ホーソーン・シリーズ第五作。第一作はTVのロケ現場にいるアンソニーのところにホーソーンが現れ、自分のことを本に書かないかと持ちかけるところから始まっている。作家自身が狂言回し役を務め、現場での体験をリアルタイムで書くことで、作家の日常とミステリの非日常が混ざりあう。その混ざり具合が絶妙なのだ。ところが、今回はのっけから多数の登場人物がそれぞれの視点でてんでに語りだし、いつまでたってもアンソニーが出てこない。それもそのはず。本作は、めぼしい事件が起きず、新作が書けなくて弱った作家がホーソーンに過去の事件を聞いて書いたもの。当時ホーソーンが組んでいたのは、ジョン・ダドリーという男だった。
舞台はテムズ河近くのリヴァービュー・クロースという昔の王族の屋敷跡。再開発を担当した建築家の目論見は、昔の英国の村のような光景の再現。伝統的な煉瓦を多用し、オランダ切妻の屋根に上げ下げ窓、花壇や低木を組み合わせ、大都市近郊であることを忘れさせようというのだ。電動門扉が閉まったら関係者以外立ち入ることのできない文字通りの囲い地(クロース)。今はそこに、リヴァービュー館、庭師の小屋、厩舎、井戸の家、切妻の家、森の家、と呼ばれる六軒が建つ。他の街区と隔絶されていることもあり、住民の結束は固かった。ジャイルズ・ケンワージーがリヴァービュー館に越してくるまでは。
長年にわたる顔なじみの共同体に新顔が混じることで生じる軋轢。よくある話だ。医者の夫婦が二組、妻に先立たれた元弁護士、年老いた女性二人組、盛りの過ぎたチェスプレイヤーとその妻といった顔ぶれの中に、場違いな金融業者が金にものを言わせて乗り込めば、近隣住民の反感を買うのは必定。客を招いてのパーティーに忙しい両親は、子どもたちが静かな環境を壊しても知らぬふり。これでは早晩何かが起きても不思議はない。が、まさか、ジャイルズ・ケンワージーがクロスボウで射殺されるとは、誰も思わなかった。
担当の警視は、難事件の解決で定評のある元警部の探偵、ホーソーンの助けを借りることにした。しかし、関係者の聞き込みも終わらぬうちに第二の死者が出る。歯医者のブラウン、クロスボウの持ち主だ。鍵がかかった車庫の中の鍵がかかった車中でのガス中毒死。おまけに遺書まであった。ブラウンの妻は病気で窓からの眺めを唯一の慰めとしていた。その美しい庭を壊してプールを作ろうとするケンワージーを彼は憎んでいた。覚悟の自殺か。警視は事件は解決したと判断。しかし、ホーソーンは納得できなかった。住人たちが何かを隠して口を閉ざしていることは明らかだ。彼は調査を続けることにする。
昔の英国の田舎にあるような地内で起きる殺人。クローズド・サークル、密室、死者に恨みを抱く一群の人々とくれば、アガサ・クリスティを思い出さずにいられない。大好きな作家へのオマージュだろう。ホーソーンの活躍を書きながら、ダドリーに出番を奪われたアンソニーは活躍の余地を見つける。それは別の謎を解くことだった。ホーソーンとダドリーとの間に何があって、二人は袂を分かったのか。それでなくともホーソーンの過去は謎に包まれている。その謎を解き明かすのがシリーズを通じてのアンソニーの仕事である。本作は五年の歳月を隔てた二人の探偵の腕比べになっている。なんと太っ腹な、一粒で二度美味しい、どこかのキャラメルみたいだ。
ホーソーンが小出しにして届けてくる当時の捜査資料をもとに、アンソニーが原稿を書き進めるのだが、一部書き終えるたびにホーソーンが検閲するという取り決めになっている。五年前の謎解きが一時中断したところで、アンソニーが顔を出す仕掛け。ホーソーンとの掛け合いや独自の謎解きの合間に、アンソニーのミステリ論議が混じる。キャラメルについてくるおまけのようなものだ。今回は、E・A・ポオやJ・D・カーを引き合いに密室の謎を論じているが、彼は近年になって最高の密室ミステリは日本から生まれていると考えるようになったといい、島田荘司の『斜め屋敷の犯罪』、横溝正史の『本陣殺人事件』の二作を取りあげているのも、日本人としてはうれしいところ。
ホーソーンが漏らす謎解きのヒントを自分で書きながら、書いている本人が真犯人にたどりつけない。それどころか窮地に陥っては相棒に助けられてばかり、というのがシリーズの持ち味。高名な作家が道化役を演じているところがいいのだが、本作におけるダドリーはホーソーンとの相性も完璧で、どうしてこのコンビが解消したのか、と誰でも思う。その謎を解くのがアンソニー。今回のアンソニーは奥さんに何か言われたのか、最後のどんでん返しなど、かっこよすぎる。これはこれで悪くはないが、シリーズ物としては、従来のボケ味も捨てがたい。これまでのアンソニーを恋しく思うのは私ひとりではあるまい。