青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『夜のサーカス』エリン・モーゲンスターン 宇佐川晶子訳

十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、ロンドンを拠点として世界各地を飛びまわるサーカスがあった。<ル・シルク・デ・レーヴ>は普通のサーカスではない。日没から夜明けまでしか開かない<夜のサーカス>なのだ。まだまだ都市近郊に野原や空き地があった時代。予告もなしに、そのサーカスはいきなりやってくる。昨日まで何もなかったところが鉄柵で囲まれ、柵沿いに伸びる遊歩道の向こうに、白と黒の縞柄で統一された高さも広さも様々なテントの群れが忽然と姿を現す。

シーリアは魔術師プロスぺロことヘクター・ボーウェンの娘。はじめて会った五歳の時以来、父から厳しいレッスンを受けて大きくなった。ヘクターとその師アレキサンダーは長年にわたり「挑戦」と称するゲームを行ってきた。弟子同士を駒(プレイヤー)として用い、技を競い合うのだ。娘に自分の血が流れていることを知ったヘクターは、シーリアを「挑戦」の駒に使うことを決める。受けて立つアレキサンダーは孤児院から、後にマルコと名乗るようになる一人の少年を譲り受ける。

修行を終えた二人の弟子の闘いの場に選ばれたのが<ル・シルク・デ・レーヴ>だ。魔術師プロスぺロを高く買う、金持ちの興行師チャンドレッシュ・ルフェーブルが持てる資金とプライドをかけ、超一流の人材をかき集め、金に糸目をつけずにつくり上げた<夢のサ-カス>。十七歳になったシーリアはそのオーディションに合格し、奇術師として採用される。マルコはアレキサンダーの紹介でルフェーブルの秘書を務めることになる。

プロスぺロとアレキサンダーは奇術師ではなく本物の魔法使いだった。魔法使いの血を引くシーリアは、幼いころからカッとなると手も触れずに周りの家具や茶碗をよく壊し、母に「悪魔の子」と呼ばれていた。シーリアは衝動を制御することと、壊したものを元に戻す技法を学ぶ必要があった。ヘクターは娘の才能を磨くため、父というより指導者として娘に厳しく接した。その甲斐あってシーリアはどんな場所でも即座に観客を驚かせる奇術を見せることができた。

オーディションで初めてシーリアの奇術を見たマルコは、彼女が自分の相手だと知り、その技術の高さに打ちのめされる。マルコには魔法使いの血は流れていない。アレキサンダーは昔気質の魔法使いで、教えることができなければ、どんな手法も価値はない、と考えていた。彼は弟子に多くの本を読ませ、世界各地を連れ回して本物の美術や建築物に触れさせ、世界のありようを学ばせた。マルコは身につけた技法を記号や護符という形で常に革綴じの本に書きつけることで魔法を構成する。マルコは他人の頭や心の中に入り込み、それを操るのも得意だった。

シーリアは自分の相手を知らない。その点ではマルコが有利だが、興行師の秘書としてロンドンに住んでいたので、サーカスとともに移動することができない。サーカスがどこにいてもつながっていられる工夫が必要だった。マルコと暮らしていたイゾベルが占い師としてサーカスに入り、中の様子を手紙で知らせることにした。マルコはサーカスの中庭の中央でいつも燃えている篝火に魔法をかけ、サーカスを遠くから操作できるようにした。

こうして始まった二人の「挑戦」だが、自分とは異なる技法を使う相手の繰り出す魔法のかかった出し物に、二人とも激しく魅せられ、ついには合作にまで手を出す始末。ふたりの指導者にとってはこれは誤算だった。ある激しい雨の夜、シーリアは傘の下にいる自分が全然濡れていないことに気づく。追いかけてきたマルコに、それは僕の傘だと告げられ、初めて自分の相手が誰かを知る。サーカスがロンドンにいるとき、ルフェーブルは親しい人々を<真夜中の晩餐>に招待する。サーカスでは好敵手だが、サーカスを離れればただの男と女。二人が惹かれあうのに時間はかからなかった。

問題は、どちらかがこれ以上続けられなくなった時点で勝負がつくというゲームのルールにふたりが縛られていることだ。相手が死ぬまで勝負は続く。ふたりとも、何も知らない子ども時代に指導者の指環で呪縛をかけられていて勝手にゲームを降りることはできない。師の意向に逆らうと途端に全身に激痛が走るのだ。シーリアは魔法を使ってサーカス全体を支え、動かしていたが、もう限界だった。また、マルコが篝火にかけた魔法が関係者の人生に影響を与え、サーカスには綻びが生じてきていた。ふたりはどうやってサーカスとそこで生きる人々を守ることができるのか。

シェイクスピアの『テンペスト』、『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』を下敷きにし、サーカスを舞台に、魔法使いの弟子たちが命がけの愛を紡ぐ物語。魔法でできた摩訶不思議な出し物が細部に至るまで詳細に描かれており、読んでいてわくわくする。また、サーカス内に漂うキャラメルの香りにはじまり、晩餐で供される凝りに凝ったコース料理に至るまで、五感を刺戟してやまない多彩な表現に魅了された。まるで魔法にかけられたような読み心地だ。新作の『地下図書館の海』も図書館好きにはたまらないが、どちらか選べと言われたら、個人的にはレトロスペクティヴなデビュー作のほうを選ぶ。

この物語は、シーリアを軸とした魔法のかかったサーカスの物語と、マサチューセッツ州コンコードに住む少年ベイリーの成長物語という二つの物語で構成されている。主軸はシーリアの物語であり、ベイリーは偶然その物語に入り込んでしまう闖入者という格好になっている。事を分かりにくくしているのは、シーリアの物語の流れに割り込むように挿まれるベイリーの物語が少し先の未来になっていることだ。よく練られたプロットだが、読者は混乱するかもしれない。そのために章のタイトルに続いて、シーリアとベイリーの物語にはそれぞれの時間と場所が記されている。そこさえ気をつければ問題はない。