青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『リカルド・レイスの死の年』ジョゼ・サラマーゴ 岡村多希子 訳

f:id:abraxasm:20220115110228j:plain

存在したこともない人についてこんなふうに語るのはばかげていると言われたら、僕は答える。リスボンや、書いているこの僕や、その他どんなものも、どこかしらにかつて存在していたことを証明できるわけではない、と。――フェルナンド・ぺソア

ポルトガルを代表する詩人カモンイスの詩句「ここで大地は終わり、海がはじまる」を逆説的に言い換えた冒頭の一文「ここで海が終わり、陸がはじまる」から、懐かしい映画を見ているようなサウダージの気分が辺りに満ち溢れる。黒っぽい船が雨にけぶるテージョ川を上ってゆく。大西洋横断用の船だ。十六年の時を経て、旅人はポルトガルに帰ってきた。

川沿いのブラガンサ・ホテル、川の見える二〇一号室に宿を取った旅人は宿帳を書く。名前はリカルド・レイス、年齢四十八歳、ポルトガル生まれ、独身、職業は医者、最後の住所はブラジル、リオデジャネイロ。これで、旅人の出自が知れた。古典主義的で牧歌的なホラティウス風のオードを得意とする詩人、リカルド・レイスは君主制を支持していたため、ポルトガルが共和制宣言をした一九一九年、自らブラジルへ亡命した。

それでは、帰ってきたのだ。いったい何のために? 翌朝、レイスはバイロ・アルトにある新聞社を訪れ、フェルナンド・ぺソアの死と葬儀についての記事を読む。ペソアは土曜日に死に、昨日埋葬されていた。記事には、詩の中で、彼は単に彼、フェルナンド・ぺソアだけではなく、アルヴァロ・デ・カンポス、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイスでもあった、と書かれている。レイスは、誤報だと口走る。自分はここにいるではないか、と。

少々説明が必要になるだろう。フェルナンド・ぺソアにはその名ばかりではなく「異名者」と呼ばれる、異なる様式を持つ詩人が複数同居している。リカルド・レイスはその一人だ。サラマーゴは、ぺソアの作り出した異名者の一人であるリカルド・レイスを自分の小説の主人公に起用し、しかも、死んだペソアを幽霊にして、二人に繰り返し対話させている。何を思って、そんなことをしたのだろうか? ここは本人に語ってもらおう。

「レイスの詩に深く感動し、手放しの感嘆と賛美を捧げていました。しかし、また一方では、これほどの人がどうして世の中で起こる問題に対して無関心でいられるのか、これほどの知識と感受性と知恵とを備えた人間が、どうして真の智恵とは世界のできごとに満足することだなどと考えることができるのか、という反感にも似た感情や理解に苦しむ気持を抑えることができなかった(「解説にかえて」より)」

『リカルド・レイスの死の年』は、この問題を解決するために書かれた。では、サラマーゴの考えるレイスはどんな人間か。金に不自由しない中産階級で、ホテル暮らしを続けているが、特にこれといって何もしない。友人もおらず、あてどなくリスボンの街路をさまよい歩き、カモンイスの銅像のある広場のベンチで新聞を読み、鳩や人々を見ているだけだ。ホテルのメードのリディアと関係を持ち、子までなしながら、彼女の私生活には無関心だ。

そんなレイスが、ある日国家保安防衛警察に呼びだされる。警察は突然の帰国に疑惑を抱いたのだ。それだけでなく、いつもタマネギの臭いをさせている見張りまでつく。煩わしくなったレイスはホテルを出て下宿暮らしを始める。一時的に医師の代診もするが、本業にする気はない。詩を書くことはやめておらず、折に触れて思ったことは書き留めている。リディアとの関係は続けながら、別の女性にも関心を寄せるなど、いい気なものである。

というのも、「解説にかえて」にもあるように、一九三〇年代のポルトガルでは、新聞の事前検閲、秘密警察など、ファシズムの抑圧装置が常に働いており、人々は押しつぶされそうになりながら展望のない暗い日々を送っていた。三六年にはスペイン内戦が勃発、ドイツはラインラントに侵駐し、イタリアはエチオピア侵攻を続け、フランスには人民戦線が成立する。三年後、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する、そんな時代だったのだ。

ホテルの食堂にはスペインから逃げてきた客、街頭では配られる食料に群がる人びと、新聞の記事からでも、自国の置かれている状況がレイスには理解できたはず。ところが、彼はただそれを傍観者として見ているだけだ。世界のできごとに満足しているのか、彼の関心は情事と恋愛のまねごと、そして実体のないペソアとの形而上学的対話にしかない。こういうと、批判しているように思われるかもしれないが、そうではない。

エピグラフの一つに「行動しないやり方を選ぶことが、僕が人生でつねに心がけ配慮したことであった」とあるように、リディアとの房事を別にすれば、レイスはいかにもフェルナンド・ぺソアらしい。サラマーゴはいざ知らず『不安の書』の愛読者としては、レイスにはこうあってほしい。リスボンの街の通りを歩き、坂を上り、展望台に出ては風景を眺める。レイスはまるでペソアのテクストに足が生えて歩き出しでもしたかのようだ。

ペソアの幽霊は、レイスが見ようとしない現実を映す鏡の働きをしているが、ペソアにしてはいやに国際情勢を気にしている。まるで作家がペソアに乗り移り、レイスに喚起を促しているようだ。レイスは対話を通し、次第に自分のいる現実の世界に気づき始めるが、少々遅すぎた。ペソアの言うには、人は死んでから本当に死ぬまで数カ月の余裕がある。彼はその時間を使って、友が悔いのない残りの人生を送れるように働きかけていたのだ。

別れを述べるペソアに、レイスが自分も一緒に行くという。本を手にしたレイスにペソアが言う。「その本は何のためなんだ、時間があったのに、どうしても読み終えることができなかったからだ、時間はないだろうよ、いくらでも時間はあるさ、君は思い違いをしている。読むというのがいちばん最初に失われる能力なのだ、覚えているかい。リカルド・レイスは本を開ける、何が何だかわからない記号、黒い走り書きの痕、よごれた頁が見える」

人は生きている時、自分は死んでいないと思っている。だが、死んだペソアに言わせれば「死と生は同じものだ」。死と生は並走している。自分が死んでいることに気づいてからでは遅いのだ。ペソアは、ポルトガルの人はかわいそうだ、と涙を流すが、当時のポルトガルに限った話ではない。今の日本でも同じだ。人は、もう本を読めなくなっている。よくよく見れば、われわれの目の前にあるのは「何が何だかわからない記号、黒い走り書きの痕、よごれた頁」ではないだろうか。

『修道院回想録』ジョゼ・サラマーゴ 谷口伊兵衛/ジョバンニ・ピアッザ訳

f:id:abraxasm:20220113144147j:plain

一七一三年、ポルトガルジョアン五世は、首都リスボンの西、マフラの地に宮殿、修道院、大聖堂からなる壮大な伽藍を建設しはじめる。事の始まりは、修道院を建てれば世継ぎが生まれるという、一フランシスコ会士の言葉だった。予言通り王妃が懐妊すると、王は約束を果たすため、五万人という人員と、巨額の建設費を注ぎ込んで大事業に乗り出す。

はじめは小規模な修道院を寄進するはずだったが、サン・ピエトロ大聖堂のレプリカを所持していた王は、イタリア人技師に、サン・ピエトロ級の規模にするよう命じる。ピラミッド建設が一大公共事業だったことは衆知の事実。ことはマフラでも同じで、大工や石工として大勢の職人が働く場を得たが、それと同時に死者の数は千三百人にも及んだ。一七三〇年には王自らが参列し大聖堂の献堂式が荘厳に挙行される。小説が扱うのはその頃のことだ。

七太陽という異名を持つバルタザル・マテウスは、マフラ生まれの軍人。戦争で左手首から先を失い、軍を解雇されて帰郷の途に就く。バルタザルは、旅の途中リスボンに立ち寄り、ロッシオで行われる公開処刑を見物した。火刑は闘牛とともに庶民の娯楽であった。彼はそこで、終生の伴侶となるブリムンダ、それに、仕事の依頼者となる、バルトロメウ・ローレンソ神父と出会う。この後、三人は三位一体となり秘密の仕事に取り掛かることになる。

ブリムンダはユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人の血を引く。宗教裁判で多くの人々が異端や魔女であるとされ、火炙りや磔、鞭打ち、追放の刑に処せられていた時代。ユダヤ教イスラム教信者は、特に目をつけられていた。ブリムンダは、幻視や啓示を大っぴらに語った罪で、鞭打ちの後、八年間アンゴラ公国に追放される母親を見送りに来ていた。実はブリムンダにも人体や地中を透視する秘められた力があった。

バルトロメウ・ローレンソ神父は実在の人物。ブラジルはバイヤのベレン神学校で僧職を学び、一七〇八年にポルトガルに移住。一七〇九年にジョアン五世に飛行機械を発明したことを報告、サン・ジョルジェ城の丘から軽飛行機を飛ばし「飛ぶ人」と呼ばれた。モンゴルフィエ兄弟がフランスで飛行実験をする七十五年も前のことだ。バルタザルとブリムンダは、神父の飛行機械の製作とテストに協力し、偉業を成し遂げることになるはずだった。

バルトロメウ・ローレンソ神父の大鳥(パッサローラ)の話は史実だが、それが空を飛ぶ仕組みは、サラマーゴの創作だ。ローレンソの理論では、空を飛ぶためにはエーテルを貯える必要がある。エーテルとは人間の「意欲」だという。魂は死んでから体を離れるが、意欲は生きている内に抜け出るもので、体の中が透視できるブリムンダなら、暗い雲のように見える意欲を集めることができるのだ。ブリムンダに渡されたガラス容器にはエーテルを引き寄せるための琥珀が入れてあった。空を飛ぶためには二千人分の意欲が必要だった。

バルタザルにはパッサローラを組み立てる仕事が待っていた。彼には失くした手首の代わりとなる金属と革で作られた留め金があった。それを使って、板材や籐の細枝、帆布、鉄や銅のコイルで大鳥を組み立てるのだ。材料は王から神父が借り受けた公爵の領地内にある馬車小屋の中に集められていた。三人はそこに泊まりこんで機械を作り始める。その間、マフラでは大聖堂建設が進行中。だが、人力と牛だけが頼りでは礎石となる大きな石を運ぶのも大変で、死者は数知れず、バルタザルの家族からも死者が出る。

サラマーゴの語りは、飛行機械と大聖堂の話を主題としながらも、謝肉祭の賑わいを長々と披歴したり、王の行列の賑々しい様を描写したり、神学論議を交わしたりと逸脱を繰り返し、一筋縄ではいかない。そんな中に当時音楽教師として王に雇われていたドメニコ・スカルラッティが登場する。スカルラッティは宮殿でローレンソと知り合い、大鳥作りの秘密を知る四人目の仲間となる。彼は、死に瀕している大勢の黒死病患者から意欲を集めに行ったせいで衰弱したブリムンダの病を癒すために何時間もハープシコードを弾いてくれる。

当時、人が空を飛ぶというのは魔術に類する技であり、いくら王の庇護があったとしても宗教裁判にかけられる惧れがあった。自分の身に嫌疑がかかったことを知ったローレンソは慌てて飛行機械を隠してある小屋に戻り、それに乗って逃げようとする。つかまれば、二人も同罪である。三人はパッサローラに飛び乗るとガラス瓶にかけてあった覆いを剥がす。するとエーテルは日を浴び、たちまち大鳥は羽ばたき、空に舞い上がる。この空を飛ぶ大鳥からの俯瞰の視線で描かれるリスボン風景が圧巻。

しかし、日が暮れかかると大鳥は降下し始める。バルタザルとブリムンダが何処とも知れない丘陵に機械を着地させると、神父は頭を抱えて走って逃げだす。二人がマフラに戻った時、修道院を建設中の職人たちは、空の高みを飛ぶ精霊の姿を目にした話でもちきりだった。神父の行方は杳として知れず、バルタザルが時々修理も兼ねて様子を見に行くのだが、大鳥は周りを蔽う草木に紛れ、朽ち果てていくようだった。そんなある日、機械を見に行ったバルタザルが帰ってこなかった。ブリムンダは夫を尋ね、国中を巡る旅に出る。

複数の史実を生かしつつ、実在の人物と架空の人物を絡ませることで、宗教裁判と黒死病、大聖堂建設という国家的規模の厄災に見舞われた当時の人々の姿を剔抉し、それにもめげず愛を貫き通す一組の男女の姿を描くことで、ポルトガル一国の歴史を超え、蒙昧の歴史の闇に飲み込まれまいとする、人の叡智と行動の尊さを、独特の語りで生き生きと描く。全知の話者の語りに身をゆだねる心地よさを一度でも知ってしまうと、その世界から抜け出るのが苦痛で、いつまででも何度でも読んでいたくなる。ジョゼ・サラマーゴは、誰にも真似のできない世界を創出することができる、数少ない作家の一人である。

『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ 雨沢 泰 訳

f:id:abraxasm:20200214164151j:plain

コロナ禍で、多くの人がパンデミック小説の存在に気づいたらしく、カミュの『ペスト』が話題となったが、この小説も二十年ぶりに文庫化され、重版もかかったようだ。未知の感染症の恐怖を描いたものだが、死に至る病ではない。他にどこも悪くならず、目だけが見えなくなる。それも真っ暗な闇に閉ざされるのではなく、ミルク色の海に落ちたように白の闇に閉じ込められるのだ。

登場人物は固有名を持たない。「黒い眼帯の男」や「サングラスの娘」というふうに外見によって区別するか、「医者の妻」のように職業や続柄で呼ばれることになる。当然、舞台となる町も国もどこかは分からない。一口にいえば寓話である。埴谷雄高は小説『死霊』のことを「思考実験」ならぬ「妄想実験」と評しているが、サラマーゴのこれもその試みの一つと言える。「もしわれわれが全員失明したらどうなる?」という「妄想実験」である。

三車線の道路の真ん中で信号待ちをしていた一台の車が、信号が青に変わったのに動き出さない。ガラスの向こうで、男が何か言っている姿が見える。後ろの車から出た人がドアを開けると男が「目が見えない」と言っていたことが分かる。一人の男が失明した男の代わりに車の運転を申し出て、失明した男を家まで送り届けてやる。失明した男の妻が帰宅し、夫は妻に連れられ、眼科を受診する。待合室には黒い眼帯の男やサングラスの娘、斜視の少年がいた。しばらくして、この人たちは医者も含めて全員目が見えなくなる。

男の目には何ら異常がなかった。それなのに自分も同じ症状になった医者は未知の感染症を疑い、政府に連絡を取る。政府のしたことは、感染者と感染が疑われる者を精神病院に隔離することだった。まず当の医者が収容される。夫の身を案じた医者の妻は自分も目が見えないと偽って同行する。その後続々と失明した人々が運ばれてくるが、医師や看護師は配置しない。感染者と感染が疑われる者だけが別々の棟に監禁放置されるのだ。隔離病棟は軍の監視下に置かれ、命令に反するものは射殺するという放送がある。酷い話だ。

失明した者ばかりを病棟に収容したら何が起きるか。サラマーゴ の皮肉が炸裂する。トイレの在り処が分からず、仕方なく廊下で用を足す者が続出する。これこそ糞リアリズム。どうせ誰も見ている者はいないのだ。ミシェル・フーコーは一望監視システム(パノプティコン)の発明が少人数で多くの人間を監視することを可能にし、ディシプリン(規律)の強制という権力を生んだというが、監視者のいない監獄に規律は存在しない。人から羞恥心が消え、本能や欲望が剥き出しになる。平常ならあり得ないことも起きる。

精神病院の中に暴力的なグループが生まれ、バリケードで部屋を占拠し、コンテナで届く食料を独占、欲しかったら金品を出せと脅す。医者は真摯に立ち向かおうとするが、相手は聞く耳を持たない。武装集団相手に口で平等や正義を説く医者の姿は非常時における知識人の無力をさらけ出していて哀れですらある。要求は次第にエスカレートし、遂には食料がほしければ女を差し出せというまでになる。闘えないなら逃げるのも手だが、逃げたくても外には銃を持つ兵士が待っている。パニックを起こして逃げ出した者は既に射殺されていた。

追いつめられた極限状態のなか、人は人間としてどう生きるのか。他人を犠牲にしてまで生きることに価値があるのか。何をしてでも生きることが大事なのか。話し合いで解決できるような問題ではない。絶望的な状況下で、それまで隠されていた、その人の真の姿が立ち現れてくる。男は頼りにならない。最後は女が立ち上がる。それまでも人々のためにできることはすべてやってきた医者の妻だ。没義道な集団に立ち向かう医者の妻は、ドラクロワ描く「民衆を導く自由の女神」を彷彿させる。

前半は閉鎖された空間のなかで、圧倒的な暴力に支配されながら、どう生きのびるかという、絶望的な問いのせいで、読者もまた登場人物と共に自分の生き方、勇気、正義感を問われる内容となっている。そのため、かなり読んでいてつらくなる。途中で本を投げ出したくなるが、そうはさせないだけの迫力がこの小説にはある。救いというもののない長丁場を持ちこたえると、圧倒的なバイオレンスが待っている。散々虐げられてきた者たちによる暴力は、かえって開放感すら感じる。

外に出ても誰も撃ってはこなかった。兵士はいなくなっていたのだ。医者の妻は夫の医者と同室の男女を引き連れ、我が家を目指す。町はディストピアと化していた。突然視力を奪われた人々には都市機能を維持することができなかった。電気、ガス、水道は止まり、交通手段は絶たれて、至る所で死骸が放置され、野犬の餌食となり、人々は群れをなし、食料品を求めて店を襲う、地獄のような光景が待っていた。もっとも、それを目にすることができたのは医者の妻ただ一人だったが。

家に帰り着き一息ついたあとの、雨のシーンが感動的だ。不衛生極まりない場所に閉じ込められ、体を洗うことができなかった女たちはバルコニ-に出て裸になり、降りしきる雨で体を洗う。はしゃぎながら体を洗い合う三人の女はまるで三美神。世界はまだ混迷の中にあるが、ひとまず一つ屋根の下に集えたことの歓びに溢れている。ただの水浴びがこれほどまでに美しく楽しく歓ばしいことを誰が知っていただろう。医者の妻は最後に夫に言う。

「わたしたちは目が見えなくなったんじゃない。わたしたちは目が見えないのよ。目が見えないのに見ていると? 目が見える、目の見えない人びと。でも、見ていない」

原題は<Ensaio sobre a Cegueira(失明に関するエッセイ)>。『白の闇』という邦題は矛盾した語を並べる、修辞法でいうオクシモロン。これは、医者の妻の「目が見える、目の見えない人びと」という言葉の言い換えだ。アレゴリカルで、いかにもサラマーゴらしい。医者の妻は、敢えて渦中に飛び込むことで新生した。翻って、私たちはどうか? 世界中がパンデミックに襲われている今、私たちの目は、果たして見えていると言えるのだろうか? 

『象の旅』ジョゼ・サラマーゴ 木下眞穂 訳

f:id:abraxasm:20211211145715j:plain

フランシスコ・ザビエルが日本を訪れた頃の話。彼を派遣したポルトガルジョアン三世は、舅であるスペイン国王を訪ねてバリャドリードに滞在中の従弟のオーストリア大公マクシミリアン二世の婚儀を祝う品は何がいいかと頭を悩ませていた。妻のカタリナ・デ・アウストリアが、象がいいと言い出したのが事の始まり。二年前にインドから来て以来、毎日、樽一杯の水を飲んで、大量の飼葉を食べ、寝ているばかりで何の役にも立たない。いっそのこと、他国にやってしまえば厄介払いができる、と王妃は思いついたのだ。

その象の旅についていかにも見てきたように語るのは、ポルトガル語世界初のノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴその人だ。象がリスボンからウィーンまで旅をしたのは実話である。資料がないかといろいろあたらせたものの、細部については分からないことが多いので、そこは文学的想像力を縦横無尽に駆使し、小説に仕立て上げたのが、作家の最後を飾る作品となった。ジョゼ・サラマーゴは、一章を構成する文章がほぼ改行なし、会話と地の文を区切る引用符もなし、という独特の文体で知られている。 

それだけ聞くと、何やら牛の涎のような文章が続くような気がするだろうが、心配は無用。機略縦横の語り手が八面六臂、登場人物になりかわり、身分の上下に応じた科白を使いわける。そればかりではない。何についても一家言ある語り手は、歴史ものであることは重々承知の上、現代人である読者にも話がよくわかるように、ヒンドゥー教の神々とキリスト教の神の相違から、狼の習性、当時の距離の単位まで、逸脱を恐れず説明の労を惜しまない。その語りの持つ無類の面白さは、あのA・K・ル=グウィンの保証つきだ。

象の名前はソロモン。一緒にインドからやってきた象遣いの名はスブッロ。珍しさもあって初めは騒がれたもののすぐに忘れ去られ、着ていたきらびやかな衣装は今ではぼろぼろ、象の体も垢まみれ。久しぶりに象を見た王は、この有様ではポルトガルの威信にかかわると思い、象を洗わせ、象遣いに衣装二着の新調を命じ、象遣いの助手二名、水と飼葉を運ぶ要員数名、水桶をのせた荷車を引く牛二頭、それに護衛役の騎兵隊をつけ、オーストリア大公の待つバリャドリードへと象を送り出す。

自動車のない時代、陸上移動の手段としては歩くしかない。象はともかく、重い荷をのせた車を引く牛が一緒では一日の行程はしれたものだ。おまけに象は餌を食べると眠くなる動物で、寝ているところを起こすと機嫌が悪くなる。象遣いは、象の性質をよく知っていて、牛の数を増やし、人の手を借りて押すなど工夫をしながら、一隊を率いる騎兵隊の隊長とも心を通じ合わせ、旅を無事進めてゆく。主人公は象だ、と語り手は言うが、象は口をきかない。そのぶん象遣いの出番が多くなる。

この象遣い、年は若いが物知りで、王侯貴族を相手にしても怖めず臆せず言い分を主張する交渉術にたけた男に設定されている。その上、広い世界を見てきたせいか物の見方がやけに哲学的。ジョゼ・サラマーゴは寒村の農家の息子として生まれ、様々な職を転々としながらジャーナリストになるが、政治的な理由で職を追われ、作家となった。筋金入りの共産主義者無神論者の作家が、自在な語り口で、象遣いはおろか、象の頭のなかにまで入り込み、長年にわたって考え抜いてきたことを忌憚なく吐き出す。たとえば次のように。

一頭の象の中には二頭の象がいると以前に話しました。一頭は教わったことを習得し、もう一頭は何もかもを無視しつづけます。なぜそれがわかった。自分も象にそっくりだと気づいたのです。自分のある部分は学んで覚え、別の部分では学んだことを無視する。そして、長く生きていくほど、無視することが増えるんです。そういう言葉遊びにはついていけんな。わたしが言葉で遊ぶのではなく、言葉がわたしと遊ぶんですよ。

ミゲル・ゴンサルヴェス・メンデス監督がジョゼ・サラマーゴを撮った『ジョゼとピラール』というドキュメンタリー映画がある。現在、期間限定で日本語字幕付きのものが、YouTubeで視聴できる。『象の旅』執筆の過程も題材の一つだ。晩年の老作家が歳の離れた妻のピラールと世界中を駆け巡る様子を見ることができる。ブックフェスの会場にはサインを求める数百人ものファンが列を作り、作家は老体に鞭打って最後までサインをし続け、本当は嫌いだとこぼしながら、写真撮影にも応じていた。

映画を見てわかった。象はサラマーゴなのだ。「象は、大勢に拍手され、見物され、あっという間に忘れられるんです。それが人生というものです。喝采と忘却です」とスブッロは言う。ノーベル賞作家などというものは、そう易々とお目にかかれるものではない。見物できるとなったら客は大騒ぎで駆けつける。どこへ行ってもそれは同じで、本人は辟易しているのだろう。一度だけ移動中の車内で、故郷で開かれる記念式典に出るのを愚図るところがある。人々のためよ、とピラールに説得され、結局出ることにするのだが。

象は象遣いに意のままにされているのではない。象あっての象遣いだ。しかし、象遣いがいなくては象は立往生する。象遣いが苦境に立たされた時、象は機転を利かせて彼を助けるように動く。象と象遣いは二人で一人なのだ。しかし、傍目から見れば、はるばるインドからポルトガルまでやって来て、二年の間放置され、今度は今度で冬のアルプスを越え、はるばるウィーンまでの長旅を強いられる象が哀れでならない。象はウィーンに到着してたった二年で死ぬ。皮を剥がれた後、切られた前脚は傘立てにされた、という説明が最後にある。

もし、象に自分を重ねているとしたら、なんと皮肉な幕切れであることか。政治的に、あるいは宗教的に象を利用しようとする者たちにとって、象は単なる飾り物でしかない。一方、共に旅するなかで、異なる世界に属する者の間に共感が生まれ、心の触れ合いが生じる。思惑はどうあれ、旅の日々が充実していればいいと達観しているのだろうか。「想像、哀れみ、アイロニーを盛り込んだ寓話によって我々がとらえにくい現実を描いた」というのがノーベル賞の授賞理由だが、『象の旅』は、まさにその評にぴったりの小説だ。

『十六の夢の物語』ミロラド・パヴィッチ 三谷恵子 訳

f:id:abraxasm:20211011130332j:plain

『十六の夢の物語』とあるとおり、夢や、予兆、記憶、相似といった互いに異なる時代や場所で起きた複数の事象の間にある奇縁を主題にした作品が選ばれている。パヴィチは文学史家でもあり、セルビア文学史の大冊も刊行している。その該博な知識を駆使して、欧州の火薬庫とも呼ばれるバルカン半島セルビアで起きた有名無名の歴史的事象を換骨奪胎、自在に使い回しては独特の奇譚を創り上げている。

その特徴は、リニアな読みを回避するところにある。長篇で用いた占いや事典形式の採用がその一つ。読みようによっていくらでも異なる世界が立ち現れる玄妙な小説作法だ。短編でそれを味わうのは難しいが「裏返した手袋」一篇は、題名同様、まるで手袋を裏返すようにほぼ同じことを書いたパラグラフを、折り返し地点で逆向きに書き連ねることで、読み始めと読み終わりで、逆の意味を持つ話にしてしまうという、離れ業をやってのけている。

「ヒョウとバッコス」は、締め殺される夢を見て、相手の指を噛みきる寸前のところで目を覚ました男の話。自分の部屋にかかっている古い絵の中の男と旅先で見たモザイク画のバッコス、レストランで出会った外科医、時代も場所も異なる、三人の顔が自分そっくりだったことで、あらためて、自分の指を見ると傷痕が残っており、自分を殺そうとしたのが自分だったことに気づくという、自己同一性を主題にした一篇。「先祖伝来の追放の宿命」という言葉から、自分は何者かという問いに民族の歴史が影を落としていることが分かる。

「いつの日か、禁制にもかかわらず、紙に書いてはいけない名前を書いてしまう者がこの世に生まれてくること、また、読んではならない決まりがあるにもかかわらずそれを読んでしまう者が現れることは間違いない」という罪により、処刑された修道士スパンの書いたイコン画を見つけた「私」は「アクセアノシラス」という表題を持つ文章を書いている。「私」は自分が犯した罪に気づく。スパンが死なねばならなかったのは、私がこれを書いたからだということに。同時にその名前を読んだ「あなた」つまり読者も共犯だということに。

一三一四年、フランスの王女アンジュ―家のヘレナはイバル川のほとりにあるグラダツ修道院で天に召される。生前、王女は修道院の壁のどこかに持参金や宝石その他の財宝を埋め込んだが、その場所は誰にも秘密にされていた。「風の番人」は、その宝物の帰趨をめぐる顛末を描いた物語。

ヘレナの次男ミルティン王の死後、ビザンツ帝国に貸し出されていた兵士たちが帰国し、権力の空白をいいことに国中を荒らしまわり、グラダツ修道院の略奪を狙う。ところが火が回ったことで宝物の略奪を案じた教会長の口から出まかせの「異教徒がいるぞ!」の一声に驚いた巡礼者たちが壁に押し寄せ、兵士たちと鉢合わせになった。兵士たちは巡礼者の存在に驚き、這う這うの体で逃げ出し、その隙に火は消し止められた。その晩教会長が読んでいた本の余白には、次のような懺悔話が書きつけられていた。

驚異的な聴力を持つプリバッツは、グラダツ周辺の住民たちに迫りくる危険について知らせる「風の番人」だった。彼は鳥たちがある場所にいるとき、まったく異なる鳴き方をすることに気づいた。決まった種類の木が群生してるところでは、決まった種類の鳥が集まるからだ。そこは古のビザンチン様式の庭園跡だった。それが宝の隠し場所を示す手がかりだったが、王妃の秘密を暴いたことを恐れたプリバッツは懺悔して死に、聴聞僧のイザイヤがそれを書きつけに記した。

一九六八年古教会スラヴ語―フランス語辞書を手にした二人のフランス人がグラダツを訪れ、ベオグラードの日刊紙のひと包みを修道院に集まる人々に売り捌いた。記事には「ロシアの戦車、プラハに侵攻」の文字が躍っていた。会衆が教会を飛び出した隙に、二人はまんまと宝物を掘り出しフランスに持ち帰る。「まったく同じやり方で、同じものを守ることも失うこともあるのです」というヘレナの言葉通りになったというわけだ。

「沼地」は、食べ物にしか興味のない絶世の美女が、世界中を食べ歩くうちに一人の男に出会って結婚し、子どもが生まれるが、その子はもの凄い速さで成長し、七歳の時には白髪頭になって死んでしまう。その悲しみから逃れる術を知らないアマリア・リズニッチは夫と離婚し一人になると、死んだ子そっくりの男を捜して養子にすることを思いつく。ようやく見つけたのは死んだ年の息子そっくりの白髪頭になった元夫だった。

彼女はその事実に気づかぬまま、息子に嫁を取らせ跡継ぎを作ることに夢中になる。元夫は自分が愛しているのは君だけだと言い残し、別れを告げる。彼女は「もの思いに一番似ているのは、痛みだわ」と言いながら、病気を抱え、また各地を旅してまわった。あるとき沼地がその病を癒すと聞いて、その場所「猫の沼地」を探すのだった。もう、お分かりだろう。それこそ、旅暮らしで顧みることのなかった自分の領地だったのだ。

男性版と女性版ではその内容に僅かな違いがある、事典形式で書かれた『ハザール事典』で知られるセルビアの作家、ミロラド・パヴィチ。他に、表と裏の両側から読み進める『風の裏側』、付録のタロット・カードを使って占い形式で読むことのできる『帝都最後の恋』と、これまでに三冊の長篇が邦訳されているが、短篇については今まで邦訳がなかった。これは七つの短篇集から訳者選りすぐりの十六の短篇を収めたアンソロジーである。短いだけに濃縮されたような味わいを詰め込んだ絶品の一品料理の品々。どこから手をつけようがお好み次第。セルビア由来の珍味佳肴をご賞味あれ。

『ヴィネガー・ガール』アン・タイラー 鈴木潤 訳

f:id:abraxasm:20211112002923j:plain

ケイト・バティスタは二十九歳。ボルティモアのジョンズ・ホプキンズ大学で自己免疫疾患の研究に勤しむ父と十六歳の妹の三人暮らし。妹が生まれてすぐ母が死んでからは家事全般を受け持ち、近くのプリスクールで四歳児を担当するアシスタントを務めている。率直な物言いが子どもには人気だが、場の空気を読むことが不得手で、保護者からは苦情が寄せられ、現在は「保護観察中」の身分。次に問題を起こせば、馘首を覚悟しなければならない。

別に教師志望ではなかった。植物学者を夢見て大学に通っていた二年生の時、教授の光合成の説明に文句をつけたことが舌禍を招き、退学処分となる。次年度に復学希望を出す方法もあったが、自分の研究以外のことに無関心な父は、娘が家事を受け持つことの便利さにかまけて、復学希望を出すことを怠った。見かねたシルマ伯母が、自身が理事をしているプリスクールに口をきいてくれたのでそのまま働き続けた。それだけのことだ。

家事は、父ルイスが考えたシステムに則って行われる。毎日の食事のメインは、ミートマッシュと呼ばれる、乾燥豆と青野菜、ジャガイモと肉をペースト状にして裏ごしした、栄養学的には完ぺきなものだ。曜日によって、トルティーヤとサルサでミートマッシュ・ブリト―にしたり、カレー粉を混ぜてカレーにしたりと変化をつけている。洗い物は食洗器。洗濯はたたんだ後、分別するのが面倒だというので、曜日によって誰の洗濯物を洗うか決めている。時間のある時は庭の草木の世話をするのがケイトの唯一の息抜きだ。

物心ついたころから、鬱病を病む母は施設暮らし。ケイトは母親代わりとして幼い妹の世話をし、家の切り盛りをしてきた。学者バカの父は、家のことは長女に頼りきりで、ひたすら研究に打ち込んでいる。家族第一で自分のことは、行き当たりばったりで切り抜けてきたケイトは、失職を目前にして、自分が本当は何がしたいのか、何になりたいのか真剣に考えることもなく、今まで生きてきたことに思い至り、あらためて当惑を覚えるのだった。

よくある話だ。妹のバニーは母親に似て金髪で可愛く男の子にモテる。姉のケイトは長身で色黒、おしゃれには無縁。美容院でのおしゃべりが苦痛で行くのををやめてしまって以来、ウェーブのかかった黒髪を腰まで伸ばし放題にしている。男嫌いではないが、職場に男性アシスタントはアダム一人だけで、彼のことは好きだが、物腰が優しい英文学専攻のアダムのそばにいると、自分のがさつさが気になるというのでは、関係は進展しそうもない。

そんなケイトに結婚話が持ち上がる。相手は父の助手のピョートル。優れた免疫学者だが、三年間の期限付きビザがもうすぐ切れる。父の研究は学内での評価が芳しくなく、助手のビザの更新は覚束ない。しかし、ピョートルなしでは研究は進まない。そこで、形だけでも娘と結婚させ永住権を取得させようと考えたのだ。ケイトに会ったピョートルは、そのじゃじゃ馬ぶりが気に入り、話に乗り気のようだが、婚期に遅れた娘を賞味期限切れの商品みたいに都合よく処分する、父の心ない仕打ちにケイトはいたく傷つく。

そんなケイトの気持ちを知ったピョートルと父はケイトに謝罪する。それがきっかけとなり、それまで話をしたことのなかった父と娘は心を開いて話し合う。母の死の真相や、男手ひとつで娘二人を育ててきた苦労、成果を出すまであと一歩のところでピョートルのビザが切れ、研究が立ちいかなくなったことなど、ケイトの知らないところで、父は苦しんでいた。父の苦境を思いやり、ケイトは関心のなかった結婚に踏み切る決心を固める。

しかし、それではあまり話が都合よすぎるという批判も出てこよう。ちがうのだ。もちろん永住権は喉から手が出るほど欲しい。しかし、ルイスはその学識、能力だけでなく、人間としてピョートルのことが気に入っていて、手放したくないのだ。ふだん手に取ることもない携帯電話を手に、移民局の調査の裏付けとなる証拠写真を撮るために悪戦苦闘したり、娘のご機嫌を取ったり、と何とも健気だ。この父親なら、娘のことも見守ってきたにちがいない、と思わせる。それはケイトにも伝わっている。だからこそ結婚に同意するのだ。

語りなおしシェイクスピア第三弾。元ネタはシェイクスピア早書きの喜劇『じゃじゃ馬ならし』。この話、女性蔑視が色濃く評判が悪い。妹の結婚の邪魔になる姉を、金を積んで結婚させようという父親の魂胆も、その後の賭けをめぐる話もいかにも筋が悪い。アン・タイラーは、金とは無縁の学者を父親に持ってくることでそれをクリアし、ケイトのキャラクターも、原作のエキセントリックな女性から、直言居士ぶりが玉に瑕な、気立てのいい、家族思いの娘にすることで読者の共感を呼ぶことに成功している。

ところが、いざ結婚式の日が来ると、研究室のマウスが盗まれ、データ消滅の危機に襲われ、父と義理の息子は式どころではなくなる。結婚式に至るまで、散々な目に遭わされるケイトという原作由来の筋書きはしっかり受け継ぎ「語りなおし」の名に恥じない仕上がりになっている。シルマ伯母の采配による結婚披露宴は祝祭的な華やぎに満ち、いかにもエリザベス朝演劇世界を彷彿とさせる出来ばえ。もともとは、枠物語の形をとるこの芝居。本作ではエピローグにそれが生かされ、何とも粋な結末になっている。

例によって巻末にオリジナル・ストーリーが付されているが、シェイクスピア原作を謳わなくても、ボルティモアの市井に暮らす一家の結婚をめぐる物語として、巧まざるユーモアに満ちた、しみじみと味わい深い世界を堪能することができる。一人称限定視点で書かれ、読者は知らず知らず、少しくせはあるものの、その言葉にも、行動にも納得がいく、実に生き生きとした女性の心の揺蕩いに一喜一憂しながら、気持のいいエンディングに導かれる。読んでいて心が満たされる極上の小説である。

 

『泥棒はライ麦畑で追いかける』ローレンス・ブロック 田口俊樹 訳

一冊の本が、その人の人生を変えるなんてことがあるだろうか。そんなことはないなんて言えるのは、きっと大人だけだ。十七歳のころだったら、ひょっとしてそういうこともあるのかもしれない。いや、きっとあるにちがいない。だって、本人がそう語っているのだから。本人というのは、副業としてニューヨークで古書店を営む、バーナード・ローデンバー、通称バーニイ。本業は侵入窃盗(burglar)、かいつまんで云えば、泥棒だ。

泥棒探偵バーニイ・シリーズ九作目は、ニューヨークのホテルが舞台。ある有名作家がエージェントに送った手紙を取り返す、というのが盗みに入った目的だ。その作家は自分の実体を知られることを嫌い、隠遁生活を送り続けてきた。ところが、自分宛にきた手紙の所有権を盾に、かつてのエージェントが、私信をサザビーズのオークションにかけることを発表。著作権は作家にあるが、競売のカタログには、その文章が載ることになり、他人の目に触れることは必定だ。

バーニイの店を訪れた女性はアリスといい、自分とその作家、ガリヴァー・フェアボーンとの関係をバーニイに打ち明ける。なんと、十四歳のころから三年間、アリスは作家と同棲していたという。作家とは別れた後も文通していたが、最近になって苦境を知らせてきた。それが先に述べた件だ。ライ・ウィスキーと、バーのはしごで、意気投合した二人はいつものようにメル・トーメを聴きながらベッド・イン。情にほだされた泥棒は、エージェントの暮らすパディントン・ホテルに宿を取り、夜を待って六階にある部屋に忍び込む。

仕事先で殺人事件に遭遇するのがお約束のこのシリーズ。エージェントのアンシア・ランドーはナイフで刺し殺されていた。いくら探しても手紙の束は見当たらない。警察らしい足音が近づくのを聞いたバーニイは、からくもバスルームの窓から脱出し、三階の空き部屋に逃げ込む。箪笥の抽斗に隠されたルビーのネックレスに後ろ髪をひかれながらも、ロビーに降りたバーニイは、先刻、非常階段から廊下に入るところを見られた女に泥棒呼ばわりされ、警察に逮捕される。

知り合いの刑事レイの口利き、それに顔見知りのマーティンが保釈金を払ってくれたこともあって、無事留置場を出られたバーニイは、店に戻る。マーティンが気前よく保釈金を肩代わりした裏には複雑な事情があった。借りができたバーニィは、手紙の他にルビーのネックレスとイヤリングも取り返すことを余儀なくされる。そこへもってきて、フェアボーンの研究家やら、コレクター、サザビーズの関係者が、バーニイが手紙を隠し持っていると見て、多額での買取りを持ち掛ける。

本に関する蘊蓄が主眼で、謎解きは添え物のようなコージー・ミステリ風スタイルが売りのシリーズながら、よく読めば複数の伏線が張られ、きっちり回収されていることが分かる。『泥棒はライ麦畑で追いかける』は、処女作があまりに有名になり過ぎて、好きな小説を気ままに書くことすらできなくなった作家のエピソードを踏まえながら、本格的な謎解きミステリに挑もうとしているところが見どころだ。とはいえ、最後には本を愛するバーニイらしく、爽やかな解決に導くところが何よりの読みどころ。

原題は<The Burglar in the Rye>。これが<The Catcher in the Rye>を意識していないというなら、嘘だろう。世間に自分の姿を見せたくない作家のモデルはあの『ライ麦畑でつかまえて』のJ・D・サリンジャーその人だ。手紙をめぐるエージェントとの裁判沙汰も、未成年の少女との関係も、すべて実話をもとにしている。というか、その実話の方がよほど世間の耳目を引くだろう。その辺のことに興味があるなら、デイヴィッド・シールズ、シェーン・サレルノの『サリンジャー』が詳しい。

すでに語りつくされた感のある、サリンジャーだが、ローレンス・ブロックが、これを書こうとしたのは、そんな古い話をまたぞろ持ち出したかったわけではないだろう。本や作家をネタにしてミステリを書くなら、自分の好きな作家に触れないではいられない。いや、本当にローレンス・ブロックサリンジャーが好きだったかどうかは知らない。ただ、バーニイはどうやら好きだったようだ。

作家というのは、文章を書いてそれを読んでもらうのが仕事。そういう意味では、断簡零墨、どんなメモ書き一つでも値がつくのは仕方がないことかもしれない。しかし、作家にだってプライバシーはある。仕事と関係はあるにせよ、気心の知れたエージェントに書き綴った手紙まで人目にさらさなければならない理由はない。ところが、ここに落とし穴があった。競売のカタログは商品の真贋並びに価値を判断するために内容を示す必要があるからだ。今回の作品のキモはここにある。

さて、殺人事件の謎を解き明かし、みごと奪い返した手紙をバーニイはどう扱ったか。なんと、謎解きに集まった関係者一同の目の前で、そのうちの一枚、紫色の便箋を暖炉にくべてしまう。驚き慌てるコレクターや研究者の狼狽えるのをしり目に、バーニイは、それ以外の手紙は既に暖炉の中にあったと告げる。それで一件落着、と思うだろうが、そうはいかない。燃やしたのはキャロリンが打ったタイプライター練習用の一文だ。

嘘つきは泥棒の始まりというが、バーニイは嘘はつかない。ガリヴァー・フェアボーンの書いた手紙はちゃんと本物もそのコピーも、まだバーニイが手にしていた。彼は、それを欲しがる相手に相当の金額で売り、その書き手(なんと、作家その人が変装して本編に登場しているという極上のサーヴィスが用意されている)にも半分を渡している。それでは元も子もないと思うだろうが、トリックをばらすわけにはいかない。だが、なるほどとうならせるものではある。作家と呼ばれる人種の厄介な自意識というやつが、同じく作家であるローレンス・ブロックの手により、詳らかにされている。その手並をとくとご覧あれ。