青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『時ありて』イアン・マクドナルド 下楠昌哉 訳

ロンドンにあるアパートの一室で本に埋まり、ネットで古書を売っている「私」は、有名な古書店の閉店に伴う在庫の処分品の中から、一冊の本を掘り当てた。E・L著とイニシャルだけが記された詩集で『時ありて』というタイトルだ。第二次世界大戦が専門分野である「私」は、普段なら手を出さないところだが、なぜか好奇心が働いた。刊行は一九三七年五月、イプスウィッチ。出版社は記されていない。紙も表紙の布地もいいものが使われている。中に何かが挟まっている。便箋が一枚。トムからベンに宛てたラブレターだった。

「私」を視点人物とする、手紙にまつわる謎を解いてゆくミステリー調の章と、シングル・ストリートに暮らす「ぼく」とE・Lとの出会いや運命の相手と関係を深めていく話が交互に語られる。「私」の専門が第二次世界大戦関連の戦争物だったというのがミソだ。手紙の中に書かれた地名その他から、だいたいの時期が推測できるからだ。それによると手紙が書かれたのは一九四二年十月。エジプトのエル・アラメインの戦いの最中だと見当がつく。一切合切をフェイスブックに投稿すると、翌朝にはイースト・アングリアから返事が来ていた。誰かがトムとベンを知っていたのだ。

ソーンという女性の曽祖父が従軍牧師としてエジプトにいたとき、二人に会っている。戦時中の記録が屋根裏に残っていて、写真もあるという。「私」はソーンのいるフェンランドに駆けつけた。ベン・セリグマンとトム・チャペルの名が、スフィンクスをバックにした写真の裏に書いてあった。「私」は許可を得たうえで写真を撮影し、一度目にした顔は絶対忘れない、という相貌認識の超能力を持つシャフルザードという帝国戦争博物館に勤める女性にメールで送った。五日後に面白い物を持っていると返事があった。彼女が見つけた写真は一九一五年にステネイシャムのパブの前で撮られているが、そこにトムとベンが写っていた。

面白いのは、二人が所属していたのはオスマン・トルコの大軍と戦っている最中に、消えたと言われる、第五ノーフォーク連隊だったのだ。そして、もう一つ不思議なのは二十年もたっている割には、エジプトで撮られた二人の顔があまり変わっていないことだった。さらに、もう一枚、ボスニア戦争の最中、一九九五年に撮影されたドキュメンタリー番組のビデオをコピーした写真の一枚にセリグマンとチャペルが写っていた。カメラに向かって微笑む二人の顔はどう見ても百五十歳には見えなかった。

どうやらトムとベンはいつも二人一緒にいられるわけではないのが手紙から分かる。二人は離れ離れになったとき、相手との通信手段として、欧州各国の大都市にある古くから続く古書肆に『時ありて』という詩集を売り、書棚に置かれた後、こっそり手紙をはさむ、という手を使っていた。ところが、ロンドンにある「黄金の頁」書店はつぶれてしまった。そして、偶然「私」がその手紙を手に入れることになったのだ。ネットで検索すると『時ありて』を置いている書店は他にもあり、中には複数置いている店もあった。ということは、いつかはそこにトムが顔を出す可能性がある。「私」は店を見張ることにした。

英国SF界の重鎮、イアン・マクドナルドの手になる、詩情溢れる一篇。時を超え、国の垣根を飛び越え、あらゆる戦場に顔を見せる二人はいったい何者なのか。どうしてそんなことが起きるのか。二人の秘密を覗き見た「私」はその謎を解くため、残された文書を手がかりに、関係者を訪ね歩き、真相に迫ってゆく。一方、トムのほうはシングル・ストリートで、軍の仕事の合間を縫ってベンとの束の間の逢瀬を愉しんでいた。こうして「私」が探り当てて行く事の真相とトムによって明かされる事実が一つに撚り合わされたとき、運命ともいえる邂逅に出会うことになる。

基本的には古書にはさまれた手紙の謎を追うミステリといっていいだろう。ある種のタイムトラベル物のSFともいえるが、量子論不確定性原理についてよく知らなくても、二十世紀後半のUFOやオカルト・ブームを知る年代なら十分楽しめる。男性同士の切ない恋愛と「私」とソーンの馴れ合い的な同棲生活との対比が利いているし、ソーンの祖父をはじめとするフェンランドの変人たちの奇矯な振舞いがいかにもイギリスの田舎町といった雰囲気を醸し出している。パリの古書店の迷路めいた佇まいと一風変わった棚づくりも本好きにはたまらない。砂利浜の続く向こうにそびえるマーテロ塔は『ユリシーズ』ファンならお馴染みの物件、といろいろと愉しみの尽きない趣向に満ちている。

 



 

「戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』ローリー・スチュワート 高月園子 訳

「二〇〇〇年のある日、ローリー・スチュワートは故郷のスコットランドを散歩していて、ふと、このまま歩き続けたらどうだろう、と考えた。それがすべての始まりだった。その年、彼はイランを出発し、アフガニスタン、インド、パキスタンを経由しネパールまで、アジア大陸を横切る全長九六〇〇キロを踏破する旅に出た(「訳者あとがき」より)」

だが、タリバンに入国を拒否され、アフガニスタンは後回しにするしかなかった。翌年にタリバン政権が倒れると、彼は大急ぎでネパールから引き返してきたのだ。

通常アフガニスタンの西の都市ヘラートから東のカブールに行くには、ヒッピーたちが旅したように南のカンダハールを経由する。それなのに、あえて最短距離のルートを選択し、積雪三メートルに及ぶ冬の山岳地帯を抜けて歩き通した苛酷な旅の記録だ。誰からも冬季に山岳地帯を行くのは無謀だと説得されるが、南はまだタリバンの勢力下にあり、そこを通るのは危険だ。彼は一刻も早く踏破したかった。歴史学者でもある男はムガール帝国初代皇帝バーブルの日記を通して、彼が同じルートを冬に踏破したことを知っていた。

邦題には「犬と歩く」とあるが、はじめは犬は登場しない。その代わりに武器を携行した男三人が旅のお伴だ。なにしろ、タリバン政権が崩壊してたったの二週間だ。外務官僚のユズフィは言う。「きみはアフガニスタンの観光客第一号だよ。(略)護衛を連れて行きなさい。これは譲れない」。彼は市場で手ごろな木の棒を買い、鍛冶屋に行って両端に補強用の鉄を取り付けてもらう。この杖は「ダング」と呼ばれ、山道を歩くとき重宝するが、いざというときは武器にもなる。

この本のことは、ロバを連れてモロッコを旅している邦人のツイッターで知った。本の影響を受けてのロバ旅らしい。モロッコではマカダム(村長)が行く先々についてきて、次の村まで同行し、そこのマカダムに引き継ぐ。イスラム教の喜捨の精神で、旅人は大事にされるのだ。この本のなかでも、日が暮れて村に着いた旅人は一夜の宿と食事を提供され、翌日次の宿を紹介してもらって旅を続けている。一日の旅程が終わる頃には次の村で休めるようになっている。今は荒れ寂れているが、かつては通商のために人が通った道なのだ。

もっとも、当時のアフガニスタンは、まだ各地でタリバンが戦っており、宗派間、部族間の抗争も続いていた。武器を携行した男たちが同行していては、村人も投宿を拒否できまい。喜捨といえるのかどうか。食事といってもパンとお茶がやっとで、時にはパンさえ出ないときもある。どの村も貧しく自分たちが食べるのもやっとなのだ。旅はおろか、女たちは村から離れることができず隣村のあることさえ知らない。

そんななか、泊まった一軒の家で、犬を連れていけと勧められる。大型のマスティフ犬の一種で、オオカミ対策に飼われているという。ただ、餌代にも事欠く有様で、彼が貰ってくれれば餌にもありつけるだろうという。彼はためらったすえ、その犬を引き受ける。皇帝にあやかって「バーブル」と名づけられた、この犬がいい。イスラム教の国では、犬は不浄な動物とされ、ペット扱いされない。ただ使役されるだけだ。当然、犬の方も飼い主に愛着も示さなければ、遊びにつきあうこともない。だが、スコットランド人はちがう。

はじめは居場所を離れることを嫌がり、歩き出してもすぐに地べたに座り込んで動こうとしない。パンで釣ったり、紐を引っ張ったりしてやっと動き出す始末。ところが、そんなバーブルが少しずつ彼に心を開き出す。雨や雪の中を苦労して歩き、村にたどりつくと、彼は嫌がる村人に頼み込んで、犬をどこか屋根の下で寝させてくれるように頼む。それをすませるまで自分も家の中に入ろうとしない。食事に肉が出ると、犬にも分けてやる。旅が終わったら、スコットランドに連れ帰るつもりでいる。

どこを向いても厳しい自然と貧しい人々の暮らしがあるばかり。そんなある日、険しい山の中で尖塔を発見する。伝説の「ジャムのミナレット」だ。「細かい複雑な彫りの施されたテラコッタターコイズブルーのタイルが線状にはめ込まれた細長い柱が、六〇メートルの高さにそびえている」。塔の首のあたりにはペルシアンブルーのタイルでこう綴られている。「ギヤースウッディーンはヘラートにモスクを、チスティシャリフに修道僧のドームを建て、失われた都ターコイズ・マウンテンをつくったゴール帝国のスルタンだ」

彼はその辺り一帯の司令官の家に誘われ、塔についての話を聞き、地中から掘り出したものを見せてもらう。何人もの考古学者が訪れながら、遂に発見することのできなかった、失われた都ターコイズ・マウンテンの遺跡は、盗掘者の手で掘り出され、二束三文の値で売り飛ばされていた。かつて、チンギス・ハーンに焼き尽くされた伝説の都は、ずっとイスラムの遺跡として守られてきた。しかし、タリバンが追いやられた今、僻遠の地ということもあり、新政府の目も及ばず、せっかくの文化遺産は荒らされ放題になっている。

地下に貴重な文化遺産を蔵しながら、ヤギが食べる草も生えない高地に暮らす人々は、掘り出した遺物を売って暮らすしかない。皮肉なことだ。遺跡を見る目は歴史学者のそれで、この部分は明らかに他とは筆致が異なる。だが、その後、旅は苛酷になる。赤痢に罹り、下痢で体力を奪われながら雪の山道に踏み迷う難行が待っていた。さすがの彼も凍った湖を行く途中で力尽き、もうここで旅を終えてもいい、と雪の中に倒れ込んでしまう。彼を救ったのはバーブルだった。首に吐息をかけて起きるよう促すのだが、それでも動かないでいると、歩いて行って振り返り越しに一声吠える。その姿に彼は自分を恥じ、再び立ち上がる。

バーミヤンの石仏が象徴するように、過去に偉大な文化を擁しながら、行路にはかつてを偲ぶよすがとてない。荒れ寂れて人も通わぬ道も、かつては隊商が駱駝に乗って通った道である。歴史家として彼はそこに何を見ていたのだろう。果たして人類は成長したといえるのだろうか。著者は声高に語ることはないが、書かれたものを読めば、その思いは読者の胸に迫る。淡々とした筆致で綴られた手記には、最後に物語のような思いもかけない幕切れが待っている。この旅に出ることで、彼はバーブルと出会うことができた。これを縁といわず何といえよう。原題“The Places in Between ”を『戦時のアフガニスタンを犬と歩く』とした訳者の思いがわかる気がした。

『フォンターネ 山小屋の生活』パオロ・コニェッティ 関口英子 訳

人里離れた場所にひとりで暮らす生活に憧れる。昔のことになるが『独りだけのウィルダーネス』という本を読んでその気になり、北欧製のキットを買って近隣の山中に丸太小屋を建てたことがある。休日にバルコニーで読書したり、石を組んだ炉で焚火をしたり、愉しいときを過ごしたが、豪雨による土砂崩れで道が不通になり、足が遠のいた。何年かして道が通じたので行ってみたが、扉の鍵が錆びて開かなくなっていた。

手入れして使えないこともないが、今となっては体力がない。そんなわけで、近頃は本を読むことで憧れを満たすことにしている。最近読んだものでは『結ばれたロープ』『ある一生』『帰れない山』などがお気に入り。『フォンターネ 山小屋の生活』は小説ではない。三十歳でスランプに陥って書けなくなった作家が、春から秋にかけて山小屋でひとり苦闘した日々を綴ったものだ。『帰れない山』を発表する三年前のことで、前日譚の趣きを持つ。

ミラノに住む「僕」は、今やすっかり都会っ子だが、子どもの頃は夏の二カ月間、南にアオスタ渓谷を囲む峰々を臨むホテルに陣取り、毎日、岩壁をよじ登ったり氷河を渡ったりした。鬱々とした日々『ウォールデン 森の生活』はじめ、荒野(ウィルダネス)での孤独な日々を綴った本を読むうちに自分の失くしたものに思い至り、標高千九百メートルに建つ山小屋を借りることに。かつて高地放牧の季節に家畜や牧人のために建てられた小屋で、家畜小屋だった一階が寝室と浴室、ソファーの置かれた二階がキッチンと居間にリニューアルされている。電気も通じ、泉からポンプでくみ上げた水が蛇口から出る。

四月の終わりに山に入ると、小屋のあるあたりに人は誰もいなかった。季節外れに降った雪を心配して小屋の持ち主のレミージョがやってくるまでの二週間、「僕」は完全な孤独の中にいた。体が高地に慣れるまでは、眠ることさえ難しかったが、慣れてくると活動を開始した。たどれる道はすべてたどり、地図を書き、見つけたものをノートに書き留めていく。兎やアルプスマーモット、ノロジカ、アイベックス、狐、といった動物たちの様子や、かつてそこに住んでいた人々の生活を物語る道具などの来歴を。

「僕」は望んで孤独な暮しをはじめながら、レミージョの顔を見たとき、人に会うことを喜んでいる自分を発見する。六月が来ると、高地放牧をする牛飼いたちが山にやってくる。牛を追う三匹の番犬とも仲良くなる。首につけた小さな鐘が鳴るので、近づいてくるのが分かるのだ。犬たちは小屋にやってきてはチーズの皮をねだるようになる。ガブリエーレとは、はぐれた牛を連れ戻してやって仲良くなった。力が強く声も大きい男で村で暮らすには何かと規格外れで、山で暮らしているという。

彼が連れてきた牛は低地の人のもので、自分の牛ではない。資産と呼べるものはほとんどなく、冬の間はスキー場で働いているという。ガブリエーレに言わせれば、わざわざこんな暮らしをしている「僕」もまたアウトローで、世を拗ねた者同士、互いに小屋を訪ね合うようになる。「僕」が、トマトソースのスパゲッティやポテト、腸詰めを料理し、一緒にワインを飲む。昔の山の暮らしを語るガブリエーレの話のたねが尽きることはなかった。

七月にはレミージョを手伝って秣を刈った。仕事終わりにビールを飲むうちに関係が深まる。彼の父親は猟師であり、大工であり、物語作家でもあった。狩りや大工仕事を父に教わり、大きくなったが、深酒をするようになった父は、人が変わってしまった。衰弱し、入退院を繰り返していた父は畑で倒れて死ぬのだが、亡くなる前の晩つらく当たったことが彼を苦しめていた。レミージョは読書家でサラマーゴやサルトルカミュを読んでいた。一緒に山を歩くうち、中腹にある小屋の話を聞かされる。父が彼に遺したもので、天然の岩壁を背にし、残る三方を岩壁で囲んだ小屋だ。『帰れない山』に登場するあの小屋である。

夏になり、観光客が大勢やってくると動物たちが姿を消してしまう。動物の後を追うように「僕」もリュックを背に山を放浪するようになる。そんな中、登山小屋で働く同年輩の二人に、自分も働かせてくれと頼み込む。あたりの佇まいが気に入り、しばらく留まってみたくなったのだ。登山小屋で働くアンドレアはまるでもう一人の自分のようだった。不思議なほど気が合ったが、もう一人の自分と始終顔を突き合わせているのは愉快なことではなかった。最後に一緒に山に登り、頂上で別れのワインを空けて登山小屋を出た。

その帰り道、ガレ場で遭難しかけた「僕」は、自分が少しも成長していないことに気づく。「孤独は、森のなかの小屋というより、鏡の家に似ていた。どこに目をやろうと、歪んで醜い自分の鏡像ばかりが際限なく増殖されていく」。冒険は失敗に終わったのだ。小屋に戻った「僕」は新しいノートにフォンターネの樹々の頌歌を書きはじめる。ある日ガブリエーレが一匹の犬を連れてくる。放牧犬には向かないという。試しに山歩きに連れて行くと喜んでついてくる。犬の名はラッキー。「僕」は、レミージョとガブリエーレと三人で最後の食事をし、犬を連れて山を下りることを決める。

確執のあった父の遺作の山小屋、高さや速さを競うのでなく、自分が未踏のルートを探し、知らない山をめぐる山の楽しみ方、気のあった友との山歩き、と『帰れない山』を思わせるエピソードが詰まっている。冒険は挫折に終わるが、渦中の出来事を書いた文章には、清冽な山の息吹きと孤独な心の葛藤が溢れていて、優れた山岳小説を読むようなしみじみとした感動を味わうことができる。人といるより独り居が好きで、本を読んだり、動物と心を通わせることを愛する人に読んでほしい。

 

『キュレーターの殺人』M・W・クレイヴン 東野さやか 訳

国家犯罪対策庁重大犯罪分析課(NCASCAS)の部長刑事ワシントン・ポーと同課分析官ティリー・ブラッドショーがコンビを組んで捜査にあたる『ストーンサークルの殺人』、『ブラックサマーの殺人』に続くシリーズ第三作。今までのなかでの最高傑作。英国北西部に位置するカンブリアは、アイリッシュ海から吹く風の影響で天候が変わりやすく、冬ともなれば雪に覆われる、人間より羊の方が数が多いという辺境の土地。

もともと煩わしい人間関係に嫌気が差し、警察を辞職して人里離れた土地に引っ込んでいたポーだが、その捜査能力を高く買うNCA情報部長ヴァン・ジルの肝いりで、現場に出ていないときはシャップフェルにある自分の小屋ハードウィック・クロフトで仕事をする許可を得ている。クリスマス・イブ、上司のフリンの出産が近いのを祝うパーティーに招かれたポーは、電話を受けたフリンの顔から事件発生を知る。

クリスマス・プレゼントの包みのひとつから切断された人間の指が二本見つかったのだ。それだけではなかった。別人のものと思われる指が、教会の洗礼盤の上、肉屋のショーケースの中で次々に見つかった。すべての現場に#BSC6と記された紙片等が置かれていたことから、カンブリア州警察は重大犯罪と見てNCAに協力を依頼、フリンとポー、ティリーの三人が捜査に加わることになった。

鑑識によれば、一組は男性の、後の二組はそれぞれ女性の指で、死後に切断されている。男性には犯罪歴があり、指紋から住所がわかった。男は自宅で椅子に縛りつけられ、絞殺されていた。女性二人のほうは、行方不明者の捜索依頼から住所が判明したが遺体はなく、どこかに拉致されたものと思われる。ポーが信頼する病理学者のドイルは女性二人の指から、麻酔をかけられていた痕跡を発見する。しかも、指の切断に使われた道具が、三人とも異なっていた。これらは何を意味するのか?

ポーをよく知るカンブリア州警察警視のナイチンゲールは、連絡を欠かさないことを条件にポーに単独での捜査を許可する。このシリーズの強みは、ポーとティリーのバディが一作ごとに成長を遂げていくところにある。天才的な能力を持ちながら、他人の言葉を一字一句鵜呑みにすることで、場にふさわしくない言動を取ってしまいがちなティリーをポーが上手にカバーしながら、捜査に組み入れていく。一方でティリーは自分には見えない物を見る力を持つポーを信頼し、片時も傍を離れない。本作におけるティリーは心身共に成長著しい。

高い塀に囲まれ、厳重に施錠された家から、被害者がどうやって拉致されたかを考えていたポーは、キッチンにやかんがなかったことに気づく。被害者は庭にやってくる鳥の水飲み場が凍るので、毎朝やかんの湯を運んでいたのだ。犯人はそこを狙ったにちがいない。高い塀に囲まれた庭での行動を知るには、より高い場所から監視していたはず。裏手にある高い木の上に登ったポーはそこで凧を見つける。ティリーは凧に詳しい人物に連絡を取り、写真を見せて情報を集める。高価なゲームカイトであることから持ち主が絞り出せる。

しかし、ティリーの分析では凧の持ち主が犯人である可能性は十パーセント。二十二歳という若さも殺しの手口にふさわしくない。ところが尋問の途中、#BSC6と記されたマグの写真を見たとたん、青年は動揺した。青年の話から#BSC6の意味がわかる。青年はダークウェブ上のブラック・スワン・チャレンジというゲームに参加していた。最初はいたずら程度の犯罪からはじまり、次第にハードルを上げていくもので、六番目のチャレンジは、赤の他人を殺し、その肉体の一部をネットに曝すというものだった。

ブルー・ウェール・チャレンジというものが実在する。二〇一七年にロシアで発祥した、SNS等を介して参加者へ自殺を教唆、扇動するコミュニティで、ロシアでは百人以上の自殺者が出たという。ポーに連絡してきたFBIの特別捜査官の話では、アメリカにもホワイト・エレファント・チャレンジなるものがあり、そこでは自殺ではなく人が殺されていた。ただし容疑者は無実というのが彼女の意見。真犯人はキュレーターと呼ばれる男で、ネットを通じて依頼者に身柄を知られることなく、トラブルの解決を請け負っているらしい。

殺された三人の共通点を見つけたポーは、新たな被害者となる可能性のある人物を発見する。男はアイリッシュ海に面したウォルニー諸島のひとつ、モンタギュー島に住んでいた。干潮時には歩いて島まで渡れるので有名なピエル島の沖合いだ。犯罪を未然に防ぐため、ポーは船で島に向かうが、眺望の開けた土地で、人知れず島に近づくことは不可能に思えた。一夜明け、フリンと監視を交代したポーは自宅でシャワーを浴びているとき、あることに気づく。

周りを海に囲まれた絶海の孤島。本格ミステリでいうところのクローズド・サークル。干潮時には船の航行が困難で危機を回避しようにも島に近づく方法がない。ティリーの考えた、ポーが気に入らない方法とは何か。その手があったかと思わず唸った。余談ながら、フリン、ティリーをはじめ、病理学者のドイル、FBI捜査官のリー、捜査の指揮を執るナイチンゲール、とポーを取り巻く人物のほとんどが女性というのが新鮮だ。彼女らの鋭い読みがポーの活躍を支えている。日本の刑事ドラマのようなホモ・ソーシャルの雰囲気が苦手な読者にお勧め。

『精霊たちの迷宮』カルロス・ルイス・サフォン 木村裕美 訳

《上・下巻あわせての評です》

『風の影』『天使のゲーム』『天国の囚人』に続く「忘れられた本の墓場」シリーズ第四部、完結編。バルセロナの地下に隠された本の迷宮を知る、限られた人々を語り手に据えたこのシリーズは、内戦からフランコ独裁政権というスペインの暗黒時代を背景に、史実を大胆に脚色し、作家偏愛のマネキンや人形の並ぶ倉庫や、廃墟、墓場や地下牢を舞台に仮面の怪人が登場する異色の小説世界。作品によって訳者のいう「青春ミステリー」、「幻想ゴシック小説」、「『モンテクリスト伯』風冒険譚」と、作風が変化してきた。

シリーズの狂言回しを務めるのが、フェルミン・ロメロ・デ・トーレスと名乗る大きな鼻をした痩せた男で、スグスというソフトキャラメルが大好物。店の前の路上に倒れていたところを救われたのが縁で、今はダニエルが店主を務めるセンベーレ書店で働いている。国家警察に追われ、投獄された過去を持つが、暗さとは無縁。食欲と性欲に溢れ、饒舌で猥雑な話を愛する陽気な男だ。

そのフェルミンが冒頭に登場し、第四部の主人公アリシアと「忘れられた本の墓場」との出会いを語る。『不思議の国のアリス』から抜け出してきたような少女から、妖艶な魅力を放つファム・ファタルへ、二十年という時間は一人の女を苛酷なまでに変えてみせる。もっとも、二十年が経ち、戦後世界に復帰したとはいえ、スペインはフランコ独裁政権時の膿を出しきっていなかった。本作は、内戦から独裁に至る時代の混乱期を利用してのし上がった権力者たちの過去の闇に目を向けた、ノワール風ミステリ。

戦災孤児アリシアは泥棒の手先をしていたところをリクルートされ、マドリードで保安組織の捜査員となっていた。二十九歳になり、仕事に嫌気が差し、退職を願い出たところ、これが最後と命じられたのが、国家教育大臣マウリシア・バルスの失踪事件だった。しばらく前から人前に姿を見せなくなっていたバルスが、誰にも行先を告げずに家を出たきり帰らない。現職大臣の失踪である。公にできないと見た警察庁長官は保安組織に捜査を命じる。

アリシアと組むのは、元国家警察警部のバルガス。現政権に対する忠誠度が疑問視され、飼い殺し状態にあったが、優秀さを買われて久しぶりに呼び出しがかかる。五十がらみの銀髪の大男である。保安組織というのは、特高や公安と同じで、警察と違い法に縛られない闇の組織だ。はじめは証拠物件を勝手に持ち出し、不法侵入を厭わないアリシアのやり方に反発していたバルガスだが、空襲時に負った傷のせいで鎮痛薬がきれると立つこともできないアリシアの隠し持つ弱さを見て、次第に心を寄せていく。

失踪前夜、バルスはボディーガードと数字が並んだ何かの「リスト」について話をしていた。家を調べると書斎に一冊の本が隠されていた。黒革で装丁された本の名は『精霊たちの迷宮』第七巻「アリアドナと緋の王子」。著者の名はビクトル・マタイス。後の調べでモンジュイックの囚人であったことがわかる。アリシアは本、バルガスはリストの謎を追う。そんなとき、失踪に使われたバルスの車がバルセロナで発見され、舞台はマドリードからバルセロナへと移る。

バルスは地下牢に監禁されていた。かつてモンジュイック監獄の所長を務めていた時期に買った恨みによる復讐らしい。アリシアとバルガスは着々と捜査を進め、真実に近づいてゆくが、指を切り落とされたバルスは壊疽にかかる。そのまま死ぬか、患部を自分で切り落とすか、檻の中に指物師の使う糸鋸が放り込まれ、囚われの身の男は究極の選択を迫られる。二人は無事大臣を取り返すことができるのか、息詰まる展開を見せるサスペンス。

本作から読みだした読者は、第一部から読む方がいいのかと悩むかも知れない。だが、心配は無用。これだけで充分面白い。個人的には四部作中一番面白かった。完結編でもあり、いろいろ盛りだくさんだが、アリシアとバルガスが謎を解くバルス失踪事件の真相は今までと比べようもないほどスペインの闇に迫っている。これがお気に召したら、それまでの作品を読めばいい。そうすることで、四部作が持つ多彩な魅力がいっそう増すことだろう。

真面目一方のダニエル、何を考えているのかつかめないフェルミン、と進行役の二人が、どうにも頼りないのに比べ、アリシアの動きはさすがにプロ。隠された真実を次々と暴いてゆく。それに応じて、暴かれては困る側の動きも激しくなる。二人を追う謎の人物が姿を現し、攻撃をしかける。アリシアに思いを寄せる純情な青年フェルナンディートの活躍もあって、アリシアは難を逃れるが、古傷を傷めつけられ、動きがとれない。フェルミンたちの助けで「失われた本の墓場」に再び身を潜めたアリシアは恢復の時を待つ。

『精霊たちの迷宮』は、独裁政権下のスペインで起きたおぞましい犯罪を暴くミステリである。その一方で、本シリーズを第一部から読んできた読者は、ダニエルとイザベッラ母子のあいだに隠されていた秘密をはじめて知ることになる。入れ子状に構成された物語世界のなか、アリシアバルス失踪事件を解決することで偶然二人の秘密を知ってしまう。「ミステリ」と忘れられた作家たちが書いた本をめぐる「メタフィクション」が融合した、他に類を見ない稀書、それが『精霊たちの迷宮』なのだ。



 

『バージェス家の出来事』エリザベス・ストラウト 小川高義 訳

三分の二は逃げそこなった、と思っている。彼とスーザンは――スーザンには息子のザックも合算して――一家の父親が死んだ日から運命にとらわれた。どうにかしようとは思った。母親も子供のために頑張ってくれた。だが、うまく逃げおおせたのはジムだけだ。

あの日、四歳のボブと双子の妹スーザン、それに長男のジムは車に乗っていた。玄関前の坂道の上に父が車を停め、郵便受けの不具合を直そうと坂道を下りていったあと、車が動き出して父は圧死した。ボブには何の覚えもないが、前の座席にいたので、学校で「お父さんを殺した」と言われ、精神科に通ったこともからかわれた。いつもぼんやりとした不安が心に潜み、弁護士になった今でも法廷でのストレスに耐えられず、上訴支援(リーガル・エイド)の仕事をしている。

人懐っこいボブは誰からも好かれているが、スーザンとはうまくいかない。周囲の目から守ってやろうとして、母親はボブをかわいがった。スポーツが得意で、成績優秀なジムは愛されて当然の子だった。二人に比べると、スーザンは割を食った気がしている。心の底で、母親が自分に冷たいのは、本当は自分が父を殺したからではないかと疑っている。母に愛されなかったから、自分も息子のザックを愛せなかったのでは、と感じている。

ひとり、ジムは優秀な成績で州立大を卒業後、奨学金を得てハーバード・ロー・スクールに進学し、メイン州の司法長官事務所に勤めたあと州を出た。ソウル歌手が愛人を殺した事件を弁護し、無罪を勝ち取ったことがテレビで評判を呼び、今はマンハッタンにある大手法律事務所に勤務している。コネチカット出身の裕福な家の娘と結婚し、二人の子を育て上げ、ブルックリンにある閑静な住宅地パークスロープで夫婦二人暮らしだ。

三人兄妹は、スーザンがメイン州に残り、ジムとボブはニューヨークに出た。何もなければ、それぞれが過去を引きずったまま、残りの人生を送っていたかもしれない。ところが、それが起こった。ひとたびその渦中に飲み込まれると、それぞれの思惑とは別に三人は顔を合わせ、ともに問題解決に向かって力を合わせることになる。それが過去の確執を洗い流し、三者三様に傷を癒し、新しい人生を始めるきっかけをつかむ。

事の起こりは、ザックがモスクに冷凍の豚の頭を投げ込んだことだった。普通なら軽犯罪に問われるところが、シャーリー・フォールズにはケニアの難民キャンプから移住したソマリ人が大勢住んでいて、ヘイトクライムとして扱われる可能性がある。慌てたスーザンはこちらに来て相談に乗ってほしいとジムに電話するが、休暇旅行を明日に控えたジムは、妻の手前もあって即答できない。そこでたまたまジムの家にいたボブが代わりに行くことになる。

心優しいボブは、兄の気持ちを慮って引き受けたものの、自分にジムの代わりが務まるとは思えず、助けてくれよと言いながら車で郷里に向かう。案の定、久しぶりに会うスーザンはけんもほろろで、保釈金を払って家に帰ってきたザックとろくに話もさせてもらえない。それどころかコンビニで酒と煙草を買って帰る際、ソマリ人を轢きかけてパニックを起こし、ジムから借りた車を現地に置いたまま、飛行機でニューヨークに帰って来てしまう。

何年も会ってなかった兄妹が、一家を襲う難題に直面して久しぶりに一つになる。ところが、やってきた弟は役立たず。満を持して登場したジムが集会で演説し、意気揚々と凱旋してみれば、大うけの演説がかえって地元の権力者の反感を買い、甥っ子は連邦から公民権侵害で裁判を受ける羽目に。絶望したザックは家を出て行方知れず。さすがのジムも色を失う。めずらしく弱気になったジムは、ついボブに漏らしてしまう。それまで何度も口にしようとして言い出せなかった、あの日のことだ。

ジムは誰にも言えない秘密を抱えていた。それはボブにとって、足もとの大地が揺れるような驚愕の事実だった。打ち明けられたボブは衝撃を受けた。初めは半信半疑だったが、日が経つにつれ、重く受け止めるようになり、兄との間に距離を置いた。そうこうするうちにあれほどボブの感じていた不安は雲散霧消していた。その間、ジムをめぐる事態は急転していた。ジムは部下と不倫して事務所を追われ、着の身着のまま家を出るところまで追いつめられていた。

いわゆる「中年の危機」である。何もかも思うようにいかなかった。ジムが貧しい暮らしの中、頑張って勉学に勤しんだのは、政治家になって経済的弱者のために働きたかったからだ。ところが、金持ちの娘との結婚生活を維持するため、本来やりたかった政治家ではなく、ホワイトカラーの犯罪者を守る弁護士になっていた。ところが、成長した二人の子が家を出て行くと、あれほど守りたかった家庭は虚ろなものになっていた。

ようやく居所を探し当てたボブに連れられ、ジムはスーザンの家に迎えられた。しばらく会っていなかった間に、何をやっても鈍くてお荷物だったボブが自信を取り戻し、家族を牽引していた。ジムはジムで長年胸に巣くっていた自責の念から解放され、手放しで家族を頼ることができた。実父を頼ってスウェーデンを訪れていたザックが帰ってくることになり、スーザンも人が変わったように人当たりがよくなっている。一家の恢復の予兆が仄見える。

人は弱いもので、時に愚かしい真似もするが、それでも人生は生きるに値する。どんな苦境に陥っても、人は一人きりではない。今更ながら、家族、兄弟という血のつながりの強さを思い知らされる、エリザベス・ストラウトには珍しい、べたな人間賛歌。こんな時代、こんな世界だからこそ、弱さや愚かしさを嘲るのでなく、そっと寄り添いたいと強く思った。

アメリカという、移民大国が抱える人種問題の他に、離婚や不倫、階級差や貧富の差が生み出す問題がある。一度読んだらそれでお終いとはいかない。何度でも読み返したくなる。短篇を得意としてきたエリザベス・ストラウトの長篇小説である。大事な叙述がさりげなく配されている。初読時には見落としがちな、ちょっとした描写が、再読時には人物の心理を読み解く鍵であったことに気づく。そういうことだったのか、と横手を打ちたくなる。長篇小説ならではの愉しみをたっぷり味わえる小説になっている。

 

 

『地図と拳』小川 哲

一八九九年の夏、南下を続ける帝政ロシア軍の狙いと開戦の可能性を調査せよ、という参謀本部の命を受け、高木少尉は松花江を船でハルビンに向かっていた。茶商人に化けて船に乗ったはいいが、貨物船の船室は荷物で塞がれ、乗客で溢れた甲板では何もかもが腐った。腐った物は船から松花江に捨てるのが元時代からの習慣だった。一人の男が死体を投げ捨て、「こいつは燃えない土だ」と呟いた。高木は「どういうことだ?」と尋ねた。

男は「土には三種類ある。一番偉いのが『作物が育つ土』で、二番目が『燃える土』。どうにも使い道のないのが『燃えない土』だ。『燃える土』は作物を腐らせるが、凍えたときに暖をとれる。だが、『燃えない土』はどんな用途にも使えない。死体も同じことだ」と言った。通訳の細川が男の出身地を問うと「奉天の東にある李家鎮(リージャジェン)」と答えた。土が燃えるのは石炭が混じっているからだ。これは使える、と細川は思った。

李家鎮は何もない寒村だったが、その地に居を構える李大綱という男が、冬は暖かく夏は涼しく、アカシアの並木がある美しい土地だ、という噂を流した。相次ぐ戦乱で家を失くし、職を奪われた人々が桃源郷の夢を追い、はるばる来てみると、夏は暑く冬は寒く、アカシアなどどこにもない。怒る人々に、李大綱は、誰がそんな嘘を流したと憤って見せ、住む気があるなら、空いている家に住めばいい、土地ならある、と応じた。帰る家のない人々は李大綱から金を借りて家を修繕し、それぞれ仕事をはじめ、李家鎮は体裁を整えていった。

満州東北部にある架空の村を舞台にした歴史小説である。史実を押さえながらも、正史には登場することのない人物を何人も創り出し、日本が中国、ロシア、そして米英との戦争に非可逆的に引きずり込まれていく時代を描いている。人によって読み方は色々だろうが、こういう読みはどうだろうか。当時の日本は、戦争に駆り立てられていたように見えるが、果たしてそうか? 日本の戦争遂行能力を正確に把握していた者は一人もいなかったのか。もしいたとしたら、その結果はどうなっていただろうか、というものだ。

大陸のはずれで清朝の支配の及び難い満州という土地は、ロシアと戦うことになった場合、日本にとって是非とも押さえておきたい土地であった。また、日露戦争で多くの戦死者を出した手前、放棄もできない。リットン調査団が何と言おうが、むざむざ利権を諦めることは不可能だ。そこで、満州族が自ら支配する独立国という建前を作り、五族協和、王道楽土の美辞麗句で飾り立てた。満州国建国は列強を意識した苦肉の策だった。

五族協和」がどこまで本気だったかは知る由もない。ただ、歴史年表を追うだけで、その当時の日本の軍国主義化にはすさまじいものがあることがわかる。満州国建国に携わった人々の胸にどれほど美しい夢があったのかは知らないが、軍部の力によってそれはどんどんねじまげられていく。その有様を一つのモデルとして描いて見せるのが、李家鎮という街の興亡である。

魯迅の言葉に「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ(『故郷』)」というものがある。「地上に道がない」というのは、冒頭のエピソードでも分かるように、当時の中国では水運が中心だったからだ。

もともとはただの平原であったものを、一人の説話人がかたった話が人々の頭に理想郷を作り上げた。絵空事を信じてやってきた者は無理にでも芝居を続けるよりほかはない。そうして幾人もの人の思いを寄せ集めて出来上がったのが李家鎮。後の仙桃城(シェンタオチェン)である。ロシアにとっては不凍港、旅順に至る要衝、日本にとっては戦争を続けるための石炭という資源の宝庫。仙桃城は、人々の欲望によって築き上げられた架空の都邑だ。

細川は彼の目的にかなう人材を各方面からスカウトしてくる。彼の言い分が通るのは、 参謀本部が後ろで動いているからだろう。満鉄からの依頼で、存在が不確かな「青龍島」の存否を明らかにする仕事についていた須野も細川にスカウトされた一人。須野は細川の紹介で満州で戦死した高木大尉の妻と結婚し、明男という子を授かる。高木の遺児である正男と共に、この親子は日本の勝利の可能性を探ろうと悪戦苦闘する細川の手駒となって働く。

表題の「地図」とは国家を、「拳」は戦争を意味する。この物語は現実には存在しない「青龍島」が、なぜ地図に書き込まれることになったかという謎を追うミステリ風の副主題を持っている。「画家の妻の島」の挿話をはじめとする、地図に関する蘊蓄も愉しい。細川の徹底したリアリズムに対し、須野のロマンティシズムがともすれば暗くなりがちな話に救いを与えている。幼少時より数字にばかり固執する明男が、母の心配をよそに順調に成長し、建築家になるという教養小説的側面も併せ持つ。

登場人物の大半が男性であり、恋愛もなければ房事もない、近頃めずらしいさばさばした小説だ。戦争に材をとりながらも、威張り散らす軍人は脇に追いやられ、主流は知的かつ怜悧な人物で占められているのが読んでいて気持ちがいい。しかし、議論を重ね、言葉を尽くして、日本に戦争遂行能力がないことを解き明かしても、戦争は阻止できない。「問答無用」は日本の病理なのか、と暗澹とした思いに襲われる。それどころか、よくよく見れば、この国は以前より愚昧さを増しているようにさえ見える。せめて、虚構の中だけでも論理的整合性を味わいたい、そんな人にお勧めする。