に恨みを抱く一群の人々とくれば、アガサ・クリスティを思い出さずにいられない。大好きな作家へのオマージュだろう。ホーソーンの活躍を書きながら、ダドリーに出番を奪われたアンソニーは活躍の余地を見つける。それは別の謎を解くことだった。ホーソーンとダドリーとの間に何があって、二人は袂を分かったのか。それでなくともホーソーンの過去は謎に包まれている。その謎を解き明かすのがシリーズを通じてのアンソニーの仕事である。本作は五年の歳月を隔てた二人の探偵の腕比べになっている。なんと太っ腹な、一粒で二度美味しい、どこかのキャラメルみたいだ。

 

ホーソーンが小出しにして届けてくる当時の捜査資料をもとに、アンソニーが原稿を書き進めるのだが、一部書き終えるたびにホーソーンが検閲するという取り決めになっている。五年前の謎解きが一時中断したところで、アンソニーが顔を出す仕掛け。ホーソーンとの掛け合いや独自の謎解きの合間に、アンソニーのミステリ論議が混じる。キャラメルについてくるおまけのようなものだ。今回は、E・A・ポオやJ・D・カーを引き合いに密室の謎を論じているが、彼は近年になって最高の密室ミステリは日本から生まれていると考えるようになったといい、島田荘司の『斜め屋敷の犯罪』、横溝正史の『本陣殺人事件』の二作を取りあげているのも、日本人としてはうれしいところ。

 

ホーソーンが漏らす謎解きのヒントを自分で書きながら、書いている本人が真犯人にたどりつけない。それどころか窮地に陥っては相棒に助けられてばかり、というのがシリーズの持ち味。高名な作家が道化役を演じているところがいいのだが、本作におけるダドリーはホーソーンとの相性も完璧で、どうしてこのコンビが解消したのか、と誰でも思う。その謎を解くのがアンソニー。今回のアンソニーは奥さんに何か言われたのか、最後のどんでん返しなど、かっこよすぎる。これはこれで悪くはないが、シリーズ物としては、従来のボケ味も捨てがたい。これまでのアンソニーを恋しく思うのは私ひとりではあるまい。

狼の幸せ パウロ・コニェッティ 飯田 亮介 訳

ミラノ生まれの作家、パオロ・コニェッティは子どもの頃から夏になると一九〇〇メートル級の山地にあるホテルを拠点にして登山や山歩きを楽しんできた。三十歳を過ぎた今も、モンテ・ローザ山麓にあるフォンターネという村に小屋を借り、その土地で目にした自然と生き物の様子やそこに生きる人々の飾らない暮らしぶりをノートに書き留めては創作の糧にしてきた。デビュー作『帰れない山』以来、作家本人を思わせる一人の男の目を通して、山で生きる厳しさと愉しさを描いてきたが、今回は四人の男女の視点を借り、山で生きる男と女の関係に迫っている。

小説はフォンターナ・フレッダのほぼ一年を扱っている。四季の移ろいとそこに暮らす人々の暮らしぶり、狼をはじめ、鳥や動物の生きるための工夫にも事欠かない。

ミラノに住む作家ファウストは四十歳。結婚まで考えていた十年来のパートナーと別れ、人生をやり直すため、フォンターナ・フレッダに戻ってきた。部屋を借り、山道を歩き薪を拾い、九月、十月、十一月と自由の喜びと孤独の悲しみをかみしめながら暮らしてきたが、切り詰めた暮らしにも限度があった。ミラノに帰れば仕事の伝手はあったが、別れた女性との間に残された種々の問題解決に時間を取られることは確実だった。

彼は村でたった一つの社交場である『バベットの晩餐会』というレストランの経営者バベットに自分が苦境にあることを打ち明けた。彼女は料理ができるならコックとして店で働けばいいと言う。こうしてクリスマスの季節も、フライパンを振ることになったファウストはその店で住み込みで働くシルヴィアという若い娘と出会う。彼女もまたよそ者で、何かから逃げるようにここに来ていた。二人が愛し合うようになるのはある意味で必然的だった。

フォンターナ・フレッダにはスキー・ゲレンデもあった。一年の三か月間、山男たちはリフトの切符売り、圧雪車の運転手や救助隊員に姿を変える。サントルソもその一人だ。仕事終わりにはバベットの晩餐会に集まってはグラッパを飲んで皆でわいわいやるのが常だった。話好きの山男と、自分の知らないことを聞くのが好きな新米コックはすぐに仲良くなる。

中篇小説といっていい本作は三十六プラス一章で構成されている。小説のなかにも出てくる北斎の『富岳三十六景』になぞらえてのことだ。ファウストの視点が中心だが、シルヴィア、バベット、サントルソの視点で語られる章も多い。視点が変わることで山に対する思いも人に対する思いも人それぞれであることがよく分かる。それぞれの人物にはそれぞれの人生があって、それが今の自分につながっている。一篇の小説を読みながら、四人の人物を主人公にした四篇の短篇小説を読んでいるような気になった。

 

『教皇ハドリアヌス七世』コルヴォー男爵 大野露井 訳

今年の翻訳大賞はこれで決まりだ。もう何年も前に『コルヴォー男爵を探して』(A・J・A・シモンズ、河村錠一郎訳)を読み、「これが今まで本邦初訳であったのがちょっと信じられない。稀覯本に限らず、奇書、珍書に目がない読者なら何を措いても読まねばならない一冊」と書いたことがある。そのコルヴォー男爵こと、フレデリック・ロルフの代表作『教皇ハドリアヌス七世』の本邦初訳である。

待つこと久し。待ちわび、待ちあぐね、ついには老齢のせいもあって、待っていたことさえ忘れ果ててしまった今ごろになって訳出されるとは。生きていてよかった、というと大げさに過ぎるが、期待を裏切らない出来映えである。ギリシャ語、ラテン語はおろか、多言語を素材に独自に作り出した造語まで駆使し、時代がかった擬古文やら、教皇庁ならではの格式ばった言い回しやら、或は打って変わったべらんめえ口調まで、作者の言葉遊びを日本語に置き換える作業を、訳者は多分苦労しつつも愉しんで翻訳されたにちがいない。読んでいて何度にんまりさせられたことか。

持ち重りする大冊ではあるが、小説としてはそれほど込み入った話ではない。司祭になりたいと願う青年が、周囲にその機会を阻まれ、何年にもわたって貧乏暮らしにあえいでいたところ、ある日突然教会側から謝罪と賠償を申し出られてそれを受ける(ここまでが序章)。話はそこからとんとん拍子に進む。念願の司祭となったジョージは枢機卿のお伴をしてコンクラーベが開かれている最中のローマに赴くが、本人の知らぬところで話はついており、あろうことか、到着早々ジョージは新教皇に選出されてしまうのだ。

およそ信じられない話の運びである。ところが、そこからが面白い。ハドリアヌス七世を名乗ることになったジョージは、ためらうことなく、長きにわたって思案し続けてきた教会の改革に乗り出す。旧弊な老人たちに支配されていたカトリックの総本山のトップに立つことで至上の権力を握った新教皇は、自分の目に適った連中を周囲に置くことで足場を固め、矢継ぎ早に改革を推し進める。彼は自分のために動いたのではない。当時、ロシアは革命の渦中にあり、世界中がその成り行きを見守っていた。俗界と距離を置くのではなく、新聞を通じて教皇の考えを広く大衆に知らせ、世界中のキリスト者に愛の力を訴え始めたのだ。

ところが、若く人好きのする教皇の人気が高まるにつれ、それを妬む者や、足元をすくって旨い汁を吸おうと考える輩が現れる。貧しい暮らしをしていた時分のジョージによこしまな恋心を抱いた未亡人と社会主義者のジャーナリストが、根も葉もない新教皇のスキャンダルを騒ぎ立てることとなり、それに乗じて教皇の行き過ぎた改革を苦い思いで見ていた守旧派が勢いづく。ハドリアヌスは退位を迫る守旧派とどう対峙していくのか、果たしてその顛末は、というのがおおよそのあらましである。

一般人には想像もつかないカトリック教会や神学校の内部の暗闘、桎梏。またローマカトリックの中枢であるバチカンの内幕など、その資金力から権力構造、イタリアやドイツといった周りを取り巻く世俗の国家権力との力関係等々を、中に足を踏み入れたこともない素人が、あれよあれよと言う間に最高権力者でなければ不可能な権力を行使するのを横目で見ていられる愉快さと言ったらない。才能こそあれ、一介の物書きでしかなかった青年のどこにこれほどの力が隠されていたのか、と周囲の者も恐れるほどの抜群の力量は神からの賜り物なのか。

ここらあたりで内幕をばらしてしまおう。実はこれ、コルヴォー男爵ことフレデリック・ロルフの自伝小説と言っても過言ではない。ロルフは英国国教会からカトリックに宗旨替えし、司祭を目指していたが、周囲の不興を買い、神学校を追い出されてしまう。その後も当初の志を失わず、絵や写真の才能を活かして生活費を捻出し、後には小説を書いたりもするが鳴かず飛ばず。そのあたりのことは序章に詳しい。このノンシャランとした序章と最後に告白されるジョージの本心との対比が凄まじい。屋根裏部屋で猫と暮らす平穏な日々の裏にどれほどの懊悩が隠されていたのか、クライマックスのジョージの独白と比べられたい。

しかし、いくら待っていても小説のように迎えが来るわけもなく、抜群の才能を誇りながらも世間に認められない芸術家の苦悩と自恃を創作の形で世に問うたのが『教皇ハドリアヌス七世』であった。自分の現状を写し取ったのが序章なら、もし自分が本来あるべき姿で人の前に立ったなら、こうもしたい、ああもできるはず、といった空想、妄想が勢いよく迸る形で体をなしたのが第一章から第二十三章までの部分である。特に、自分が落剥してからの周囲の連中の掌を返したような態度によほどはらわたが煮えくり返ったのだろう。作中にぶつけられた恨みつらみ、自己憐憫の何たる激しさよ。

ネガとポジ、陰画と陽画という比喩を使えば、この小説がポジで陽画なのだが、作家の実の姿はネガであり、陰画のままで終わっている。ではなぜそういうことになったのか。シモンズの本が出て、再評価の声が高まりを見せながらも今に至るまで邦訳が出なかったあたりにその答えがあるのだろう。人は一人で生きているようで実はそうではない。同じ時代を生きている多くの人々と共に生きているのだ。若い頃はそんなことは考えもしない。己が才を恃み、他を顧みることはない。ロルフにもその幣があった。時が移り、作品を客観的に評価してもらえる時代を待たねばならなかった。今なら、この小説の面白さは受け入れられるのではないか。多くの人に読んでもらいたい、と作者に代わって切に願うところである。

『夜のサーカス』エリン・モーゲンスターン 宇佐川晶子訳

十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、ロンドンを拠点として世界各地を飛びまわるサーカスがあった。<ル・シルク・デ・レーヴ>は普通のサーカスではない。日没から夜明けまでしか開かない<夜のサーカス>なのだ。まだまだ都市近郊に野原や空き地があった時代。予告もなしに、そのサーカスはいきなりやってくる。昨日まで何もなかったところが鉄柵で囲まれ、柵沿いに伸びる遊歩道の向こうに、白と黒の縞柄で統一された高さも広さも様々なテントの群れが忽然と姿を現す。

シーリアは魔術師プロスぺロことヘクター・ボーウェンの娘。はじめて会った五歳の時以来、父から厳しいレッスンを受けて大きくなった。ヘクターとその師アレキサンダーは長年にわたり「挑戦」と称するゲームを行ってきた。弟子同士を駒(プレイヤー)として用い、技を競い合うのだ。娘に自分の血が流れていることを知ったヘクターは、シーリアを「挑戦」の駒に使うことを決める。受けて立つアレキサンダーは孤児院から、後にマルコと名乗るようになる一人の少年を譲り受ける。

修行を終えた二人の弟子の闘いの場に選ばれたのが<ル・シルク・デ・レーヴ>だ。魔術師プロスぺロを高く買う、金持ちの興行師チャンドレッシュ・ルフェーブルが持てる資金とプライドをかけ、超一流の人材をかき集め、金に糸目をつけずにつくり上げた<夢のサ-カス>。十七歳になったシーリアはそのオーディションに合格し、奇術師として採用される。マルコはアレキサンダーの紹介でルフェーブルの秘書を務めることになる。

プロスぺロとアレキサンダーは奇術師ではなく本物の魔法使いだった。魔法使いの血を引くシーリアは、幼いころからカッとなると手も触れずに周りの家具や茶碗をよく壊し、母に「悪魔の子」と呼ばれていた。シーリアは衝動を制御することと、壊したものを元に戻す技法を学ぶ必要があった。ヘクターは娘の才能を磨くため、父というより指導者として娘に厳しく接した。その甲斐あってシーリアはどんな場所でも即座に観客を驚かせる奇術を見せることができた。

オーディションで初めてシーリアの奇術を見たマルコは、彼女が自分の相手だと知り、その技術の高さに打ちのめされる。マルコには魔法使いの血は流れていない。アレキサンダーは昔気質の魔法使いで、教えることができなければ、どんな手法も価値はない、と考えていた。彼は弟子に多くの本を読ませ、世界各地を連れ回して本物の美術や建築物に触れさせ、世界のありようを学ばせた。マルコは身につけた技法を記号や護符という形で常に革綴じの本に書きつけることで魔法を構成する。マルコは他人の頭や心の中に入り込み、それを操るのも得意だった。

シーリアは自分の相手を知らない。その点ではマルコが有利だが、興行師の秘書としてロンドンに住んでいたので、サーカスとともに移動することができない。サーカスがどこにいてもつながっていられる工夫が必要だった。マルコと暮らしていたイゾベルが占い師としてサーカスに入り、中の様子を手紙で知らせることにした。マルコはサーカスの中庭の中央でいつも燃えている篝火に魔法をかけ、サーカスを遠くから操作できるようにした。

こうして始まった二人の「挑戦」だが、自分とは異なる技法を使う相手の繰り出す魔法のかかった出し物に、二人とも激しく魅せられ、ついには合作にまで手を出す始末。ふたりの指導者にとってはこれは誤算だった。ある激しい雨の夜、シーリアは傘の下にいる自分が全然濡れていないことに気づく。追いかけてきたマルコに、それは僕の傘だと告げられ、初めて自分の相手が誰かを知る。サーカスがロンドンにいるとき、ルフェーブルは親しい人々を<真夜中の晩餐>に招待する。サーカスでは好敵手だが、サーカスを離れればただの男と女。二人が惹かれあうのに時間はかからなかった。

問題は、どちらかがこれ以上続けられなくなった時点で勝負がつくというゲームのルールにふたりが縛られていることだ。相手が死ぬまで勝負は続く。ふたりとも、何も知らない子ども時代に指導者の指環で呪縛をかけられていて勝手にゲームを降りることはできない。師の意向に逆らうと途端に全身に激痛が走るのだ。シーリアは魔法を使ってサーカス全体を支え、動かしていたが、もう限界だった。また、マルコが篝火にかけた魔法が関係者の人生に影響を与え、サーカスには綻びが生じてきていた。ふたりはどうやってサーカスとそこで生きる人々を守ることができるのか。

シェイクスピアの『テンペスト』、『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』を下敷きにし、サーカスを舞台に、魔法使いの弟子たちが命がけの愛を紡ぐ物語。魔法でできた摩訶不思議な出し物が細部に至るまで詳細に描かれており、読んでいてわくわくする。また、サーカス内に漂うキャラメルの香りにはじまり、晩餐で供される凝りに凝ったコース料理に至るまで、五感を刺戟してやまない多彩な表現に魅了された。まるで魔法にかけられたような読み心地だ。新作の『地下図書館の海』も図書館好きにはたまらないが、どちらか選べと言われたら、個人的にはレトロスペクティヴなデビュー作のほうを選ぶ。

この物語は、シーリアを軸とした魔法のかかったサーカスの物語と、マサチューセッツ州コンコードに住む少年ベイリーの成長物語という二つの物語で構成されている。主軸はシーリアの物語であり、ベイリーは偶然その物語に入り込んでしまう闖入者という格好になっている。事を分かりにくくしているのは、シーリアの物語の流れに割り込むように挿まれるベイリーの物語が少し先の未来になっていることだ。よく練られたプロットだが、読者は混乱するかもしれない。そのために章のタイトルに続いて、シーリアとベイリーの物語にはそれぞれの時間と場所が記されている。そこさえ気をつければ問題はない。

『夕霧花園』 タン・トゥアンエン 宮崎一郎訳

テオ・ユンリンはマラヤ連邦裁判所判事を定年まで二年残して辞職した。誰にも言わなかったが、少し前から突発的に言葉の意味が理解できなくなる事態が生じていたからだ。優秀だが厳しいことで知られる判事だった。彼女には封印した過去がある。十九歳の時、日本軍がマラヤを強襲し、三歳年上の姉と共に強制収容所に入れられた。手袋で隠された左手の小指と薬指は、二本の鶏足を盗んだ代償として切断されていた。

彼女は生きて出られたが、姉のユンホンは生きて収容所を出ることはなかった。彼女は姉を見捨て、ひとり逃げのびた自分を認めることができなかった。日本軍に対する怒りと姉に対する負い目を封じ込めるため、硬い鎧のような自我を纏って生きてきたのだ。失語症の発症は自分のアイデンティティの危機を意味していた。彼女は封印していた過去と再び向き合うため、長い間背を向けていた「夕霧」を訪れることにした。

「夕霧」はアリトモという「天皇の庭師」だった男が作った日本庭園である。少女時代、家族で日本に旅行した際、姉のユンホンは京都で目にした日本庭園に魅せられた。苛酷な収容所での現実から逃避する場所として姉妹は頭の中に庭を作った。空腹も屈辱も架空の庭に逃げ込むことで辛うじて耐えた。戦争は終わったが、収容所のあった場所は秘密にされていたため、姉の遺体はどこにあるのかさえ分からなかった。

姉の代わりに庭を造ることを思いついたユンリンは、キャメロン高原で茶園を営む知人の紹介で、初めて「夕霧」を訪れた。二十八歳になっていた。アリトモは戦争で荒らされた「夕霧」の修復で手一杯だと依頼を断ったが、ここで仕事を手伝えば、庭の作り方を学ぶことができる、と言った。日本人に弟子入りすることに抵抗を覚えたが「夕霧」という庭の持つ魅力には勝てなかった。雨季が来るまでの半年間、人夫たちに混じって力仕事をすることにした。

アリトモが英訳した『作庭記』を読み、日々庭づくりに精進することで、彼女は庭の持つ深い意味を知る。また、毎朝弓を引くアリトモの姿に求道者の姿を見、自分も弓を習うようになる。それはただの武術ではなく、呼吸法を習得する術であり。無の境地を知るためのよすがであった。二人でいる時間が長くなるとともにわだかまりは薄れ、ユンリンとアリトモの間には師弟の距離を越えた感情が生まれはじめていた。雨季を迎えてもユンリンは「夕霧」にとどまった。そんなとき、日課の散歩に出かけたままアリトモは姿を消してしまう。

ユンリンが長い間捨てて顧みなかった「夕霧」を再訪することにしたのは、ヨシカワという歴史学者が浮世絵師でもあったアリトモの本を書きたいので、彼の遺した木版画を見せてほしいと言ってきたからだ。アリトモは生前「夕霧」内に建つ私邸や自作の著作権をユンリンに遺贈していた。ヨシカワからの手紙には先端に幾筋もの溝が刻まれた細い棒が同封されていた。その棒に興味を引かれ、ユンリンはヨシカワに会うことにした。この棒もそうだが、いくつもの伏線が張られて、回収されるのを待っている。ただひとつ回収されることがないのは消えたアリトモについての謎だ。

アリトモが戦後もマラヤに残っていたのは、そこを離れることができなかったからだ、という説がある。天皇の命令で近くの山に埋められた「山下財宝」を見張っているのだと。アリトモはただの噂話だと言って相手にしなかったが、ユンリンは収容所で「金の百合」のことを耳にしている。そういう秘密組織が東南アジア各地で金銀財宝を略奪し、海上ルートで日本に運ぼうとしたが、形勢悪化により断念し一時的に埋めて後で掘り出そうとした。だが、戦争に負けて果たせず、結果的に財宝は埋められたままだという。

ある日、一人の尼僧が「夕霧」を訪ねてきた。かつてアリトモと訪ねた高い山中にある「雲の寺」で会ったことがあるという。従軍慰安婦をしていたせいで、家郷に入れられず「雲の寺」を頼ったのだ。「雲の寺」にはそういう境遇の人が何人もいた。今ではユンリンも姉が自分といっしょに逃げなかった理由を知っている。何もなかったふりをして家族のもとに帰ることはできなかったのだ。なにより、妹が知っている。後ろを振り返らず、前を向いて逃げろ、と言った姉の言葉が耳に残る。

庭は生きている。人が手をかけなければ草は伸び、枝葉が繁り、作者の意図した形が失われてしまう。庭師は、死後自らその作品を守ることができない。庭作りの技術と思想は絶えず受け継がれていかなければならないのだ。アリトモが姿を消したとき、捨てられたと思ったユンリンは深く傷ついた。そして過去を封印し、クアラルンプールに戻った。しかし「夕霧」は傷つきながらも生きていた。傷は癒されねばならない。修復が済んだら「夕霧」を一般に公開しよう。アリトモの木版画も展示し、東屋の傍にユンホンの生涯を記した銘板も立てよう。自分もいつか死ぬ。「夕霧」を託せる庭師を育てなければならない。ユンリンにはまだすべきことがたくさんあった。