青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『精霊たちの迷宮』カルロス・ルイス・サフォン 木村裕美 訳

《上・下巻あわせての評です》

『風の影』『天使のゲーム』『天国の囚人』に続く「忘れられた本の墓場」シリーズ第四部、完結編。バルセロナの地下に隠された本の迷宮を知る、限られた人々を語り手に据えたこのシリーズは、内戦からフランコ独裁政権というスペインの暗黒時代を背景に、史実を大胆に脚色し、作家偏愛のマネキンや人形の並ぶ倉庫や、廃墟、墓場や地下牢を舞台に仮面の怪人が登場する異色の小説世界。作品によって訳者のいう「青春ミステリー」、「幻想ゴシック小説」、「『モンテクリスト伯』風冒険譚」と、作風が変化してきた。

シリーズの狂言回しを務めるのが、フェルミン・ロメロ・デ・トーレスと名乗る大きな鼻をした痩せた男で、スグスというソフトキャラメルが大好物。店の前の路上に倒れていたところを救われたのが縁で、今はダニエルが店主を務めるセンベーレ書店で働いている。国家警察に追われ、投獄された過去を持つが、暗さとは無縁。食欲と性欲に溢れ、饒舌で猥雑な話を愛する陽気な男だ。

そのフェルミンが冒頭に登場し、第四部の主人公アリシアと「忘れられた本の墓場」との出会いを語る。『不思議の国のアリス』から抜け出してきたような少女から、妖艶な魅力を放つファム・ファタルへ、二十年という時間は一人の女を苛酷なまでに変えてみせる。もっとも、二十年が経ち、戦後世界に復帰したとはいえ、スペインはフランコ独裁政権時の膿を出しきっていなかった。本作は、内戦から独裁に至る時代の混乱期を利用してのし上がった権力者たちの過去の闇に目を向けた、ノワール風ミステリ。

戦災孤児アリシアは泥棒の手先をしていたところをリクルートされ、マドリードで保安組織の捜査員となっていた。二十九歳になり、仕事に嫌気が差し、退職を願い出たところ、これが最後と命じられたのが、国家教育大臣マウリシア・バルスの失踪事件だった。しばらく前から人前に姿を見せなくなっていたバルスが、誰にも行先を告げずに家を出たきり帰らない。現職大臣の失踪である。公にできないと見た警察庁長官は保安組織に捜査を命じる。

アリシアと組むのは、元国家警察警部のバルガス。現政権に対する忠誠度が疑問視され、飼い殺し状態にあったが、優秀さを買われて久しぶりに呼び出しがかかる。五十がらみの銀髪の大男である。保安組織というのは、特高や公安と同じで、警察と違い法に縛られない闇の組織だ。はじめは証拠物件を勝手に持ち出し、不法侵入を厭わないアリシアのやり方に反発していたバルガスだが、空襲時に負った傷のせいで鎮痛薬がきれると立つこともできないアリシアの隠し持つ弱さを見て、次第に心を寄せていく。

失踪前夜、バルスはボディーガードと数字が並んだ何かの「リスト」について話をしていた。家を調べると書斎に一冊の本が隠されていた。黒革で装丁された本の名は『精霊たちの迷宮』第七巻「アリアドナと緋の王子」。著者の名はビクトル・マタイス。後の調べでモンジュイックの囚人であったことがわかる。アリシアは本、バルガスはリストの謎を追う。そんなとき、失踪に使われたバルスの車がバルセロナで発見され、舞台はマドリードからバルセロナへと移る。

バルスは地下牢に監禁されていた。かつてモンジュイック監獄の所長を務めていた時期に買った恨みによる復讐らしい。アリシアとバルガスは着々と捜査を進め、真実に近づいてゆくが、指を切り落とされたバルスは壊疽にかかる。そのまま死ぬか、患部を自分で切り落とすか、檻の中に指物師の使う糸鋸が放り込まれ、囚われの身の男は究極の選択を迫られる。二人は無事大臣を取り返すことができるのか、息詰まる展開を見せるサスペンス。

本作から読みだした読者は、第一部から読む方がいいのかと悩むかも知れない。だが、心配は無用。これだけで充分面白い。個人的には四部作中一番面白かった。完結編でもあり、いろいろ盛りだくさんだが、アリシアとバルガスが謎を解くバルス失踪事件の真相は今までと比べようもないほどスペインの闇に迫っている。これがお気に召したら、それまでの作品を読めばいい。そうすることで、四部作が持つ多彩な魅力がいっそう増すことだろう。

真面目一方のダニエル、何を考えているのかつかめないフェルミン、と進行役の二人が、どうにも頼りないのに比べ、アリシアの動きはさすがにプロ。隠された真実を次々と暴いてゆく。それに応じて、暴かれては困る側の動きも激しくなる。二人を追う謎の人物が姿を現し、攻撃をしかける。アリシアに思いを寄せる純情な青年フェルナンディートの活躍もあって、アリシアは難を逃れるが、古傷を傷めつけられ、動きがとれない。フェルミンたちの助けで「失われた本の墓場」に再び身を潜めたアリシアは恢復の時を待つ。

『精霊たちの迷宮』は、独裁政権下のスペインで起きたおぞましい犯罪を暴くミステリである。その一方で、本シリーズを第一部から読んできた読者は、ダニエルとイザベッラ母子のあいだに隠されていた秘密をはじめて知ることになる。入れ子状に構成された物語世界のなか、アリシアバルス失踪事件を解決することで偶然二人の秘密を知ってしまう。「ミステリ」と忘れられた作家たちが書いた本をめぐる「メタフィクション」が融合した、他に類を見ない稀書、それが『精霊たちの迷宮』なのだ。



 

『バージェス家の出来事』エリザベス・ストラウト 小川高義 訳

三分の二は逃げそこなった、と思っている。彼とスーザンは――スーザンには息子のザックも合算して――一家の父親が死んだ日から運命にとらわれた。どうにかしようとは思った。母親も子供のために頑張ってくれた。だが、うまく逃げおおせたのはジムだけだ。

あの日、四歳のボブと双子の妹スーザン、それに長男のジムは車に乗っていた。玄関前の坂道の上に父が車を停め、郵便受けの不具合を直そうと坂道を下りていったあと、車が動き出して父は圧死した。ボブには何の覚えもないが、前の座席にいたので、学校で「お父さんを殺した」と言われ、精神科に通ったこともからかわれた。いつもぼんやりとした不安が心に潜み、弁護士になった今でも法廷でのストレスに耐えられず、上訴支援(リーガル・エイド)の仕事をしている。

人懐っこいボブは誰からも好かれているが、スーザンとはうまくいかない。周囲の目から守ってやろうとして、母親はボブをかわいがった。スポーツが得意で、成績優秀なジムは愛されて当然の子だった。二人に比べると、スーザンは割を食った気がしている。心の底で、母親が自分に冷たいのは、本当は自分が父を殺したからではないかと疑っている。母に愛されなかったから、自分も息子のザックを愛せなかったのでは、と感じている。

ひとり、ジムは優秀な成績で州立大を卒業後、奨学金を得てハーバード・ロー・スクールに進学し、メイン州の司法長官事務所に勤めたあと州を出た。ソウル歌手が愛人を殺した事件を弁護し、無罪を勝ち取ったことがテレビで評判を呼び、今はマンハッタンにある大手法律事務所に勤務している。コネチカット出身の裕福な家の娘と結婚し、二人の子を育て上げ、ブルックリンにある閑静な住宅地パークスロープで夫婦二人暮らしだ。

三人兄妹は、スーザンがメイン州に残り、ジムとボブはニューヨークに出た。何もなければ、それぞれが過去を引きずったまま、残りの人生を送っていたかもしれない。ところが、それが起こった。ひとたびその渦中に飲み込まれると、それぞれの思惑とは別に三人は顔を合わせ、ともに問題解決に向かって力を合わせることになる。それが過去の確執を洗い流し、三者三様に傷を癒し、新しい人生を始めるきっかけをつかむ。

事の起こりは、ザックがモスクに冷凍の豚の頭を投げ込んだことだった。普通なら軽犯罪に問われるところが、シャーリー・フォールズにはケニアの難民キャンプから移住したソマリ人が大勢住んでいて、ヘイトクライムとして扱われる可能性がある。慌てたスーザンはこちらに来て相談に乗ってほしいとジムに電話するが、休暇旅行を明日に控えたジムは、妻の手前もあって即答できない。そこでたまたまジムの家にいたボブが代わりに行くことになる。

心優しいボブは、兄の気持ちを慮って引き受けたものの、自分にジムの代わりが務まるとは思えず、助けてくれよと言いながら車で郷里に向かう。案の定、久しぶりに会うスーザンはけんもほろろで、保釈金を払って家に帰ってきたザックとろくに話もさせてもらえない。それどころかコンビニで酒と煙草を買って帰る際、ソマリ人を轢きかけてパニックを起こし、ジムから借りた車を現地に置いたまま、飛行機でニューヨークに帰って来てしまう。

何年も会ってなかった兄妹が、一家を襲う難題に直面して久しぶりに一つになる。ところが、やってきた弟は役立たず。満を持して登場したジムが集会で演説し、意気揚々と凱旋してみれば、大うけの演説がかえって地元の権力者の反感を買い、甥っ子は連邦から公民権侵害で裁判を受ける羽目に。絶望したザックは家を出て行方知れず。さすがのジムも色を失う。めずらしく弱気になったジムは、ついボブに漏らしてしまう。それまで何度も口にしようとして言い出せなかった、あの日のことだ。

ジムは誰にも言えない秘密を抱えていた。それはボブにとって、足もとの大地が揺れるような驚愕の事実だった。打ち明けられたボブは衝撃を受けた。初めは半信半疑だったが、日が経つにつれ、重く受け止めるようになり、兄との間に距離を置いた。そうこうするうちにあれほどボブの感じていた不安は雲散霧消していた。その間、ジムをめぐる事態は急転していた。ジムは部下と不倫して事務所を追われ、着の身着のまま家を出るところまで追いつめられていた。

いわゆる「中年の危機」である。何もかも思うようにいかなかった。ジムが貧しい暮らしの中、頑張って勉学に勤しんだのは、政治家になって経済的弱者のために働きたかったからだ。ところが、金持ちの娘との結婚生活を維持するため、本来やりたかった政治家ではなく、ホワイトカラーの犯罪者を守る弁護士になっていた。ところが、成長した二人の子が家を出て行くと、あれほど守りたかった家庭は虚ろなものになっていた。

ようやく居所を探し当てたボブに連れられ、ジムはスーザンの家に迎えられた。しばらく会っていなかった間に、何をやっても鈍くてお荷物だったボブが自信を取り戻し、家族を牽引していた。ジムはジムで長年胸に巣くっていた自責の念から解放され、手放しで家族を頼ることができた。実父を頼ってスウェーデンを訪れていたザックが帰ってくることになり、スーザンも人が変わったように人当たりがよくなっている。一家の恢復の予兆が仄見える。

人は弱いもので、時に愚かしい真似もするが、それでも人生は生きるに値する。どんな苦境に陥っても、人は一人きりではない。今更ながら、家族、兄弟という血のつながりの強さを思い知らされる、エリザベス・ストラウトには珍しい、べたな人間賛歌。こんな時代、こんな世界だからこそ、弱さや愚かしさを嘲るのでなく、そっと寄り添いたいと強く思った。

アメリカという、移民大国が抱える人種問題の他に、離婚や不倫、階級差や貧富の差が生み出す問題がある。一度読んだらそれでお終いとはいかない。何度でも読み返したくなる。短篇を得意としてきたエリザベス・ストラウトの長篇小説である。大事な叙述がさりげなく配されている。初読時には見落としがちな、ちょっとした描写が、再読時には人物の心理を読み解く鍵であったことに気づく。そういうことだったのか、と横手を打ちたくなる。長篇小説ならではの愉しみをたっぷり味わえる小説になっている。

 

 

『地図と拳』小川 哲

一八九九年の夏、南下を続ける帝政ロシア軍の狙いと開戦の可能性を調査せよ、という参謀本部の命を受け、高木少尉は松花江を船でハルビンに向かっていた。茶商人に化けて船に乗ったはいいが、貨物船の船室は荷物で塞がれ、乗客で溢れた甲板では何もかもが腐った。腐った物は船から松花江に捨てるのが元時代からの習慣だった。一人の男が死体を投げ捨て、「こいつは燃えない土だ」と呟いた。高木は「どういうことだ?」と尋ねた。

男は「土には三種類ある。一番偉いのが『作物が育つ土』で、二番目が『燃える土』。どうにも使い道のないのが『燃えない土』だ。『燃える土』は作物を腐らせるが、凍えたときに暖をとれる。だが、『燃えない土』はどんな用途にも使えない。死体も同じことだ」と言った。通訳の細川が男の出身地を問うと「奉天の東にある李家鎮(リージャジェン)」と答えた。土が燃えるのは石炭が混じっているからだ。これは使える、と細川は思った。

李家鎮は何もない寒村だったが、その地に居を構える李大綱という男が、冬は暖かく夏は涼しく、アカシアの並木がある美しい土地だ、という噂を流した。相次ぐ戦乱で家を失くし、職を奪われた人々が桃源郷の夢を追い、はるばる来てみると、夏は暑く冬は寒く、アカシアなどどこにもない。怒る人々に、李大綱は、誰がそんな嘘を流したと憤って見せ、住む気があるなら、空いている家に住めばいい、土地ならある、と応じた。帰る家のない人々は李大綱から金を借りて家を修繕し、それぞれ仕事をはじめ、李家鎮は体裁を整えていった。

満州東北部にある架空の村を舞台にした歴史小説である。史実を押さえながらも、正史には登場することのない人物を何人も創り出し、日本が中国、ロシア、そして米英との戦争に非可逆的に引きずり込まれていく時代を描いている。人によって読み方は色々だろうが、こういう読みはどうだろうか。当時の日本は、戦争に駆り立てられていたように見えるが、果たしてそうか? 日本の戦争遂行能力を正確に把握していた者は一人もいなかったのか。もしいたとしたら、その結果はどうなっていただろうか、というものだ。

大陸のはずれで清朝の支配の及び難い満州という土地は、ロシアと戦うことになった場合、日本にとって是非とも押さえておきたい土地であった。また、日露戦争で多くの戦死者を出した手前、放棄もできない。リットン調査団が何と言おうが、むざむざ利権を諦めることは不可能だ。そこで、満州族が自ら支配する独立国という建前を作り、五族協和、王道楽土の美辞麗句で飾り立てた。満州国建国は列強を意識した苦肉の策だった。

五族協和」がどこまで本気だったかは知る由もない。ただ、歴史年表を追うだけで、その当時の日本の軍国主義化にはすさまじいものがあることがわかる。満州国建国に携わった人々の胸にどれほど美しい夢があったのかは知らないが、軍部の力によってそれはどんどんねじまげられていく。その有様を一つのモデルとして描いて見せるのが、李家鎮という街の興亡である。

魯迅の言葉に「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ(『故郷』)」というものがある。「地上に道がない」というのは、冒頭のエピソードでも分かるように、当時の中国では水運が中心だったからだ。

もともとはただの平原であったものを、一人の説話人がかたった話が人々の頭に理想郷を作り上げた。絵空事を信じてやってきた者は無理にでも芝居を続けるよりほかはない。そうして幾人もの人の思いを寄せ集めて出来上がったのが李家鎮。後の仙桃城(シェンタオチェン)である。ロシアにとっては不凍港、旅順に至る要衝、日本にとっては戦争を続けるための石炭という資源の宝庫。仙桃城は、人々の欲望によって築き上げられた架空の都邑だ。

細川は彼の目的にかなう人材を各方面からスカウトしてくる。彼の言い分が通るのは、 参謀本部が後ろで動いているからだろう。満鉄からの依頼で、存在が不確かな「青龍島」の存否を明らかにする仕事についていた須野も細川にスカウトされた一人。須野は細川の紹介で満州で戦死した高木大尉の妻と結婚し、明男という子を授かる。高木の遺児である正男と共に、この親子は日本の勝利の可能性を探ろうと悪戦苦闘する細川の手駒となって働く。

表題の「地図」とは国家を、「拳」は戦争を意味する。この物語は現実には存在しない「青龍島」が、なぜ地図に書き込まれることになったかという謎を追うミステリ風の副主題を持っている。「画家の妻の島」の挿話をはじめとする、地図に関する蘊蓄も愉しい。細川の徹底したリアリズムに対し、須野のロマンティシズムがともすれば暗くなりがちな話に救いを与えている。幼少時より数字にばかり固執する明男が、母の心配をよそに順調に成長し、建築家になるという教養小説的側面も併せ持つ。

登場人物の大半が男性であり、恋愛もなければ房事もない、近頃めずらしいさばさばした小説だ。戦争に材をとりながらも、威張り散らす軍人は脇に追いやられ、主流は知的かつ怜悧な人物で占められているのが読んでいて気持ちがいい。しかし、議論を重ね、言葉を尽くして、日本に戦争遂行能力がないことを解き明かしても、戦争は阻止できない。「問答無用」は日本の病理なのか、と暗澹とした思いに襲われる。それどころか、よくよく見れば、この国は以前より愚昧さを増しているようにさえ見える。せめて、虚構の中だけでも論理的整合性を味わいたい、そんな人にお勧めする。

『この道の先に、いつもの赤毛』アン・タイラー 小川高義 訳

イカ・モーティマーのような男は、何を考えて生きているのかわからない。一人暮らしで、付き合いが少なく、その日常は石に刻んだように決まりきっている。

これが書き出し。そのあと、彼のルーティンの紹介が続く。毎朝七時十五分からのランニング、十時か十時半になると、車の屋根に<テック・ハーミット>(ハーミットとは隠者のこと)と書かれたマグネット式の表示板をとりつけ、パソコンの面倒を見る仕事に出かける。午後は通路の掃除やゴミ出しなど、管理人を兼ねているアパートの雑用だ。住んでいるのは半地下で細目を開けたような三つの窓から外光が入る。

仕事上で出会う客とのやり取りや、つきあっている女友だちとの関係、女系家族の末弟としての家族上の儀礼的な付き合いをのぞけば、主人公に関わりをもつ人間はいなさそうだ。大学でコンピュータ工学を学んだ後、友人とIT関係の会社を立ち上げる。初めこそうまくいってたものの諸事情により挫折し、今に至る。かといって、くさっているわけでもなく、まあまあ毎日をなんとなくやり過ごしている四十過ぎの男。

派手なところはまったくない。可もなく不可もなし、という中年男の日々が、淡々と描かれる。こういう生き方を歯がゆいと思う人にはまったく向いていない小説である。しかし、成績を上げろ、とせっつく上司もいなければ、仕事もできないくせにいらぬことばかりやってはこちらに尻拭いをさせる部下もいない。よくあるパソコンの問題を解決する仕事もほぼ毎日あるし、管理人としての手当ては雀の涙だが、アパートの店賃は無料だ。共感する読者もいることだろう。

料理もすれば、月曜日はモップ掛け、木曜日はキッチン周りの掃除と曜日を決めて家事全般に手を抜かない。これでは結婚を急ぐ気になれなくても無理はない。過去につきあった女性も何人かいたが、関係が深まるとアラが目につくようになり、それが原因で別れてきた。今つきあっているのは小学校教師のキャスで、彼より少し年下の三十代後半の女性。一緒に夕飯を食べてどちらかの家に泊まる関係だ。彼としてはこれ以上進めようとは思っていない。

ある日、一人の若者が家を訪れる。名前はブリンクといい、マイカの大学時代の恋人だったローナの息子だという。夏休みでもないのに何をしに来たのかという疑問はあるが、一晩泊めてやることにした。ブリンクはマイカが自分の本当の父親ではないか、と尋ねる。義理の父親よりもマイカの方が、ウマが合いそうだとも。しかし、ローナとはそういう関係ではなかった。そうなる前に他の男とキスをしてるところを見て、別れたのだ。

変わり映えのしない毎日に突然亀裂が走る。それも自分の息子を名乗る若者の登場だ。マイカはそれまでの平穏な日々に隙間風のようなものが入り込んできたのを感じる。そんなとき、キャスとの関係にひびが入る。無断で飼っていた猫が原因で部屋を追い出されそうになり、マイカに相談したところ、彼は本気で相手にしなかった。しかも、当てにしていたマイカの家の空き部屋に、先手を打つようにブリンクを泊めたことが、きっかけだった。

前半ののほほんとしたマイカがどことなく肯定的に感じられたとしたら、後半はそれが逆転する。マイカ・モーティマーは、他者との間に距離を置くことで自分を守ってきた。最小限の付き合いだけを許し、それも間に金を介在させることで、互いの関係性にあえて距離を置く。ルーティンを守ると言えば聞こえはいいが、それなくしては生活というものが成り立たないのでやむなくそうしているだけだ。独り居の生活で、何らかの約束事を作らなかったら、自堕落なものになってしまう。それを恐れるからのルーティンだ。

一見自由に思える一人暮らしだが、気力体力十分な間は何とかしのげても、いつかはうまくやっていけなくなる時が来る。同じアパートの住人にもその実例がある。ブリンクの出現で、それまで目にしてはいたが、気にしていなかった自分の将来の姿が見えてくる。散らかりっ放しの姉の家で食事した際、マイカのルーティンはお笑い種にされ、別れ話が出たと聞いた家族はキャスと撚りを戻すよう説得する。実の弟よりキャスの方に価値を認めている。

イカ甲殻類だ。自分というものを硬い殻の中に入れ、他人にはそれに触れさせない。たしかに、そうしていれば自分は傷つかないだろうし、他人との間に距離を保てば相手を傷つけることもない。願ったりかなったりだ。ところが、息子の身を案じてマイカの家を訪ねたローナは、マイカの独りよがりで勝手な決めつけをなじる。キスした相手とは何でもなかったのに、彼は一度こうだと思い込むと、相手の言い分に耳を貸さなかった、と。

必要以上、人との関わりをもたないで長くやってくれば、自己理解は独善的なものとなり、自分を作るうえでの可塑性は失われる。マイカは愛したり愛されたりする人が傍にいない、キャスのいう「つらい心を抱えた人」になりつつあった。ワイルドの「わがままな大男」を思い出させる「小さな男の子」の登場をきっかけに変化が現れる。末尾近くの「おれが間違えたのは、ただ一つ、完璧を期そうとしたことだ」というマイカの心の中の叫びが痛い。

完璧を期す、などというのは人間にできることではない。人間は間違えるものだ。どうしようもなく、何度も間違えては、以前の間違いを認め、修正を重ねては別の方向に舵を取り、少しずつ正しい方角を目指すしかないのだ。原題は<Redhead by the side of the Road>。ここでいう<Redhead>は、実は道端の消火栓のことである。眼が悪くなってきたマイカにはいつもそれが赤毛の人のように見えることをいう。マイカの老化と思い込みの激しさを揶揄するタイトルになっている。表紙カバーのイラストも味があって好い。

 

『無月の譜』松浦寿輝

吹けば飛ぶような、将棋の駒に命を懸けた二人の若者の短すぎた青春を悼む鎮魂曲。一人は棋士を、もう一人は将棋の駒を作る駒師を目指していた。行く道も、時代も異なる二人をつなぐのが将棋の駒だ。鎮魂曲に喩えたが、哀切極まりない曲調ではない。主人公の人柄の良さもあり、人が人を呼び、人と人とのつながりが輪となって大きなうねりを描いてゆく。読後、しみじみよかったなあ、と思わせてくれる、近頃珍しいとても後味のいい小説である。

棋士がタイトル戦に用いるような駒ともなると、なかなか吹けば飛ぶようなものではない。駒の木地となる黄楊は、伊豆の御蔵島産の「島黄楊」と鹿児島産の「薩摩黄楊」が人気を二分する。木の採り方によって虎斑が入ったり、柾目になったりするが、根に近い部分の木地に出る柄は「虎杢」と呼ばれ、とりわけ珍重される。これに印刀で字を彫り、漆を塗る。その彫りと漆の塗り方にも「彫り駒」「彫り埋め駒」「盛り上げ駒」と三種あり「盛り上げ駒」をもって最上とする。

こう書くと、いかにも将棋の駒に詳しいみたいだが、全部この本で知ったことだ。この小説の主題は将棋で、その由来についてもちゃんと書かれている。中でも「駒」に彫られた「書体」が眼目だ。四大書体と呼ばれる「錦旗」「菱湖」「水無瀬」「源兵衛清安」をはじめ様々な書体がある。表題にある「無月(むげつ)」もまた、ある書体の銘である。ところが、それがどんなものかを知ることはできない。見たことのある者の目には、何か霊力でもあるかのように光を放っていたというのだが。

幻の駒の謎を追う探索行を描いた一種のミステリと言えるかもしれない。探偵役を務めるのは、小磯竜介という、もうすぐ五十歳になろうかという中堅会社員。今は将棋に何の関心も示さないが、かつては奨励会で三段まで行ったこともある。残念ながら「満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は退会となる」という年齢制限にひっかかり、プロ棋士への夢を断たれた過去を持つ。

奨励会の年齢制限で挫折し、実人生に戻り損ねた男の話はよく聞く。竜介はウェブ・デザイン関係の会社への就職がすぐに決まり、会社の人間関係がよかったのも幸いし、順調に社会生活に順応していった。しかし、内向的な性格の竜介が珍しく積極的に攻めに出たことがある。奨励会を退会するにあたって師匠に挨拶に行ったとき、「惜しかったな」という言葉と共に餞別としてもらった一組の将棋の駒がすべての発端だった。

就職前の気分転換に信州上田に帰郷した竜介は、応援してくれていた長塚と将棋を指した。そのときに持参した、師匠にもらった駒を誉められ、駒に関する蘊蓄を聞きながら、長塚所有の駒の数々を手にとって眺める機会を得た。それが、勝敗にしか興味がなく、将棋の駒について無関心だった竜介が、駒に魅かれるようになったきっかけだ。長塚は言った。「竜ちゃんは駒が好きなはずだよ。そういう血を引いているんだから」と。

実は、竜介には駒師をしていた大叔父がいた。祖父の弟で他家に養子に行った関岳史だ。終戦の年に外地で戦死しており、竜介が知らなくて当然だ。当時三歳だった父も詳しいことは覚えていない。俄然興味がわいた竜介は、大叔父について調べ始める。伝手を頼り、彼の昔を知る友人、知人を訪ね歩いては、大叔父がどんな人間だったか、彼が彫った駒について何か手がかりがないかを聞いて回る、つまりは探索行である。

人柄がものを言うのか、手がかりの糸が途切れそうになると、どこからともなく次の人が現れては、大叔父の過去を語る。老人の昔話を聞き取るうち、戦時中の人々が嘗めた苦労が尋常ではなかったことが分かってくる。過去は過去としてその後の人生を坦々と生きてきた人もいれば、過去の桎梏から逃れられず、世を拗ねた偏屈な老人になってしまった人物もいる。しかし、そんな偏屈な老人も竜介と将棋を指すうちに、過去の屈託から逃れ、元来の人の好さを取り戻してゆく。

真面目で成績がよく、書も堪能だった岳史は、一人で文学書を読むのが好きな質で友だちは少なかった。ふとした過ちがもとで退学となり、追われるように上田を出た岳史は工場に勤めたが肺を病んだ。その結果、徴兵検査は丙種合格となる。その後、東京に出て駒師の修業を積み、ようやくこれからというところで召集される。そのまま、応召先のシンガポールで戦死し、二度と国に帰ることはなかった。竜介は、そんな大叔父が可哀そうでならない。

しかし、唯一の友人だった同級生が語るのは、いつか今までにない書体で駒を彫る。その書体の銘は「無月」、自分の銘は「玄火」だと決めていたという関の自信に満ちた言葉だ。また、駒師時代の兄弟子だった老人は、「玄火」は既に「無月」の銘を持つ書体の駒を完成していたと語る。素晴らしい出来映えだったが、出征前夜、関がそれまで作った駒を燃やすのを彼は目にする。無事帰国すればまた精進することができる。それがかなわなければ、習作は余人に見られたくないという自信の現れだった。

その後「無月」の駒がシンガポールに残されているかもしれないという話を聞き、竜介は海を渡る。不思議な縁で「無月」の駒は人から人へとめぐりめぐって、様々な人々と竜介との出会いを仲介する。将棋から目を逸らしていた時期、竜介の心の内奥には挫折感から来る鬱屈が残っていた。それが「無月」の駒を探す旅で人と出会い、出征兵士の気持ちに触れたり、かつての敵国人同士、英語で話し合ったりするうちに、いつの間にか、心の中にあったしこりがほぐれていった。竜介は師匠の思い出の残る駒を盤上に並べながら、来し方を振り返り、行末を思う。

「無月」というのは「曇ったり、雨が降ったりしていて月が見えないこと」をいう。特に中秋の名月に使われる。そこにあって当然と考えられるものが無いことからくる、ちょっとひねった感じが俳味となり、秋の季語になっている。主人公は、見えない月を追いかけた。それは将棋の駒であり、竜介の奨励会時代であり、岳史の短い人生でもある。一度はその目でたしかに目にしたが、今はもう見ることはない。しかし、そこにあることは知っている。見えてはいないが、それはそこにある。自分はそれを知っている。それでいいではないか。「無月」、なかなか含蓄のある言葉だ。

 

『ハムネット』マギー・オファーレル 小竹由美子訳

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髪を飾る花冠のために野に咲く草花を摘みに行く話といい、双子の兄妹の入れ替わりといい、魔女の予言によって夫の出世を知った女が、夫をその気にさせ、いざ事が成就した暁にその報いをうける運命の皮肉といい、人に知られた悲劇、喜劇を換骨奪胎して一つに縒り合わせ、マギー・オファーレルは一篇の小説に仕立て直した。これはある「比類ない人」に捧げる一篇の叙事詩なのかもしれない。

多国間を旅する商船のキャビンボーイが、寄港したアレクサンドリアの港で猿使いの猿から一匹のノミをうつされる。やがて、それは船で飼われている猫に、船の中のネズミにと宿主を変えていき、多くの死者を出しながら、船は各国の港に停泊する。船員たちが「アフリカ熱」と呼ぶそれは、死に至る症状のせいで「黒死病」とも呼ばれる「腺ペスト」のことだ。今に変わらず、当時も世界はパンデミックに見舞われていた。

そんな時代のイングランドの話。ロンドンから馬で何日もかかるウォリックシャーはストラトフォードで手袋商を営む一家がいた。十八歳になる長男はグラマースクールも出てラテン語に熟達しているが、手袋を作ったり売ったりすることに興味が持てず、屋根裏部屋で本を読んだり、何かを書いたりしていた。当然、父親はそんな息子のことが気に入らず、何かといえば癇癪をおこして手を上げるので、二人の仲は険悪だった。

ある日、父親が借金の肩代わりに息子に家庭教師をさせる約束を取り付けてくる。仕方なく出かけた農場で、ラテン語教師は農場の娘に出会う。アグネスは先妻の子で、継母は自分になつかない長女を嫌っていた。腕に鷹を止まらせた長身の娘のことは、町で噂になっていた。人の皮膚をつまんで過去や未来を読み、薬草で病気を治すことができる娘を、人々は頼りにしながらも恐れ、中には魔女と呼んだり、頭がおかしいと言ったりする者さえいた。

二人は結ばれ、結婚の約束をするが、一つ問題があった。アグネスには父の遺産があり、八つも年下の手袋商の息子との結婚を継母が認めるはずがなかった。しかし、アグネスが妊娠したことで問題は解決。若夫婦は手袋商の家の離れで暮らすようになる。てきぱきと家事をこなすだけでなく、下働きの者たちへの指示も的確で、手袋商の家は見ちがえたようになる。やがて、二人の間に子が生まれる。ハムネットとジュディスという双子の兄妹だ。

二人はすくすく育つが、その父親は祖父との間にある軋轢で自分を見失っていた。夫の体から嫌な臭いがしてきたことで、アグネスもその危機的状態を知る。夫の皮膚と肉をつまんだときから、彼女には彼が大きな世界に出て行く人だと分かっていた。そのためには夫はこの家を出てロンドンに行く必要がある。アグネスは実の弟の助けを借りて、祖父をその気にさせることに成功する。

この小説は、幼いハムネットが医者を呼びにいくところから始まる。妹が熱を出したのに家に大人がいないのだ。小説や戯曲に主人公の名をつけるのはよくあることだが、ハムネットは主人公ではない。ただ、彼の存在が小説の核となっている。ハムネットが語る現在の物語に彼の誕生以前、両親の出会いから結婚に至るまでの過去の物語が、カットバックで挿入される。場面が変わるたびに、ハムネット、父、母、姉、と視点はくるくる入れ替わる。

張られていた伏線が一気に回収される。ジュディスの病気は腺ペストだった。アグネスと義母の必死の介抱の甲斐あってジュディスは奇跡的に助かるが、それで済むはずがなかった。ジュディスの看病にかかりきりだったアグネスたちの目をすり抜け、病魔はハムネットに襲いかかる。服を交換した二人が入れ替わって家族をからかうのはハムネットが考えた遊びだった。ハムネットは死神の目をごまかそうと妹の服を着て妹のベッドで寝たのだ。

息子が母を探し回っていた時、アグネスは蜜蜂の様子を見に実家の農場に帰っていた。蜜蜂の世話をし、ついでに野に咲く草花を集めている間、ハムネットは一人で妹を助けようと必死だった。「どこへ行ってたのさ」と母を責めるハムネットの声が耳に蘇る。こんな大事な時に、父親をロンドンに行かせたのも私だ。人の未来を読めるはずの自分が大きな過ちを犯してしまった、という思いがアグネスを追いつめる。なまじ、人の未来が読め、病気を治す力が自分にあることが悔やまれてならない。

そんな時、夫の劇団の新作が『ハムレット』と知ったアグネスは夫の真意を考えあぐね、ロンドンに駆けつける。アグネスにはモデルがいる。ヨーマンの娘で名前はアン・ハサウェイ。有名な夫の陰になって割を食っている感がある。文豪の作品を現代風に書き直すのが流行りだが、これも「語り直し」の一種。同じ事実を扱いながら、視点を中心人物から周辺人物に変えることで、見慣れた図柄に全く異なる角度から光が当たり、煤や脂をかぶっていた絵が、今描かれたばかりのように新鮮に立ち現れる。

アントニイ・バージェスも自著の中で、アンについて触れているが、若い男を手玉に取り、妊娠の事実を突きつけ、結婚にこぎつけた婚期を逸した女という従来の解釈から逃れられない。マギー・オファーレルは、アンを手垢のついた女性像から解き放ち、野性的で才知溢れる魅力的な女性にした。どこであれ人目を気にせず草花や小動物と戯れるアグネスのなんと輝いていることか。目に見えるような自然描写や、胸に迫る人物の心理描写が、まるではじめから日本語で書かれたかのように読めることを訳者に感謝したい。

 

『シルバービュー荘にて』 ジョン・ル・カレ 加賀山卓朗訳

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冷戦が終わったとき、これでスパイ小説も終わった、とよく言われた。米英を中心とする資本主義諸国と旧ソ連を盟主とする共産主義諸国がイデオロギーの対立を掲げ、角突き合わせていたからこそ、米英ソの諜報合戦は関心を集めた。冷戦が終われば、スパイは仕事がなくなるだろうと皆が思ったのだ。当然、そんなことはなかった。ル・カレはその後もスパイ小説を書き続けた。ただ、重心の置き方は変わった。

英国情報部はオックスブリッジで部員をリクルートする。パブリック・スクール出身者が多く、家族や交友関係、本人の思想信条について調査するまでもないからだ。彼らは生え抜きであり、組織の頭、中枢になる人材である。代々諜報活動に従事する一家も多く、身内には国政に携わる者も多くいる家柄で、イギリスのために働くことに疑問を持つことはない。

頭だけでは仕事にならない。手足となって働く部員が必要だ。関係諸国の言語に通じ、内部事情に詳しい人員だ。そういう連中の中には、金のために自分の祖国を売る者もいるし、秘密を握られ、仕方なく手を貸す者もいる。だが、自分の思想信条のために自ら進んで渦中に飛び込む者もいる。この手の人間は熱意があり、よく働くが、自分というものを持っているので、ときにはそれが仇をなすこともある。

国家と個人が同じ夢を見ている間はいいが、同床異夢を見出すと厄介だ。人体に喩えるなら、組織の中で他と異なる動きをする細胞は癌だ。早急に切除しなければ命取りになる。そこで、今までは同胞だった者が敵に回る。一人の主人公を中心に話が展開するのではなく、立場を異にする複数の人物が登場し、多視点で語られる。それに応じて時間が前後することもあり、展開が読みにくい。最近のル・カレの特徴だ。

英国に限ったことではないが、肥大化した組織は機能不全を起こす。劣化した組織は疲弊し、情報は停滞し、問題が起こればどこも責任逃れに躍起になる。中枢がそんな状態では末端に混乱が生じるのは必至だ。それが原因で多くの人命を失うことになっても、組織は自分を疑うことはしない。過ちを正視し、誤りを正してこそ死者も浮かばれるのに、決してそうはしない。そんな組織に命を預ける値打ちがあるのか、という問いが生まれる。

『シルバービュー荘にて』は、ル・カレの遺作である。最後まで作品の質を落とさなかったル・カレらしい、上出来のスパイ小説である。イースト・アングリアの海沿いにある小さな町で書店を経営する三十三歳のジュリアンが主人公。父のせいで苦労しているのに、良識があり、正直でぶれることがない。ル・カレが最後に自分の小説を託すに足る人物だ。人を疑うことを知らない書店主が、国家を揺るがす一大機密漏洩事件に巻き込まれる。

大物の女性スパイから、情報部内の内部調査に携わる人物に極秘連絡が入る。機密が漏れているというのだ。事実だとすれば大問題だ。内密に調査を進めるうちに情報漏洩犯の素顔が次第に明らかになる。女スパイの夫はポーランド人。戦時中にユダヤ系の同胞をナチスに売った父を恥じ、ファシストと闘うことに人生を賭けてきた男だ。しかし、組織が彼の情報を軽視したことで、友人が死亡。彼は組織と自分の信条との間で板挟みにされた。

調査の結果、小さな町の中で行われていたスパイ活動が判明する。人は死なない。けが人も出ない。表面上は、町の商店内に置かれたコンピュータで骨董の売り買いをしたり、大量の本を発注したりする、ただそれだけの面白くも何ともない事件である。ところが、驚いたことにそれが英国情報部の検閲をすり抜けてしまっていたから、さあ大変。情報部はおろか、国家の上層部が上を下への大騒ぎになる。

これが、ジョン・ル・カレの遺作だと思うと、いささか感慨深いものがある。というのも、これはいわくつきの父親を持ったせいで、人生のスタート時点で転んでしまった男の物語だからだ。知っての通り、ル・カレの父親は有名な詐欺師で、彼は生涯それに翻弄され続けた。詐欺師とスパイは凄腕の人たらしであることが似ている。人に好かれようとして嘘をつくことに慣れると、人は自分を見失い、相手に合わせて自分を拵える。その結果、アイデンティティを失ってしまうのだ。

『パーフェクト・スパイ』の主人公がそうだった。いい小説だったが、読んでいて辛かった。作家と父親の関係がそのまま反映されているからだ。『シルバービュー荘にて』はちがう。作品に自嘲の苦さがないし、目が過去でなく未来を向いている。ジュリアンとその恋人でスパイ夫婦の娘リリーのアイデンティティ微塵も揺るがない。とんでもない父親ではあったが、二人の父親は組織と袂を分かっても、自分の信条は捨てなかった。これは、作家ル・カレから、かつてその身を置いた「組織」への別れの挨拶なのかもしれない。